子どもは目をさまして水を求めました。
 おかあさんはだまっているほかありませんでした。
 子どもは泣きだして、
「お家《うち》に帰りましょう」
 と申します。
「あのおそろしい旅をもう一度ですか。とてもとても。私は海の中にはいるほうがまだましだと思う」
 とおかあさんは答えましたが、
 やはり子どもは、
「お家に行きたい」
 と言い張りました。
 おかあさんは立ち上がりました。
 見るとかなたの丘の後ろにわかい赤楊《はんのき》の林がありましたが、よく見ているとそれがしきりに動きます。それでおかあさんは、すぐそこには人が集まって、聖ヨハネ祭の草屋を作るために、その葉を採っているのだと気がつきました。しかしてそこには水があると見こみをつけてそっちに行ってみました。
 途中には生けがきに取りめぐらされて白い門のある小さな住居のあるのを見ましたが、戸は開いたままになって快く二人のはいるに任せてありました。おかあさんは門をはいって、芍薬《しゃくやく》と耘斗葉《おまき》の園《その》に行きました。見ると窓にはみんなカーテンが引いてありまして、しかもそれがことごとく白い色でした。ただ一つの屋根窓だけが開いていて、二つの棕櫚《しゅろ》の葉の間から白い手が見えて、小さなハンケチを別れをおしんでふるかのようにふっていました。
 おかあさんはまた入り口の階段《かいだん》を上ってみますと、はえしげった草の中に桃金嬢《てんにんか》と白薔薇との花輪が置いてありましたが、花よめの持つのにしては大き過ぎて見えました。
 それから露縁《ぬれえん》に上って案内をこうてみました。
 答える人はありませんので住居の中にはいって行きました。床の上に薔薇にうめられて、銀の足を持って黒綾《くろあや》の棺《ひつぎ》が置いてありました。しかしてその棺の中には、頭に婚礼のかんむりを着けたわかいむすめがねかしてありました。
 その室のかべというのは新しい荒《あら》けずりの松板でヴァニスをかけただけですから、節がよく見えていました。黒ずんだ枝の切り去られたなごりのたまご形の節の数々は目の玉のように思いなされました。
 この奇怪《きかい》な壁のすがたにはじめて目をとめたものはむすめでした。
「まあたくさんな目が」
 とそう言いだしました。
 なるほどいろいろな目がありました。大きくって親切らしいまじめな目や、小さくかがやくあ
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