っているままで大声に情婦を呼びたてる。そして聞き慣れない美しい声の持主というのはジロンド党員の陰謀を密告するために、わざわざカンヌから彼を訪れたのだといって、昨日以来面会を求めている年の若い婦人だと知れる。その婦人に対してある好奇心が動く。破格の面会を許す。
 もうそこにはマラーはいない。醜《みにく》い死骸《しがい》になって、浴槽から半身を乗りだしたまま、その胸は短剣に貫かれて横《よこた》わっている。カンヌから来たという美しい処女シャーロット・コルデーは血の気の失せた唇から「私は自分の仕事を仕遂《しと》げてしまった。今度はあなた方の仕事をする番が来た」と言いながら、悪魔のように殺気立った群衆に取り囲まれて保安裁判所に引かれていく……
 仏国革命に現われでる代表的人物の中でことに気に入ったマラーの最後のありさまは、これだけ込み入った光景をただ一瞬間に集めて、ともすれば西山の頭にまざまざと浮びでた。それは西山にとってはどっちから見てもこの上なく厳粛《げんしゅく》な壮美な印象《イメージ》だった。西山はしばしばそれに駆《か》りたてられた。
「そうかなあ」と森村が言ったあとに、言い合わしたような沈黙が来た。その時西山の頭をこの印象が強く占領した。
「西山は本当に東京に行くつもりなのか」
 睫《まつげ》の明かなくなったような眼の上に皺を寄せながら森村は西山の方に向いた。それが部屋の沈黙をわずかに破った。西山は声よりも首でよけいうなずいた。今までのばか騒ぎに似《に》ず、すべての顔には今までのばか騒ぎに似ぬまじめさと緊張さとが描かれた。
「学資はどうする」
 渡瀬が泣きだすとも笑いだすともしれないような顔をした。稀《まれ》にではあるが彼もその奇怪な性格の中からみごとなものを顔まで浮きださせることがある。その時の顔だ。
 西山はそれを感ずると妙に感傷的にさせられていた。
「労働者になるつもりでいればどうにかなるだろう」
 もう一度長い沈黙が来た。
「貴様は夢を見ているんじゃあるまいな」
 と渡瀬がついに本気になって口を開き始めた。
「今日の演説を聞きながらもそう思ったんだが、社会運動なんてことは実際をいうと、余裕のある人間がすることじゃないかな。ブルジョア気分のものじゃないかな。俺なんかはそんなことは考えもしないがなあ。学問だって俺ゃ勘定ずくでしているんだ。むりでも何んでも大学程度の
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