じっと我慢しながら、平気な顔をして、数学でも解《と》くように講義している渡瀬さんを不思議に思った。そして渡瀬さんが帰ってから、その一伍一什《いちぶしじゅう》を母に話して聞かせようとして、ふと母の境涯を考えると、とんでもないことをいいかけたと思って、そのまま口には出さないでしまったのだった。
 今日その章を声を出して読むことは、おぬいにはかなり苦しいことだった。もしもこの前のように感情が書いてあることに誘いこまれたら、どうしようと危ぶまずにはいられなかった。どこまでも作り話だと思って読もうと勉めながら、おぬいは始めの方から意訳していった。けれども冒頭からもう涙ぐましい気持にされていた。おぬいはかねてから、自分の身の上にも、いつかは恋愛が来るだろうとは覚悟していた。けれどもそれは、本当に来るのだろうかと疑わねばならぬほど遠いところにあるもので、しかもそれに襲われたが最後、知りながら否応なしに、苦しみと悲しみとに落ちこんでいかねばならぬものとなぜとはなく思いこんでいた。彼女の心の底をゆり動かす怖れといっては実際それだけだった。今おぬいの眼の前には、彼女の心の怖れを裏書きするような事実が語られているのだ。読んでゆくうちにおぬいの心は幾度となく悲しさと悩ましさとのために戦《おのの》いた。あるところでは言葉が震え、あるところでは涙が溢れでようとしたけれども、おぬいは露ほどもそれを渡瀬さんに気取られたくはなかった。そういうところに来ると彼女は已《や》むを得ず口を噤《つぐ》んで、解らないところに出遇《でっくわ》したように装った(おお何という悪いことだろう、私はこのごろ人様の前で自分を偽《いつわ》らねばいられないようになってきた、とおぬいは心の中で嘆息するのだった)。
「そこですか。それは何んでもないじゃありませんか」
 と渡瀬さんは無遠慮にいって、頭のいい人らしくはっきり解るように教えてくれた。おぬいはその間にようやく感情を抑えつけて、また先きを読みつづけてゆくことができた。そしてこういうことが二度三度と重なっていった。おぬいはまた烈しい感情で心を揺り動かされて、胸のところに酸《す》っぱく衝《つ》き上げてくるようなものを感じながら黙ってしまった。しかし渡瀬さんは今度は即座には教えてくれなかった。不思議には思いながらも、しばらくたってから、ようやく顔を上げてみると、渡瀬さんは充血《じ
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