た。お隣《となり》のおじさんの門をたたいて、
「火事だよう!」
と二、三度どなった。その次の家も起こすほうがいいと思ってぼくは次の家の門をたたいてまたどなった。その次にも行った。そして自分の家の方を見ると、さっきまで真暗《まっくら》だったのに、屋根の下の所あたりから火がちょろちょろと燃え出していた。ぱちぱちとたき火のような音も聞こえていた。ポチの鳴き声もよく聞こえていた。
ぼくの家は町からずっとはなれた高台《たかだい》にある官舎町《かんしゃまち》にあったから、ぼくが「火事だよう」といって歩いた家はみんな知った人の家だった。あとをふりかえって見ると、二人三人黒い人影《ひとかげ》がぼくの家の方に走って行くのが見える。ぼくはそれがうれしくって、なおのこと、次の家から次の家へとどなって歩いた。
二十|軒《けん》ぐらいもそうやってどなって歩いたら、自分の家からずいぶん遠くに来てしまっていた。すこし気味が悪くなってぼくは立ちどまってしまった。そしてもう一度家の方を見た。もう火はだいぶ燃え上がって、そこいらの木や板べいなんかがはっきりと絵にかいたように見えた。風がないので、火はまっすぐに上の方に燃えて、火の子が空の方に高く上がって行った。ぱちぱちという音のほかに、ぱんぱんと鉄砲《てっぽう》をうつような音も聞こえていた。立ちどまってみると、ぼくのからだはぶるぶるふるえて、ひざ小僧《こぞう》と下あごとががちがち音を立てるかと思うほどだった。急に家がこいしくなった。おばあさまも、おとうさんも、おかあさんも、妹や弟たちもどうしているだろうと思うと、とてもその先までどなって歩く気にはなれないで、いきなり来た道を夢中《むちゅう》で走りだした。走りながらもぼくは燃え上がる火から目をはなさなかった。真暗《まっくら》ななかに、ぼくの家だけがたき火のように明るかった。顔までほてってるようだった。何か大きな声でわめき合う人の声がした。そしてポチの気ちがいのように鳴く声が。
町の方からは半鐘《はんしょう》も鳴らないし、ポンプも来ない。ぼくはもうすっかり焼けてしまうと思った。明日《あす》からは何を食べて、どこに寝《ね》るのだろうと思いながら、早くみんなの顔が見たさにいっしょうけんめいに走った。
家のすこし手前で、ぼくは一人の大きな男がこっちに走って来るのに会った。よく見るとその男は、ぼくの妹と弟とを両脇《りょうわき》にしっかりとかかえていた。妹も弟も大きな声を出して泣《な》いていた。ぼくはいきなりその大きな男は人さらいだと思った。官舎町《かんしゃまち》の後ろは山になっていて、大きな森の中の古寺に一人の乞食《こじき》が住んでいた。ぼくたちが戦《いくさ》ごっこをしに山に遊びに行って、その乞食を遠くにでも見つけたら最後、大急ぎで、「人さらいが来たぞ」といいながらにげるのだった。その乞食《こじき》の人はどんなことがあっても駆《か》けるということをしないで、ぼろを引きずったまま、のそりのそりと歩いていたから、それにとらえられる気づかいはなかったけれども、遠くの方からぼくたちのにげるのを見ながら、牛のような声でおどかすことがあった。ぼくたちはその乞食を何よりもこわがった。ぼくはその乞食が妹と弟とをさらって行くのだと思った。うまいことには、その人はぼくのそこにいるのには気がつかないほどあわてていたとみえて、知らん顔をして、ぼくのそばを通りぬけて行った。ぼくはその人をやりすごして、すこしの間どうしようかと思っていたが、妹や弟のいどころが知れなくなってしまっては大変だと気がつくと、家に帰るのはやめて、大急ぎでその男のあとを追いかけた。その人はほんとうに早かった。はいている大きなぞうりがじゃまになってぬぎすてたくなるほどだった。
その人は、大きな声で泣きつづけている妹たちをこわきにかかえたまま、どんどん石垣《いしがき》のある横町へと曲がって行くので、ぼくはだんだん気味が悪くなってきたけれども、火事どころのさわぎではないと思って、ほおかぶりをして尻《しり》をはしょったその人の後ろから、気づかれないようにくっついて行った。そうしたらその人はやがて橋本《はしもと》さんという家の高い石段をのぼり始めた。見るとその石段の上には、橋本さんの人たちが大ぜい立って、ぼくの家の方を向いて火事をながめていた。そこに乞食らしい人がのぼって行くのだから、ぼくはすこし変だと思った。そうすると、橋本のおばさんが、上からいきなりその男の人に声をかけた。
「あなた帰っていらしったんですか……ひどくなりそうですね」
そうしたら、その乞食《こじき》らしい人が、
「子どもさんたちがけんのんだから連れて来たよ。竹男《たけお》さんだけはどこに行ったかどうも見えなんだ」
と妹や弟を軽々とかつぎ上げながらいった。な
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