火事とポチ
有島武郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)真赤《まっか》な火が

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二十|軒《けん》ぐらいも
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 ポチの鳴き声でぼくは目がさめた。
 ねむたくてたまらなかったから、うるさいなとその鳴き声をおこっているまもなく、真赤《まっか》な火が目に映《うつ》ったので、おどろいて両方の目をしっかり開いて見たら、戸《と》だなの中じゅうが火になっているので、二度おどろいて飛び起きた。そうしたらぼくのそばに寝《ね》ているはずのおばあさまが何か黒い布《きれ》のようなもので、夢中《むちゅう》になって戸だなの火をたたいていた。なんだか知れないけれどもぼくはおばあさまの様子《ようす》がこっけいにも見え、おそろしくも見えて、思わずその方に駆《か》けよった。そうしたらおばあさまはだまったままでうるさそうにぼくをはらいのけておいてその布のようなものをめったやたらにふり回した。それがぼくの手にさわったらぐしょぐしょにぬれているのが知れた。
「おばあさま、どうしたの?」
 と聞いてみた。おばあさまは戸だなの中の火の方ばかり見て答えようともしない。ぼくは火事じゃないかと思った。
 ポチが戸の外で気ちがいのように鳴いている。
 部屋《へや》の中は、障子《しょうじ》も、壁《かべ》も、床《とこ》の間《ま》も、ちがいだなも、昼間のように明るくなっていた。おばあさまの影法師《かげぼうし》が大きくそれに映《うつ》って、怪物《ばけもの》か何かのように動いていた。ただおばあさまがぼくに一言《ひとこと》も物をいわないのが変だった。急に唖《おし》になったのだろうか。そしていつものようにはかわいがってくれずに、ぼくが近寄ってもじゃま者あつかいにする。
 これはどうしても大変だとぼくは思った。ぼくは夢中《むちゅう》になっておばあさまにかじりつこうとした。そうしたらあんなに弱いおばあさまがだまったままで、いやというほどぼくをはらいのけたのでぼくはふすまのところまでけし飛ばされた。
 火事なんだ。おばあさまが一人《ひとり》で消そうとしているんだ。それがわかるとおばあさま一人ではだめだと思ったから、ぼくはすぐ部屋を飛び出して、おとうさんとおかあさんとが寝《ね》ている離《はな》れの所へ行って、
「おとうさん……おかあさん……」
 と思いきり大きな声を出した。
 ぼくの部屋の外で鳴いていると思ったポチがいつのまにかそこに来ていて、きゃんきゃんとひどく鳴いていた。ぼくが大きな声を出すか出さないかに、おかあさんが寝巻《ねま》きのままで飛び出して来た。
「どうしたというの?」
 とおかあさんはないしょ話のような小さな声で、ぼくの両肩《りょうかた》をしっかりおさえてぼくに聞いた。
「たいへんなの……」
「たいへんなの、ぼくの部屋が火事になったよう」といおうとしたが、どうしても「大変なの」きりであとは声が出なかった。
 おかあさんの手はふるえていた。その手がぼくの手を引いて、ぼくの部屋の方に行ったが、あけっぱなしになっているふすまの所から火が見えたら、おかあさんはいきなり「あれえ」といって、ぼくの手をふりはなすなり、その部屋に飛びこもうとした。ぼくはがむしゃらにおかあさんにかじりついた。その時おかあさんははじめてそこにぼくのいるのに気がついたように、うつ向いてぼくの耳の所に口をつけて、
「早く早くおとうさんをお起こしして……それからお隣《となり》に行って、……お隣のおじさんを起こすんです、火事ですって……いいかい、早くさ」
 そんなことをおかあさんはいったようだった。
 そこにおとうさんも走って来た。ぼくはおとうさんにはなんにもいわないで、すぐ上がり口に行った。そこは真暗《まっくら》だった。はだしで土間《どま》に飛びおりて、かけがねをはずして戸をあけることができた。すぐ飛び出そうとしたけれども、はだしだと足をけがしておそろしい病気になるとおかあさんから聞いていたから、暗やみの中で手さぐりにさぐったら大きなぞうりがあったから、だれのだか知らないけれどもそれをはいて戸外《そと》に飛び出した。戸外《そと》も真暗で寒かった。ふだんなら気味が悪くって、とても夜中《よなか》にひとりで歩くことなんかできないのだけれども、その晩だけはなんともなかった。ただ何かにつまずいてころびそうなので、思いきり足を高く上げながら走った。ぼくを悪者《わるもの》とでも思ったのか、いきなりポチが走って来て、ほえながら飛びつこうとしたが、すぐぼくだと知れると、ぼくの前になったりあとになったりして、門の所まで追っかけて来た。そしてぼくが門を出たら、しばらくぼくを見ていたが、すぐ変な鳴き声を立てながら家の方に帰っていってしまった。
 ぼくも夢中で駆《か》け
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