トロンコになったよ。もう帰りたまえ。星野のいない留守に伴れてきたりすると、帰ってから妬《や》かれるから」
「柿江、貴様《きさま》はローランの首をちょん切った死刑執行人が何んという名前の男だったか知っているか」
 前のは人見が座を立ちそうにしながら、抱きよせたクレオパトラの小さな頭を撫《な》でつつ、にやりと愛嬌《あいきょう》笑《わら》いをしているおたけにいった言葉だが、それをおっ被《かぶ》せるように次の言葉は西山が放った。めちゃくちゃだった。けれども西山は愉快だった。隅の方で、西山が図書館から借りてきたカアライルの仏蘭西《フランス》革命史をめくっていた園が、ふと顔を上げて、まじまじと西山の方を見続けていた。濛々《もうもう》と立ち罩《こ》めた煙草《たばこ》の烟《けむり》と、食い荒した林檎《りんご》と駄菓子。
 柿江は腹をぺったんこに二つに折って、胡坐《あぐら》の膝で貧乏ゆすりをしながら、上眼使いに指の爪を噛《か》んでいた。
 ほど遠い所から聞こえてくる鈍い砲声、その間に時々竹を破るように響く小銃、早拍子な流行歌を唄いつれて、往来をあてもなく騒ぎ廻る女房連や町の子の群れ、志士やごろつきで賑《にぎわ》いかえる珈琲《コーヒー》店、大道演説、三色旗、自由帽、サン・キュロット、ギヨティン、そのギヨティンの形になぞらえて造った玩具や菓子、囚人馬車、護民兵の行進……それが興奮した西山の頭の中で跳《は》ね躍っていた。いっしょに演説した奴らの顔、声、西山自身の手振り、声……それも。
「おい、何とか言いな、柿江」
「貴様の演説が一番よかったよ」
 柿江は爪を噛みつづけたまま、上眼と横眼とをいっしょにつかって、ちらっと西山を見上げながら、途轍《とてつ》もなくこんなことをいった。
 猿みたいだった。少しそねんでいることが知れる。西山は無頓着であろうとした。
「そんなことを聞いているんじゃない。知らずば教えてつかわそう。サムソンというんだ」
 綺麗な疳高《かんだか》い、少し野趣《やしゅ》を帯びた笑声が弾《はじ》けるように響いた。皆んながおたけの方を見た。人見がこごみ加減に何か話しかけていた。異名ガンベ(ガンベッタの略称)の渡瀬がすぐその側にいて、声を出さずに、醜い顔じゅうを笑いにしていた。
「皆んなちょっと聴《き》けちょっと聴け、人見が今西山の真似《まね》をしているから……うまいもんだ」
 ガン
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