これは仙子氏が死ぬ年の正月に、私にあてゝ送つてくれた手紙の一節だ。彼女の胸の中にどれほど實感から生れた素材が表現を待つて潜んでゐたかを知ることが出來ると共に、死を始終眼前においてゐねばならなかつたその心に、どんな力の成長が成就されつゝあつたかは、おぼろげながらも察することが出來る。
 最もいゝのは仙子氏が野心家ではなかつたことだらう。實生活の上に彼女がどれほどの覇氣を持つてゐたかは知らない。又創作家としてどれ程の矜恃を持つてゐたかそれも知らない。少くとも仙子氏には自己の能力を放圖もなく買ひ被つて、自分に背負投げを喰ふやうな醜いことは絶對にしなかつたといつていゝだらう。いかなる野心があつたにしても、少くとも彼女は自分の取扱ふ藝術そのものに對してはいつまでも謙抑な處女性を持ち續けてゐた。自分の持つ心の領土の限界を知り、そこから苛察に亘らないだけに貢物を收める勝れた聰明な頭腦を持つてゐた。だからその作品には汚すことの出來ない純眞な味ひが靜かに充ち滿ちてゐる。これは一人の藝術家にとつて、やさしく見えて決してやさしくない仕事だといはなければならない。極めて眞摯な性格のみがこのことを成就し得
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