と辷《すべ》っていくのを見た。清逸はふとそれに気を取られて、どこまでもその静かに動いていく行く手を見とどけようとした。たくさんな落葉の中でその木の葉だけは、動くともなく岸から遠ざかっていったが、およそ十間近くも下流の方に下って、一つの瀬に近づいたとおもうころ、その瀬によって惹《ひ》き起される空気の動揺に捲きこまれたのだろうか、たちまち慌《あわた》だしく動き始め、もんどりを打って、横さまに二三度閃いたと思うと、みるみる水の方へと吸いこまれて見えなくなった。そこまで見とどけると清逸は胸の奥に何かなしに淋しいほほ笑みを感じた。そしてまた溜息が出た。
どこもここも住み憂い所のようにこのごろ清逸は感ずるのだった。札幌にいて、入らざる費用をかけていながら学校に出ないのはばからしいし、学校に出るのもばからしかった。彼が専門に研究している農政の講義などは、一日引籠って読書すれば、半月分の講義の材料ができるほど稀薄《きはく》なものだった。自然科学の研究なども、プレパラートと見取り図とを作ることに彼は不器用だったが、それさえ除けば、あまり分りきった事実の排列《はいれつ》にすぎなかった。応用農学は学というべきものではなかった。百姓のしていることに秩序を立てて、それに章節を加えたまでのものと思われた。語学だの数学だのという基礎学は、癇癪《かんしゃく》にさわるほど同級の者たちが呑込みがおそいのでただもどかしさをそそられるばかりだった。それゆえ彼は第一学期の試験が来るまで、じっと自分の家にいて養生をしながら過ごそうと思いついたのだ。しかしながらここも住みよい所ではなかった。あの父、あの母、あの弟。父は暇さえあれば母をつかまえて小言と自慢話ばかりしているし、弟は誰の神経でもいらだたせずにはおかないような鈍いしぶとさを臆面もなくはだけて、一日三界人々の侮蔑《ぶべつ》と嘆きとの種になっている。そしてその上に、健康を著《いちじる》しく損《そん》じて、自分でさえかなり我儘で気むずかしくなったと思うような清逸自身が加わるのだ。自分の家に帰ると、清逸は一人の高慢な無用の長物にすぎないのだ。しかもそれは恐ろしい伝染性の血を吐く危険な厄介物《やっかいもの》でもあるのだ。朋友の間には畏敬《いけい》をもって迎えられる清逸だけれども、自分の家では掃除《そうじ》一つしようともしない怠け者になってしまうのだ。彼の帰った
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