あか》で真黒《まっくろ》になっているあの蓋《ふた》を揚《あ》げると、その中に本や雑記帳や石板《せきばん》と一緒になって、飴《あめ》のような木の色の絵具箱があるんだ。そしてその箱の中には小さい墨のような形をした藍や洋紅の絵具が……僕は顔が赤くなったような気がして、思わずそっぽを向いてしまうのです。けれどもすぐ又《また》横眼でジムの卓《テイブル》の方を見ないではいられませんでした。胸のところがどきどきとして苦しい程《ほど》でした。じっと坐っていながら夢で鬼にでも追いかけられた時のように気ばかりせかせかしていました。
 教場に這入《はい》る鐘がかんかんと鳴りました。僕は思わずぎょっとして立上りました。生徒達が大きな声で笑ったり呶鳴《どな》ったりしながら、洗面所の方に手を洗いに出かけて行くのが窓から見えました。僕は急に頭の中が氷のように冷たくなるのを気味悪く思いながら、ふらふらとジムの卓《テイブル》の所に行って、半分夢のようにそこの蓋を揚げて見ました。そこには僕が考えていたとおり雑記帳や鉛筆箱とまじって見覚えのある絵具箱がしまってありました。なんのためだか知らないが僕はあっちこちを見廻《みまわ》してから、誰も見ていないなと思うと、手早くその箱の蓋を開けて藍と洋紅との二色《ふたいろ》を取上げるが早いかポッケットの中に押込みました。そして急いでいつも整列して先生を待っている所に走って行きました。
 僕達は若い女の先生に連れられて教場に這入り銘々の席に坐りました。僕はジムがどんな顔をしているか見たくってたまらなかったけれども、どうしてもそっちの方をふり向くことができませんでした。でも僕のしたことを誰も気のついた様子がないので、気味が悪いような、安心したような心持ちでいました。僕の大好きな若い女の先生の仰《おっしゃ》ることなんかは耳に這入りは這入ってもなんのことだかちっともわかりませんでした。先生も時々不思議そうに僕の方を見ているようでした。
 僕は然《しか》し先生の眼を見るのがその日に限ってなんだかいやでした。そんな風で一時間がたちました。なんだかみんな耳こすりでもしているようだと思いながら一時間がたちました。
 教場を出る鐘が鳴ったので僕はほっと安心して溜息《ためいき》をつきました。けれども先生が行ってしまうと、僕は僕の級《きゅう》で一番大きな、そしてよく出来る生徒に「ちょっとこっちにお出《い》で」と肱《ひじ》の所を掴《つか》まれていました。僕の胸は宿題をなまけたのに先生に名を指《さ》された時のように、思わずどきんと震えはじめました。けれども僕は出来るだけ知らない振りをしていなければならないと思って、わざと平気な顔をしたつもりで、仕方なしに運動場《うんどうば》の隅《すみ》に連れて行かれました。
「君はジムの絵具を持っているだろう。ここに出し給《たま》え。」
 そういってその生徒は僕の前に大きく拡《ひろ》げた手をつき出しました。そういわれると僕はかえって心が落着いて、
「そんなもの、僕持ってやしない。」と、ついでたらめをいってしまいました。そうすると三四人の友達と一緒に僕の側《そば》に来ていたジムが、
「僕は昼休みの前にちゃんと絵具箱を調べておいたんだよ。一つも失《な》くなってはいなかったんだよ。そして昼休みが済んだら二つ失くなっていたんだよ。そして休みの時間に教場にいたのは君だけじゃないか。」と少し言葉を震わしながら言いかえしました。
 僕はもう駄目《だめ》だと思うと急に頭の中に血が流れこんで来て顔が真赤《まっか》になったようでした。すると誰だったかそこに立っていた一人がいきなり僕のポッケットに手をさし込もうとしました。僕は一生懸命にそうはさせまいとしましたけれども、多勢《たぜい》に無勢《ぶぜい》で迚《とて》も叶《かな》いません。僕のポッケットの中からは、見る見るマーブル球《だま》(今のビー球《だま》のことです)や鉛のメンコなどと一緒に二つの絵具のかたまりが掴み出されてしまいました。「それ見ろ」といわんばかりの顔をして子供達は憎らしそうに僕の顔を睨《にら》みつけました。僕の体《からだ》はひとりでにぶるぶる震えて、眼の前が真暗《まっくら》になるようでした。いいお天気なのに、みんな休時間を面白そうに遊び廻っているのに、僕だけは本当に心からしおれてしまいました。あんなことをなぜしてしまったんだろう。取りかえしのつかないことになってしまった。もう僕は駄目だ。そんなに思うと弱虫だった僕は淋《さび》しく悲しくなって来て、しくしくと泣き出してしまいました。
「泣いておどかしたって駄目だよ」とよく出来る大きな子が馬鹿にするような憎みきったような声で言って、動くまいとする僕をみんなで寄ってたかって二階に引張って行こうとしました。僕は出来るだけ行くまいとした
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