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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)塊的《マツス》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ごまかし[#「ごまかし」に傍点]
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     ○

 運命は現象を支配する、丁度物体が影を支配するやうに。現象によつて暗示される運命の目論見は「死」だ。何となればあらゆる現象の窮極する所は死滅だからである。
 我等の世界に於て物と物とは安定を得てゐない。而して安定を得るための道程にあつて物と物とは相剋してゐる。我等がヱネルギーと称するものはその結果として生じて来る。而してヱネルギーが働いてゐる間我等の間には生命が厳存する。然しながら安定を求めて安定の方に進みつゝある現象が遂に最後の安定に達し得た時には、ヱネルギーは存在するとしても働かなくなる。それは丁度一陣の風によつて惹起された水の上の波が、互に相剋しつゝ結局鏡のやうな波のない水面を造り出すに至るのと同様である。そこには石のやうに黙した水の塊的《マツス》が凝然として澱んでゐるばかりだ。再びそれを動かす力は何所からも働いては来ない。生気は全くその水から絶たれてしまふ。
 我等の世界の現象も遂にはこゝに落付いてしまふだらう。そこには「生」は形をひそめてたゞ一つの「大死」があるばかりだらう。その時運命の目論見は始めて成就されるのだ。
 この已むを得ざる結論を我等は如何しても承認しなければならない。

     ○

 我等「人」は運命のこの目論見を承認する。而かも我等の本能が──人間としての本能が我等に強要するものは死ではなくしてその反対の生である。
 人生に矛盾は多い。それがある時は喜劇的であり、ある時は悲劇的である。而して我等が、歩いて行く到達点が死である事を知り抜きながら、なほ力は極めて生きるが上にも生きんとする矛盾ほど奇怪な恐ろしい矛盾はない。私はそれを人生の最も悲劇的な矛盾であると云はう。

     ○

 我等は現在の瞬間々々に於て本統に生きるものだと云つてゐる。一瞬の未来は兎に角、一瞬の現在は少くとも生の領域だ。そこに我等の存在を意識してゐる以上、未来劫の後に来べき運命の所為を顧慮する要はない。さうある人々は云ふかも知れない。
 然しこれは結局一種のごまかし[#「ごまかし」に傍点]で一種の観念論だ。
 人間と云はず、生物が地上生活を始めるや否や、一として死に脅迫されないものはない。我等の間に醗酵した凡ての哲学は、それが信仰の形式を取るにせよ、観念の形式を取るにせよ、実証の形式を取るにせよ、凡て人の心が「死」に対して惹起した反応に過ぎない。
 我等は我等が意識する以上に本能のどん底から死を恐れてゐるのだ。運命の我等を将て行かうとする所に、必死な尻ごみをしてゐるのだ。

     ○

 ある者は肉体の死滅を恐れる。ある者は事業の死滅を恐れる。ある者は個性の死滅を恐れる。而して食料を求め、医薬を求め、労役し、奔走し、憎み且つ愛する。

     ○

 人間の生活とは畢竟水に溺れて一片の藁にすがらうとする空しいはかない努力ではないのか。

     ○

 然し同時に我等は茲に不思議な一つの現象を人間生活の中に見出すだらう。それはより多くの死を恐れる人をより賢明な、より洞察の鋭い、より智慧の深い人の間に見出すと云ふ事だ。
 これらの人は運命の目論見を常人よりよりよく理解し得る人だと云はなければならぬ。よりよく理解する以上は運命に対してより従順であらねばならぬ筈だ。そこには冷静なストイカルな諦めが湧いて来ねばならぬ筈だ。而して所謂常人が──諦めるだけの理解を有し得ない常人が、最も強く運命に力強い反抗を企てなければならぬ筈だ。生の絶対権を主張せねばならぬ筈だ。
 然るに事実は全く反対の相を呈してゐる。我等の中優れたもの程──運命の企てを知り抜いてゐると思はれる癖に──死に打勝たんとする一念に熱中してゐるやうに見える。

     ○

「主よ、死の杯を我れより放ち給へ」といつた基督の言葉は凡ての優れた人々の魂の号叫を代表する。四苦を見て永生への道を思ひ立つた釈迦は凡ての思慮ある人々の心の発奮を表象する。運命の目論見に最も明らかなるべき彼等のこの態度を我等は痴人の閑葛藤として一笑に附し去る事が出来ないだらう。

     ○

 死への諦めを教へずして生への精進を教へた彼等の心を我等は如何考へねばならぬのか。

     ○

 こゝまで来て我等は、仮相からもう一段深く潜り込んで見ねばならぬ。
 私は死への諦めを教へずして生への精進と云つた。それは然し本統はさうではない。彼等の最後の宣告はその徹底した意味に於て死への諦めを教へたのではない、生への諦めを教へたのだ。生への精進を教へたのではない、死への精進を教へたのだ。さう私は云はねば
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