ならなかつたのだ。
 何故だ。

     ○

 それを私の考へなりに云つて見よう、それはある人々には余りに明白な事であらうけれども。
 彼等は運命の心の徹底的な体験者であるのだ。運命が物と物との間の安定を最後の目的としたやうに、彼等も亦心と心との安定を最後の目的とする本能に燃えてゐた人達なのだ。彼等の表現が如何であれ、その本能の奥底を支配してゐた力は実に相剋から安定への一路だつたのだ。彼等は畢竟運命と同じ歩調もて歩み、同じリズムもて動いたのだ。

     ○

 皮相の混乱から真相の整生へ、仮象の紛雑から実在の統一へ、物質生活の擾動から精神生活の粛約へ、醜から美へ、渾沌から秩序へ、憎から愛へ、迷ひから悟りへ、……即ち相剋から安定へ。
 我等の歴史を見るがいゝ。我等の先覚者を見るがいゝ。又我等自身の心を見るがいゝ。凡てのよき事よき思ひは常に同一の方向に動いてゐるではないか。即ち相剋から安定へ……運命の眼睛の見詰めてゐる方へ。

     ○

 だから我等は何を恐れ何を憚らう。運命は畢竟親切だ。

     ○

 だから我等は恐れずに生きよう。我等の住む世界は不安定の世界だ。我等の心は不安定の心だ。世界と我等の心は屡やうやく建立しかけた安定の礎から辷り落ちる。世界と我等とはあらん限りの失態を演ずる。この醜い蹉跌は永く我等の生活を支配するだらう。それでも構はない。我等はその混乱の中に生きよう。我等は恐れるに及ばない。我等にはその混乱の中にも統一を求める已み難い本能が潜んでゐて、決して消える事がないからだ。それで沢山だ。
 我等は生きよう。我等の周囲に迫つて来る死の諸相に対して極力戦はう。我等は肉体を健全にして死から救ふ為めにあらん限りの衛生を行はう。又社界をより健全な基礎の上に置く為めに、生活を安全にする為めにあらゆる改革を案出しよう。我等の魂を永久ならしめんためにあらゆる死の刺を滅ぼさう。
 我等がかく努力して死に打勝つた時、その時は焉ぞ知らん我等が死の来る道を最も夷らにした時なのだ。人はその時に運命と堅く握手するのだ。人はその時運命の片腕となつて、物々の相剋を安定に持ち来す運命の仕事を助けてゐるのだ。

     ○

 運命が冷酷なものなら、運命を圧倒してその先きまはりをする唯一つの道は、人がその本能の生の執着を育てゝ「大死」を早める事によつて、運命を出し抜く外にはない。運命が親切なものなら運命と握手してその愛撫を受ける唯一つの道は、人がその本能の執着を育てゝ「大死」を早める事によつて、運命を狂喜させる外にはない。何れにしても道は一つだ。

     ○

 だからホイットマンは歌つて云つた。
「来い、可憐ななつかしい死よ、
 地上の限りを隅もなく、落付いた足どりで近付く、近付く、
 昼にも、夜にも、凡ての人に、各の人に、
 早かれ遅かれ、華車な姿の死よ。

 測り難い宇宙は讚むべきかな。
 その生、その喜び、珍らしい諸相と知識、
 又その愛、甘い愛──然しながら更らに更らに讚むべきかな、
 かの冷静に凡てを捲きこむ死の確実な抱擁の手は。

 静かな足どりで小息みなく近づいて来る暗らき母よ。
 心からあなたの為めに歓迎の歌を唄つた人はまだ一人もないと云ふのか。
 それなら私は唄はう──私は凡てに勝つてあなたを光栄としよう。
 あなたが必ず来るものなら、間違ひなく来て下さいと唄ひ出でよう。

 近づけ、力強い救助者!
 それが運命なら──あなたが人々をかき抱いたら。私は喜んでその死者を唄はう。
 あなたの愛に満ちて流れ漂ふ大海原に溶けこんで、
 あなたの法楽の洪水に有頂天になつたその死者を唄はう。オヽ死よ。

 私からあなたに喜びの夜曲を、
 又舞踏を挨拶と共に申出る──部屋の飾りと饗宴も亦。
 若くは広やかな地の景色、若くは高く拡がる空、
 若くは生活、若くは圃園、若くは大きな物思はしい夜は凡てあなたにふさはしい。

 若くは星々に守られた静かな夜、
 若くは海の汀、私の聞き知つたあの皺がれ声でさゝやく波。
 若くは私の魂はあなたに振り向く、オヽ際限もなく大きな、面紗かたき死よ、
 そして肉体は感謝してあなたの膝の上に丸まつて巣喰ふ。

 梢の上から私は歌を空に漂はす、
 紆り動く浪を越えて──無数の圃園と荒涼たる大草原とを越えて、
 建てこんだ凡ての市街と、群衆に埋まる繋船場《ふなつきば》と道路とを越えて、
 私はこの歌を喜び勇んで空に漂はす、オヽ死よ」 (一九一八、九月十七日)



底本:「日本の名随筆96 運」作品社
   1990(平成2)年10月25日第1刷発行
   1996(平成8)年8月25日第6刷発行
底本の親本:「有島武郎全集 第七巻」筑摩書房
   1980(昭和55)年4月発行
入力:石橋幸
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