。そして私の上体を自分の胸の上にたくし込んで、背中を羽がいに抱きすくめた。若し私が産婦と同じ程度にいきんでいなかったら、産婦の腕は私の胸を押しつぶすだろうと思う程だった。そこにいる人々の心は思わず総立ちになった。医師と産婆は場所を忘れたように大きな声で産婦を励ました。
 ふと産婦の握力がゆるんだのを感じて私は顔を挙《あ》げて見た。産婆の膝許《ひざもと》には血の気のない嬰児《えいじ》が仰向けに横たえられていた。産婆は毬《まり》でもつくようにその胸をはげしく敲《たた》きながら、葡萄酒《ぶどうしゅ》葡萄酒といっていた。看護婦がそれを持って来た。産婆は顔と言葉とでその酒を盥《たらい》の中にあけろと命じた。激しい芳芬《ほうふん》と同時に盥の湯は血のような色に変った。嬰児はその中に浸された。暫くしてかすかな産声《うぶごえ》が気息もつけない緊張の沈黙を破って細く響いた。
 大きな天と地との間に一人の母と一人の子とがその刹那《せつな》に忽如《こつじょ》として現われ出たのだ。
 その時新たな母は私を見て弱々しくほほえんだ。私はそれを見ると何んという事なしに涙が眼がしらに滲《にじ》み出て来た。それを私はお
前へ 次へ
全23ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング