ものだから……ほんとうをいうとかなり不快を感じていた所だったのです。思ったとおりをいいますから怒《おこ》らないで聞いてください」
「何を怒《おこ》りましょう。ようこそはっきり[#「はっきり」に傍点]おっしゃってくださるわね。あれはわたしもあとでほんとうにすまなかったと思いましたのよ。木村が思うようにわたしは他人の誤解なんぞそんなに気にしてはいないの。小さい時から慣れっこになってるんですもの。だから皆さんが勝手なあて推量《ずいりょう》なぞをしているのが少しは癪《しゃく》にさわったけれども、滑稽《こっけい》に見えてしかたがなかったんですのよ。そこにもって来て電話であなたのお声が聞こえたもんだから、飛び立つようにうれしくって思わずしらずあんな軽はずみな事をいってしまいましたの。木村から頼まれて私の世話を見てくださった倉地という事務長の方《かた》もそれはきさく[#「きさく」に傍点]な親切な人じゃありますけれども、船で始めて知り合いになった方《かた》だから、お心安立《こころやすだ》てなんぞはできないでしょう。あなたのお声がした時にはほんとうに敵の中から救い出されたように思ったんですもの……まあしかしそんな事は弁解するにも及びませんわ。それからどうなさって?」
古藤は例の厚い理想の被《かつぎ》の下から、深く隠された感情が時々きらきらとひらめくような目を、少し物惰《ものたる》げに大きく見開いて葉子の顔をつれづれと見やった。初対面の時には人並みはずれて遠慮がちだったくせに、少し慣れて来ると人を見徹《みとお》そうとするように凝視するその目は、いつでも葉子に一種の不安を与えた。古藤の凝視にはずうずうしいという所は少しもなかった。また故意にそうするらしい様子も見えなかった。少し鈍と思われるほど世事《せじ》にうとく、事物のほんとうの姿を見て取る方法に暗いながら、まっ正直に悪意なくそれをなし遂げようとするらしい目つきだった。古藤なんぞに自分の秘密がなんであばかれてたまるものかと多寡《たか》をくくりつつも、その物軟《ものやわ》らかながらどんどん人の心の中にはいり込もうとするような目つきにあうと、いつか秘密のどん底を誤たずつかまれそうな気がしてならなかった。そうなるにしてもしかしそれまでには古藤は長い間忍耐して待たなければならないだろう、そう思って葉子は一面小気味よくも思った。
こんな目で古藤は、明らかな疑いを示しつつ葉子を見ながら、さらに語り続けた所によれば、古藤は木村の手紙を読んでから思案に余って、その足ですぐ、まだ釘店《くぎだな》の家の留守番をしていた葉子の叔母《おば》の所を尋ねてその考えを尋ねてみようとしたところが、叔母は古藤の立場がどちらに同情を持っているか知れないので、うっかり[#「うっかり」に傍点]した事はいわれないと思ったか、何事も打ち明けずに、五十川《いそがわ》女史に尋ねてもらいたいと逃げを張ったらしい。古藤はやむなくまた五十川女史を訪問した。女史とは築地《つきじ》のある教会堂の執事の部屋《へや》で会った。女史のいう所によると、十日ほど前に田川夫人の所から船中における葉子の不埒《ふらち》を詳細に知らしてよこした手紙が来て、自分としては葉子のひとり旅を保護し監督する事はとても力に及ばないから、船から上陸する時もなんの挨拶《あいさつ》もせずに別れてしまった。なんでもうわさで聞くと病気だといってまだ船に残っているそうだが、万一そのまま帰国するようにでもなったら、葉子と事務長との関係は自分たちが想像する以上に深くなっていると断定してもさしつかえない。せっかく依頼を受けてその責めを果たさなかったのは誠にすまないが、自分たちの力では手に余るのだから推恕《すいじょ》していただきたいと書いてあった。で、五十川女史は田川夫人がいいかげんな捏造《ねつぞう》などする人でないのをよく知っているから、その手紙を重《おも》だった親類たちに示して相談した結果、もし葉子が絵島丸で帰って来たら、回復のできない罪を犯したものとして、木村に手紙をやって破約を断行させ、一面には葉子に対して親類一同は絶縁する申し合わせをしたという事を聞かされた。そう古藤は語った。
「僕《ぼく》はこんな事を聞かされて途方に暮れてしまいました。あなたはさっきから倉地というその事務長の事を平気で口にしているが、こっちではその人が問題になっているんです。きょうでも僕《ぼく》はあなたにお会いするのがいいのか悪いのかさんざん迷いました。しかし約束ではあるし、あなたから聞いたらもっと事柄もはっきり[#「はっきり」に傍点]するかと思って、思いきって伺う事にしたんです。……あっちにたった一人《ひとり》いて五十川《いそがわ》さんから恐ろしい手紙を受け取らなければならない木村君を僕は心から気の毒に思うんです。もしあなたが誤解の中にいるんなら聞かせてください。僕はこんな重大な事を一方口《いっぽうぐち》で判断したくはありませんから」
と話を結んで古藤は悲しいような表情をして葉子を見つめた。小癪《こしゃく》な事をいうもんだと葉子は心の中で思ったけれども、指先でもてあそびながら少し振り仰いだ顔はそのままに、あわれむような、からかうような色をかすかに浮かべて、
「えゝ、それはお聞きくださればどんなにでもお話はしましょうとも。けれども天からわたしを信じてくださらないんならどれほど口をすっぱくしてお話をしたってむだね」
「お話を伺ってから信じられるものなら信じようとしているのです僕は」
「それはあなた方《がた》のなさる学問ならそれでようござんしょうよ。けれども人情ずくの事はそんなものじゃありませんわ。木村に対してやましいことはいたしませんといったってあなたがわたしを信じていてくださらなければ、それまでのものですし、倉地さんとはお友だちというだけですと誓った所が、あなたが疑っていらっしゃればなんの役にも立ちはしませんからね。……そうしたもんじゃなくって?」
「それじゃ五十川さんの言葉だけで僕にあなたを判断しろとおっしゃるんですか」
「そうね。……それでもようございましょうよ。とにかくそれはわたしが御相談を受ける事柄じゃありませんわ」
そういってる葉子の顔は、言葉に似合わずどこまでも優しく親しげだった。古藤はさすがに怜《さか》しく、こうもつれて来た言葉をどこまでも追おうとせずに黙ってしまった。そして「何事も明らさまにしてしまうほうがほんとうはいいのだがな」といいたげな目つきで、格別|虐《しいた》げようとするでもなく、葉子が鼻の先で組んだりほどいたりする手先を見入った。そうしたままでややしばらくの時が過ぎた。
十一時近いこのへんの町並みはいちばん静かだった。葉子はふと雨樋《あまどい》を伝う雨だれの音を聞いた。日本に帰ってから始めて空はしぐれていたのだ。部屋《へや》の中は盛んな鉄びんの湯気《ゆげ》でそう寒くはないけれども、戸外は薄ら寒い日和《ひより》になっているらしかった。葉子はぎごちない二人《ふたり》の間の沈黙を破りたいばかりに、ひょっ[#「ひょっ」に傍点]と首をもたげて腰窓のほうを見やりながら、
「おやいつのまにか雨になりましたのね」
といってみた。古藤はそれには答えもせずに、五|分《ぶ》刈りの地蔵頭《じぞうあたま》をうなだれて深々《ふかぶか》とため息をした。
「僕はあなたを信じきる事ができればどれほど幸いだか知れないと思うんです。五十川さんなぞより僕はあなたと話しているほうがずっ[#「ずっ」に傍点]と気持ちがいいんです。それはあなたが同じ年ごろで、――たいへん美しいというためばかりじゃないと(その時古藤はおぼこらしく顔を赤らめていた)思っています。五十川さんなぞはなんでも物を僻目《ひがめ》で見るから僕はいやなんです。けれどもあなたは……どうしてあなたはそんな気象でいながらもっと大胆に物を打ち明けてくださらないんです。僕《ぼく》はなんといってもあなたを信ずる事ができません。こんな冷淡な事をいうのを許してください。しかしこれにはあなたにも責めがあると僕は思いますよ。……しかたがない僕は木村君にきょうあなたと会ったこのままをいってやります。僕にはどう判断のしようもありませんもの……しかしお願いしますがねえ。木村君があなたから離れなければならないものなら、一刻でも早くそれを知るようにしてやってください。僕は木村君の心持ちを思うと苦しくなります」
「でも木村は、あなたに来たお手紙によるとわたしを信じきってくれているのではないんですか」
そう葉子にいわれて、古藤はまた返す言葉もなく黙ってしまった。葉子は見る見る非常に興奮して来たようだった。抑《おさ》え抑えている葉子の気持ちが抑えきれなくなって激しく働き出して来ると、それはいつでも惻々《そくそく》として人に迫り人を圧した。顔色一つ変えないで元のままに親しみを込めて相手を見やりながら、胸の奥底の心持ちを伝えて来るその声は、不思議な力を電気のように感じて震えていた。
「それで結構。五十川《いそがわ》のおばさんは始めからいやだいやだというわたしを無理に木村に添わせようとして置きながら、今になってわたしの口から一言《ひとこと》の弁解も聞かずに、木村に離縁を勧めようという人なんですから、そりゃわたし恨みもします。腹も立てます。えゝ、わたしはそんな事をされて黙って引っ込んでいるような女じゃないつもりですわ。けれどもあなたは初手《しょて》からわたしに疑いをお持ちになって、木村にもいろいろ御忠告なさった方《かた》ですもの、木村にどんな事をいっておやりになろうともわたしにはねっから[#「ねっから」に傍点]不服はありませんことよ。……けれどもね、あなたが木村のいちばん大切な親友でいらっしゃると思えばこそ、わたしは人一倍あなたをたよりにしてきょうもわざわざこんな所まで御迷惑を願ったりして、……でもおかしいものね、木村はあなたも信じわたしも信じ、わたしは木村も信じあなたも信じ、あなたは木村は信ずるけれどもわたしを疑って……そ、まあ待って……疑ってはいらっしゃりません。そうです。けれども信ずる事ができないでいらっしゃるんですわね……こうなるとわたしは倉地さんにでもおすがりして相談相手になっていただくほかしようがありません。いくらわたし娘の時から周囲《まわり》から責められ通しに責められていても、今だに女手一つで二人《ふたり》の妹まで背負って立つ事はできませんからね。……」
古藤は二重に折っていたような腰を立てて、少しせきこんで、
「それはあなたに不似合いな言葉だと僕は思いますよ。もし倉地という人のためにあなたが誤解を受けているのなら……」
そういってまだ言葉を切らないうちに、もうとうに横浜に行ったと思われていた倉地が、和服のままで突然六畳の間にはいって来た。これは葉子にも意外だったので、葉子は鋭く倉地に目くばせしたが、倉地は無頓着《むとんじゃく》だった。そして古藤のいるのなどは度外視した傍若無人《ぼうじゃくぶじん》さで、火鉢《ひばち》の向こう座にどっかとあぐらをかいた。
古藤は倉地を一目見るとすぐ倉地と悟ったらしかった。いつもの癖で古藤はすぐ極度に固くなった。中断された話の続きを持ち出しもしないで、黙ったまま少し伏《ふ》し目になってひかえていた。倉地は古藤から顔の見えないのをいい事に、早く古藤を返してしまえというような顔つきを葉子にして見せた。葉子はわけはわからないままにその注意に従おうとした。で、古藤の黙ってしまったのをいい事に、倉地と古藤とを引き合わせる事もせずに自分も黙ったまま静かに鉄びんの湯を土《ど》びんに移して、茶を二人《ふたり》に勧めて自分も悠々《ゆうゆう》と飲んだりしていた。
突然古藤は居ずまいをなおして、
「もう僕は帰ります。お話は中途ですけれどもなんだか僕はきょうはこれでおいとまがしたくなりました。あとは必要があったら手紙を書きます」
そういって葉子にだけ挨拶《あいさつ》して座を立った。葉子は例の芸者のような姿のままで古藤を玄関まで送り出
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