その日に限って虫歯一本痛みもしないのです。仕方なしにいやいやながら家《いえ》は出ましたが、ぶらぶらと考えながら歩きました。どうしても学校の門を這入ることは出来ないように思われたのです。けれども先生の別れの時の言葉を思い出すと、僕は先生の顔だけはなんといっても見たくてしかたがありませんでした。僕が行かなかったら先生は屹度悲しく思われるに違いない。もう一度先生のやさしい眼で見られたい。ただその一事《ひとこと》があるばかりで僕は学校の門をくぐりました。
そうしたらどうでしょう、先《ま》ず第一に待ち切っていたようにジムが飛んで来て、僕の手を握ってくれました。そして昨日《きのう》のことなんか忘れてしまったように、親切に僕の手をひいてどぎまぎしている僕を先生の部屋に連れて行くのです。僕はなんだか訳がわかりませんでした。学校に行ったらみんなが遠くの方から僕を見て「見ろ泥棒の※[#「※」は「ごんべん+虚の旧字体」、117−10]《うそ》つきの日本人が来た」とでも悪口をいうだろうと思っていたのにこんな風にされると気味が悪い程《ほど》でした。
二人の足音を聞きつけてか、先生はジムがノックしない前に、戸を開けて下さいました。二人は部屋の中に這入りました。
「ジム、あなたはいい子、よく私《わたくし》の言ったことがわかってくれましたね。ジムはもうあなたからあやまって貰《もら》わなくってもいいと言っています。二人は今からいいお友達になればそれでいいんです。二人とも上手《じょうず》に握手をなさい。」と先生はにこにこしながら僕達を向い合せました。僕はでもあんまり勝手過ぎるようでもじもじしていますと、ジムはいそいそとぶら下げている僕の手を引張り出して堅く握ってくれました。僕はもうなんといってこの嬉《うれ》しさを表せばいいのか分らないで、唯《ただ》恥しく笑う外《ほか》ありませんでした。ジムも気持よさそうに、笑顔をしていました。先生はにこにこしながら僕に、
「昨日《きのう》の葡萄《ぶどう》はおいしかったの。」と問われました。僕は顔を真赤《まっか》にして「ええ」と白状するより仕方がありませんでした。
「そんなら又あげましょうね。」
そういって、先生は真白《まっしろ》なリンネルの着物につつまれた体《からだ》を窓からのび出させて、葡萄の一房をもぎ取って、真白《まっしろ》い左の手の上に粉のふいた紫色の房を乗せて、細長い銀色の鋏《はさみ》で真中《まんなか》からぷつりと二つに切って、ジムと僕とに下さいました。真白い手《て》の平《ひら》に紫色の葡萄の粒が重って乗っていたその美しさを僕は今でもはっきりと思い出すことが出来ます。
僕はその時から前より少しいい子になり、少しはにかみ屋でなくなったようです。
それにしても僕の大好きなあのいい先生はどこに行かれたでしょう。もう二度とは遇《あ》えないと知りながら、僕は今でもあの先生がいたらなあと思います。秋になるといつでも葡萄の房は紫色に色づいて美しく粉をふきますけれども、それを受けた大理石のような白い美しい手はどこにも見つかりません。
底本:新潮文庫『赤い鳥傑作集』坪田譲治・編
1955(昭和30)年6月25日初版
1974(昭和49)年9月10日改版29刷
1984(昭和59)年10月10日改版44刷
初出:『赤い鳥』大正9年8月号
入力:鈴木厚司
1999年2月13日公開
1999年7月30日修正
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