した。
 「失礼しましてね、ほんとうにきょうは。もう一度でようございますからぜひお会いになってくださいましな。一生のお願いですから、ね」
 と耳打ちするようにささやいたが古藤はなんとも答えず、雨の降り出したのに傘も借りずに出て行った。
 「あなたったらまずいじゃありませんか、なんだってあんな幕に顔をお出しなさるの」
 こうなじるようにいって葉子が座につくと、倉地は飲み終わった茶《ちゃ》わんを猫板《ねこいた》の上にとん[#「とん」に傍点]と音をたてて伏せながら、
 「あの男はお前、ばかにしてかかっているが、話を聞いていると妙に粘り強い所があるぞ。ばかもあのくらいまっすぐにばかだと油断のできないものなのだ。も少し話を続けていてみろ、お前のやり繰りでは間に合わなくなるから。いったいなんでお前はあんな男をかまいつける必要があるんか、わからないじゃないか。木村にでも未練があれば知らない事」
 こういって不敵に笑いながら押し付けるように葉子を見た。葉子はぎくり[#「ぎくり」に傍点]と釘《くぎ》を打たれたように思った。倉地をしっかり[#「しっかり」に傍点]握るまでは木村を離してはいけないと思っている胸算用を倉地に偶然にいい当てられたように思ったからだ。しかし倉地がほんとうに葉子を安心させるためには、しなければならない大事な事が少なくとも一つ残っている。それは倉地が葉子と表向《おもてむ》き結婚のできるだけの始末をして見せる事だ。手っ取り早くいえばその妻を離縁する事だ。それまではどうしても木村をのがしてはならない。そればかりではない、もし新聞の記事などが問題になって、倉地が事務長の位置を失うような事にでもなれば、少し気の毒だけれども木村を自分の鎖から解き放さずにおくのが何かにつけて便宜でもある。葉子はしかし前の理由はおくびにも出さずにあとの理由を巧みに倉地に告げようと思った。
 「きょうは雨になったで出かけるのが大儀《たいぎ》だ。昼には湯豆腐でもやって寝てくれようか」
 そういって早くも倉地がそこに横になろうとするのを葉子はしいて起き返らした。

    二六

 「水戸《みと》とかでお座敷に出ていた人だそうですが、倉地さんに落籍《ひか》されてからもう七八年にもなりましょうか、それは穏当ないい奥さんで、とても商売をしていた人のようではありません。もっとも水戸の士族のお娘御《むすめご》で出るが早いか倉地さんの所にいらっしゃるようになったんだそうですからそのはずでもありますが、ちっともすれていらっしゃらないでいて、気もおつきにはなるし、しとやかでもあり、……」
 ある晩|双鶴館《そうかくかん》の女将《おかみ》が話に来て四方山《よもやま》のうわさのついでに倉地の妻の様子を語ったその言葉は、はっきり[#「はっきり」に傍点]と葉子の心に焼きついていた。葉子はそれが優《すぐ》れた人であると聞かされれば聞かされるほど妬《ねた》ましさを増すのだった。自分の目の前には大きな障害物がまっ暗に立ちふさがっているのを感じた。嫌悪《けんお》の情にかきむしられて前後の事も考えずに別れてしまったのではあったけれども、仮にも恋らしいものを感じた木部に対して葉子がいだく不思議な情緒、――ふだんは何事もなかったように忘れ果ててはいるものの、思いも寄らないきっかけ[#「きっかけ」に傍点]にふと胸を引き締めて巻き起こって来る不思議な情緒、――一種の絶望的なノスタルジア――それを葉子は倉地にも倉地の妻にも寄せて考えてみる事のできる不幸を持っていた。また自分の生んだ子供に対する執着。それを男も女も同じ程度にきびしく感ずるものかどうかは知らない。しかしながら葉子自身の実感からいうと、なんといってもたとえようもなくその愛着は深かった。葉子は定子を見ると知らぬ間《ま》に木部に対して恋に等しいような強い感情を動かしているのに気がつく事がしばしばだった。木部との愛着の結果定子が生まれるようになったのではなく、定子というものがこの世に生まれ出るために、木部と葉子とは愛着のきずなにつながれたのだとさえ考えられもした。葉子はまた自分の父がどれほど葉子を溺愛《できあい》してくれたかをも思ってみた。葉子の経験からいうと、両親共いなくなってしまった今、慕わしさなつかしさを余計感じさせるものは、格別これといって情愛の徴《しるし》を見せはしなかったが、始終|軟《やわ》らかい目色で自分たちを見守ってくれていた父のほうだった。それから思うと男というものも自分の生ませた子供に対しては女に譲らぬ執着を持ちうるものに相違ない。こんな過去の甘い回想までが今は葉子の心をむちうつ笞《しもと》となった。しかも倉地の妻と子とはこの東京にちゃん[#「ちゃん」に傍点]と住んでいる。倉地は毎日のようにその人たちにあっているのに相違ないのだ。
 思う男をどこからどこまで自分のものにして、自分のものにしたという証拠を握るまでは、心が責めて責めて責めぬかれるような恋愛の残虐な力に葉子は昼となく夜となく打ちのめされた。船の中での何事も打ち任せきったような心やすい気分は他人事《ひとごと》のように、遠い昔の事のように悲しく思いやられるばかりだった。どうしてこれほどまでに自分というものの落ちつき所を見失ってしまったのだろう。そう思う下から、こうしては一刻もいられない。早く早くする事だけをしてしまわなければ、取り返しがつかなくなる。どこからどう手をつければいいのだ。敵を斃《たお》さなければ、敵は自分を斃《たお》すのだ。なんの躊躇《ちゅうちょ》。なんの思案。倉地が去った人たちに未練を残すようならば自分の恋は石や瓦《かわら》と同様だ。自分の心で何もかも過去はいっさい焼き尽くして見せる。木部もない、定子もない。まして木村もない。みんな捨てる、みんな忘れる。その代わり倉地にも過去という過去をすっかり忘れさせずにおくものか。それほどの蠱惑《こわく》の力と情熱の炎とが自分にあるかないか見ているがいい。そうしたいちずの熱意が身をこがすように燃え立った。葉子は新聞記者の来襲を恐れて宿にとじこもったまま、火鉢《ひばち》の前にすわって、倉地の不在の時はこんな妄想《もうそう》に身も心もかきむしられていた。だんだん募って来るような腰の痛み、肩の凝り。そんなものさえ葉子の心をますますいらだたせた。
 ことに倉地の帰りのおそい晩などは、葉子は座にも居《い》たたまれなかった。倉地の居間《いま》になっている十畳の間《ま》に行って、そこに倉地の面影《おもかげ》を少しでも忍ぼうとした。船の中での倉地との楽しい思い出は少しも浮かんで来ずに、どんな構えとも想像はできないが、とにかく倉地の住居《すまい》のある部屋《へや》に、三人の娘たちに取り巻かれて、美しい妻にかしずかれて杯を干している倉地ばかりが想像に浮かんだ。そこに脱ぎ捨ててある倉地のふだん着はますます葉子の想像をほしいままにさせた。いつでも葉子の情熱を引っつかんでゆすぶり立てるような倉地特有の膚の香《にお》い、芳醇《ほうじゅん》な酒や、煙草《たばこ》からにおい出るようなその香《にお》いを葉子は衣類をかき寄せて、それに顔を埋《うず》めながら、痲痺《まひ》して行くような気持ちでかぎにかいだ。その香《にお》いのいちばん奥に、中年の男に特有なふけ[#「ふけ」に傍点]のような不快な香《にお》い、他人ののであったなら葉子はひとたまりもなく鼻をおおうような不快な香《にお》いをかぎつけると、葉子は肉体的にも一種の陶酔を感じて来るのだった。その倉地が妻や娘たちに取り巻かれて楽しく一|夕《せき》を過ごしている。そう思うとあり合わせるものを取って打《ぶ》ちこわすか、つかんで引き裂きたいような衝動がわけもなく嵩《こう》じて来るのだった。
 それでも倉地が帰って来ると、それは夜おそくなってからであっても葉子はただ子供のように幸福だった。それまでの不安や焦躁はどこにか行ってしまって、悪夢から幸福な世界に目ざめたように幸福だった。葉子はすぐ走って行って倉地の胸にたわいなく抱かれた。倉地も葉子を自分の胸に引き締めた。葉子は広い厚い胸に抱かれながら、単調な宿屋の生活の一日中に起こった些細《ささい》な事までを、その表情のゆたかな、鈴のような涼しい声で、自分を楽しませているもののごとく語った。倉地は倉地でその声に酔いしれて見えた。二人《ふたり》の幸福はどこに絶頂があるのかわからなかった。二人だけで世界は完全だった。葉子のする事は一つ一つ倉地の心がするように見えた。倉地のこうありたいと思う事は葉子があらかじめそうあらせていた。倉地のしたいと思う事は、葉子がちゃん[#「ちゃん」に傍点]とし遂げていた。茶わんの置き場所まで、着物のしまい所《どころ》まで、倉地は自分の手でしたとおりを葉子がしているのを見いだしているようだった。
 「しかし倉地は妻や娘たちをどうするのだろう」
 こんな事をそんな幸福の最中にも葉子は考えない事もなかった。しかし倉地の顔を見ると、そんな事は思うも恥ずかしいような些細《ささい》な事に思われた。葉子は倉地の中にすっかり[#「すっかり」に傍点]とけ込んだ自分を見いだすのみだった。定子までも犠牲にして倉地をその妻子から切り放そうなどいうたくらみはあまりにばからしい取り越し苦労であるのを思わせられた。
 「そうだ生まれてからこのかたわたしが求めていたものはとうとう来《こ》ようとしている。しかしこんな事がこう手近にあろうとはほんとうに思いもよらなかった。わたしみたいなばかはない。この幸福の頂上が今だとだれか教えてくれる人があったら、わたしはその瞬間に喜んで死ぬ。こんな幸福を見てから下り坂にまで生きているのはいやだ。それにしてもこんな幸福でさえがいつかは下り坂になる時があるのだろうか」
 そんな事を葉子は幸福に浸りきった夢心地の中に考えた。
 葉子が東京に着いてから一週間目に、宿の女将《おかみ》の周旋で、芝《しば》の紅葉館《こうようかん》と道一つ隔てた苔香園《たいこうえん》という薔薇《ばら》専門の植木屋の裏にあたる二階建ての家を借りる事になった。それは元紅葉館の女中だった人がある豪商の妾《めかけ》になったについて、その豪商という人が建ててあてがった一構《ひとかま》えだった。双鶴館《そうかくかん》の女将《おかみ》はその女と懇意の間だったが、女に子供が幾人かできて少し手ぜま過ぎるので他所《よそ》に移転しようかといっていたのを聞き知っていたので、女将のほうで適当な家をさがし出してその女を移らせ、そのあとを葉子が借りる事に取り計らってくれたのだった。倉地が先に行って中の様子を見て来て、杉林《すぎばやし》のために少し日当たりはよくないが、当分の隠れ家《が》としては屈強だといったので、すぐさまそこに移る事に決めたのだった。だれにも知れないように引っ越さねばならぬというので、荷物を小わけして持ち出すのにも、女将《おかみ》は自分の女中たちにまで、それが倉地の本宅に運ばれるものだといって知らせた。運搬人はすべて芝《しば》のほうから頼んで来た。そして荷物があらかた[#「あらかた」に傍点]片づいた所で、ある夜おそく、しかもびしょびしょと吹き降りのする寒い雨風のおりを選んで葉子は幌車《ほろぐるま》に乗った。葉子としてはそれほどの警戒をするには当たらないと思ったけれども、女将《おかみ》がどうしてもきかなかった。安全な所に送り込むまではいったんお引き受けした手まえ、気がすまないといい張った。
 葉子があつらえておいた仕立ておろしの衣類を着かえているとそこに女将《おかみ》も来合わせて脱ぎ返しの世話を見た。襟《えり》の合わせ目をピンで留めながら葉子が着がえを終えて座につくのを見て、女将はうれしそうにもみ手をしながら、
 「これであすこに大丈夫着いてくださりさえすればわたしは重荷が一つ降りると申すものです。しかしこれからがあなたは御大抵《ごたいてい》じゃこざいませんね。あちらの奥様の事など思いますと、どちらにどうお仕向けをしていいやらわたしにはわからなくなります。あなたのお心持ちもわた
前へ 次へ
全47ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング