けれどもとうとう力まかせに引きずられて階子段《はしごだん》を登らせられてしまいました。そこに僕の好きな受持ちの先生の部屋《へや》があるのです。
 やがてその部屋の戸をジムがノックしました。ノックするとは這入《はい》ってもいいかと戸をたたくことなのです。中からはやさしく「お這入《はい》り」という先生の声が聞こえました。僕はその部屋に這入る時ほどいやだと思ったことはまたとありません。
 何か書きものをしていた先生はどやどやと這入って来た僕達を見ると、少し驚いたようでした。が、女の癖に男のように頸《くび》の所でぶつりと切った髪の毛を右の手で撫《な》であげながら、いつものとおりのやさしい顔をこちらに向けて、一寸《ちょっと》首をかしげただけで何の御用という風をしなさいました。そうするとよく出来る大きな子が前に出て、僕がジムの絵具を取ったことを委《くわ》しく先生に言いつけました。先生は少し曇った顔付きをして真面目《まじめ》にみんなの顔や、半分泣きかかっている僕の顔を見くらべていなさいましたが、僕に「それは本当ですか。」と聞かれました。本当なんだけれども、僕がそんないやな奴《やつ》だということをどうしても僕の好きな先生に知られるのがつらかったのです。だから僕は答える代りに本当に泣き出してしまいました。
 先生は暫《しばら》く僕を見つめていましたが、やがて生徒達に向って静かに「もういってもようございます。」といって、みんなをかえしてしまわれました。生徒達は少し物足らなそうにどやどやと下に降りていってしまいました。
 先生は少しの間なんとも言わずに、僕の方も向かずに自分の手の爪を見つめていましたが、やがて静かに立って来て、僕の肩《かた》の所を抱きすくめるようにして「絵具はもう返しましたか。」と小さな声で仰《おっしゃ》いました。僕は返したことをしっかり先生に知ってもらいたいので深々と頷《うなず》いて見せました。
「あなたは自分のしたことをいやなことだったと思っていますか。」
 もう一度そう先生が静かに仰った時には、僕はもうたまりませんでした。ぶるぶると震えてしかたがない唇《くちびる》を、噛《か》みしめても噛みしめても泣声が出て、眼からは涙がむやみに流れて来るのです。もう先生に抱かれたまま死んでしまいたいような心持ちになってしまいました。
「あなたはもう泣くんじゃない。よく解《わか》ったらそれでいいから泣くのをやめましょう、ね。次ぎの時間には教場に出ないでもよろしいから、私《わたくし》のこのお部屋に入らっしゃい。静かにしてここに入らっしゃい。私が教場から帰るまでここに入らっしゃいよ。いい。」と仰りながら僕を長椅子《ながいす》に坐《すわ》らせて、その時また勉強の鐘がなったので、机の上の書物を取り上げて、僕の方を見ていられましたが、二階の窓まで高く這《は》い上《あが》った葡萄蔓《ぶどうづる》から、一房《ひとふさ》の西洋葡萄をもぎって、しくしくと泣きつづけていた僕の膝《ひざ》の上にそれをおいて静かに部屋を出て行きなさいました。

     三

 一時《いちじ》がやがやとやかましかった生徒達はみんな教場《きょうじょう》に這入《はい》って、急にしんとするほどあたりが静かになりました。僕は淋《さび》しくって淋しくってしようがない程《ほど》悲しくなりました。あの位好きな先生を苦しめたかと思うと僕は本当に悪いことをしてしまったと思いました。葡萄《ぶどう》などは迚《とて》も喰《た》べる気になれないでいつまでも泣いていました。
 ふと僕は肩を軽くゆすぶられて眼をさましました。僕は先生の部屋《へや》でいつの間にか泣寝入りをしていたと見えます。少し痩《や》せて身長《せい》の高い先生は笑顔《えがお》を見せて僕を見おろしていられました。僕は眠ったために気分がよくなって今まであったことは忘れてしまって、少し恥しそうに笑いかえしながら、慌《あわ》てて膝の上から辷《すべ》り落ちそうになっていた葡萄の房をつまみ上げましたが、すぐ悲しいことを思い出して笑いも何も引込んでしまいました。
「そんなに悲しい顔をしないでもよろしい。もうみんなは帰ってしまいましたから、あなたはお帰りなさい。そして明日《あす》はどんなことがあっても学校に来なければいけませんよ。あなたの顔を見ないと私《わたくし》は悲しく思いますよ。屹度《きっと》ですよ。」
 そういって先生は僕のカバンの中にそっと葡萄の房を入れて下さいました。僕はいつものように海岸通りを、海を眺《なが》めたり船を眺めたりしながらつまらなく家《いえ》に帰りました。そして葡萄をおいしく喰べてしまいました。
 けれども次の日が来ると僕は中々学校に行く気にはなれませんでした。お腹《なか》が痛くなればいいと思ったり、頭痛がすればいいと思ったりしたけれども、
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