ん》足角を現わしている。経済学史を講じているんだが『富国論』と『資本論』との比較なんかさせるとなかなか足角が現われる。馬脚が現われなければいいなと他人ながら心配がるくらいだ。図書館の本も札幌なんかのと比べものにならない。俺は今リカードの鉄則と取っ組合をしている。
「さてこれからまた取っ組むかな。
「大事にしろよ。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]西山犀川
 十月二十五日夜
     *    *    *
「ガンベさん、あなた今日から三隅さんの所に教えにいらしったの」
 渡瀬は教えに行った旨《むね》を答えて、ちょうど顔のところまで持ち上げて湯気の立つ黄金色を眺めていた、その猪口《ちょこ》に口をつけた。
「おぬいさんって可愛いい方ね」
 そういうだろうと思って、渡瀬は酒をふくみながらその答えまで考えていたのだから、
「あなたほどじゃありませんね」
 とさそくに受けて、今度は「憎らしい」と来るだろうと待っていると、新井田の奥さんは思う壷どおり、やさ睨《にら》みをしながら、
「憎らしい」
 といった。そこで渡瀬はおかしくなってきて、片眼をかがやかして鬼瓦《おにがわら》のような顔をして笑った。笑う時にはなお鬼瓦に似てくるのを渡瀬はよく知っていた。
「この女は俺の顔の醜《みにく》いのを見て、どんなに気をゆるしてふざけても、遠慮からめったなことはしないくらいに俺を見くびっているな。醜い奴には男の心がないとでも思っているのか。ひとついきなり囓《かじ》りついてどのくらい俺が苦しめられているか思い知らしてやろうかしらん」
 渡瀬は真剣にそうおもうことがよくあった。そのくらい新井田の夫人は渡瀬に対して開けっ放しに振舞ったし、渡瀬は心の中で、ありえない誘惑に誘惑されていたのだ。この瞬間にも彼にはそうした衝動が来た。渡瀬は笑いからすぐ渋い顔になった。
「あら変ね、何がそんなにおかしいこと」
 といいながら、銚子《ちょうし》の裾の方を器用に支えて、渡瀬の方にさし延べた。渡瀬もそれを受けに手を延ばした。親指の股に仕事|疣《いぼ》のはいった巌丈な手が、不覚にも心持ち戦《ふる》えるのを感じた。
「でもおぬいさんは星野さんに夢中なんですってね」
 女郎《じょろう》上りめ……渡瀬は不思議に今の言葉で不愉快にされていた。「おぬいさん」と「夢中」という二つの言葉がいっしょに使われるのが何んと
前へ 次へ
全128ページ中58ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング