がひそやかに三人の姉妹にはいよっていた。もう少し睡気《ねむけ》を催して来た貞世は、泣いたあとの渋い目を手の甲でこすりながら、不思議そうに興奮した青白い姉の顔を見やっていた。愛子は瓦斯《がす》の灯《ひ》に顔をそむけながらしくしくと泣き始めた。
葉子はもうそれを止めようとはしなかった。自分ですら声を出して泣いてみたいような衝動をつき返しつき返し水落《みぞおち》の所に感じながら、火鉢の中を見入ったまま細かく震えていた。
生まれかわらなければ回復しようのないような自分の越し方《かた》行く末が絶望的にはっきり[#「はっきり」に傍点]と葉子の心を寒く引き締めていた。
それでも三人が十六畳に床を敷いて寝てだいぶたってから、横浜から帰って来た倉地が廊下を隔てた隣の部屋《へや》に行くのを聞き知ると、葉子はすぐ起きかえってしばらく妹たちの寝息気《ねいき》をうかがっていたが、二人がいかにも無心に赤々とした頬《ほお》をしてよく寝入っているのを見窮めると、そっとどてら[#「どてら」に傍点]を引っかけながらその部屋を脱け出した。
二五
それから一日置いて次の日に古藤から九時ごろに来るがいいかと電話がかかって来た。葉子は十時すぎにしてくれと返事をさせた。古藤に会うには倉地が横浜に行ったあとがいいと思ったからだ。
東京に帰ってから叔母《おば》と五十川《いそがわ》女史の所へは帰った事だけを知らせては置いたが、どっちからも訪問は元よりの事|一言半句《いちごんはんく》の挨拶《あいさつ》もなかった。責めて来るなり慰めて来るなり、なんとかしそうなものだ。あまりといえば人を踏みつけにしたしわざだとは思ったけれども、葉子としては結句それがめんどうがなくっていいとも思った。そんな人たちに会っていさくさ[#「いさくさ」に傍点]口をきくよりも、古藤と話しさえすればその口裏《くちうら》から東京の人たちの心持ちも大体はわかる。積極的な自分の態度はその上で決めてもおそくはないと思案した。
双鶴館《そうかくかん》の女将《おかみ》はほんとうに目から鼻に抜けるように落ち度なく、葉子の影身《かげみ》になって葉子のために尽くしてくれた。その後ろには倉地がいて、あのいかにも疎大らしく見えながら、人の気もつかないような綿密な所にまで気を配って、采配を振っているのはわかっていた。新聞記者などがどこをどうして探り出したか、始めのうちは押し強く葉子に面会を求めて来たのを、女将《おかみ》が手ぎわよく追い払ったので、近づきこそはしなかったが遠巻きにして葉子の挙動に注意している事などを、女将は眉《まゆ》をひそめながら話して聞かせたりした。木部の恋人であったという事がひどく記者たちの興味をひいたように見えた。葉子は新聞記者と聞くと、震え上がるほどいやな感じを受けた。小さい時分に女記者になろうなどと人にも口外した覚えがあるくせに、探訪などに来る人たちの事を考えるといちばん賤《いや》しい種類の人間のように思わないではいられなかった。仙台《せんだい》で、新聞社の社長と親佐《おやさ》と葉子との間に起こった事として不倫な捏造《ねつぞう》記事(葉子はその記事のうち、母に関してはどのへんまでが捏造《ねつぞう》であるか知らなかった。少なくとも葉子に関しては捏造《ねつぞう》だった)が掲載されたばかりでなく、母のいわゆる寃罪《えんざい》は堂々と新聞紙上で雪《すす》がれたが、自分のはとうとうそのままになってしまった、あの苦い経験などがますます葉子の考えを頑《かたく》なにした。葉子が「報正新報」の記事を見た時も、それほど田川夫人が自分を迫害しようとするなら、こちらもどこかの新聞を手に入れて田川夫人に致命傷を与えてやろうかという(道徳を米の飯と同様に見て生きているような田川夫人に、その点に傷を与えて顔出しができないようにするのは容易な事だと葉子は思った)企《たくら》みを自分ひとりで考えた時でも、あの記者というものを手なずけるまでに自分を堕落させたくないばかりにその目論見《もくろみ》を思いとどまったほどだった。
その朝も倉地と葉子とは女将《おかみ》を話相手に朝飯を食いながら新聞に出たあの奇怪な記事の話をして、葉子がとうにそれをちゃん[#「ちゃん」に傍点]と知っていた事などを談《かた》り合いながら笑ったりした。
「忙しいにかまけて、あれはあのままにしておったが……一つはあまり短兵急にこっち[#「こっち」に傍点]から出しゃばると足もとを見やがるで、……あれはなんとかせんとめんどうだて」
と倉地はがらっ[#「がらっ」に傍点]と箸《はし》を膳《ぜん》に捨てながら、葉子から女将に目をやった。
「そうですともさ。下らない、あなた、あれであなたのお職掌《しょくしょう》にでもけち[#「けち」に傍点]が付いたらほんとうにばかばかしゅうござんすわ。報正新報社にならわたし御懇意の方も二人《ふたり》や三人はいらっしゃるから、なんならわたしからそれとなくお話ししてみてもようございますわ。わたしはまたお二人とも今まであんまり平気でいらっしゃるんで、もうなんとかお話がついたのだとばかり思ってましたの」
と女将は怜《さか》しそうな目に真味な色を見せてこういった。倉地は無頓着《むとんじゃく》に「そうさな」といったきりだったが、葉子は二人《ふたり》の意見がほぼ一致したらしいのを見ると、いくら女将《おかみ》が巧みに立ち回ってもそれをもみ消す事はできないといい出した。なぜといえばそれは田川夫人が何か葉子を深く意趣に思ってさせた事で、「報正新報」にそれが現われたわけは、その新聞が田川博士の機関新聞だからだと説明した。倉地は田川と新聞との関係を始めて知ったらしい様子で意外な顔つきをした。
「おれはまた興録《こうろく》のやつ……あいつはべらべらしたやつで、右左のはっきり[#「はっきり」に傍点]しない油断のならぬ男だから、あいつの仕事かとも思ってみたが、なるほどそれにしては記事の出かたが少し早すぎるて」
そういってやおら立ち上がりながら次の間に着かえに行った。
女中が膳部《ぜんぶ》を片づけ終わらぬうちに古藤が来たという案内があった。
葉子はちょっと当惑した。あつらえておいた衣類がまだできないのと、着具合がよくって、倉地からもしっくり[#「しっくり」に傍点]似合うとほめられるので、その朝も芸者のちょいちょい着《ぎ》らしい、黒繻子《くろじゅす》の襟《えり》の着いた、伝法《でんぽう》な棒縞《ぼうじま》の身幅《みはば》の狭い着物に、黒繻子と水色|匹田《ひった》の昼夜帯《ちゅうやおび》をしめて、どてら[#「どてら」に傍点]を引っかけていたばかりでなく、髪までやはり櫛巻《くしま》きにしていたのだった。えゝ、いい構うものか、どうせ鼻をあかさせるならのっけ[#「のっけ」に傍点]からあかさせてやろう、そう思って葉子はそのままの姿で古藤を待ち構えた。
昔のままの姿で、古藤は旅館というよりも料理屋といったふうの家の様子に少し鼻じろみながらはいって来た。そうして飛び離れて風体《ふうてい》の変わった葉子を見ると、なおさら勝手が違って、これがあの葉子なのかというように、驚きの色を隠し立てもせずに顔に現わしながら、じっ[#「じっ」に傍点]とその姿を見た。
「まあ義一さんしばらく。お寒いのね。どうぞ火鉢《ひばち》によってくださいましな。ちょっと御免くださいよ」そういって、葉子はあでやかに上体だけを後ろにひねって、広蓋《ひろぶた》から紋付きの羽織《はおり》を引き出して、すわったままどてら[#「どてら」に傍点]と着直した。なまめかしいにおいがその動作につれてひそやかに部屋《へや》の中に動いた。葉子は自分の服装がどう古藤に印象しているかなどを考えてもみないようだった。十年も着慣れたふだん着《ぎ》できのうも会ったばかりの弟のように親しい人に向かうようなとりなし[#「とりなし」に傍点]をした。古藤はとみには口もきけないように思い惑っているらしかった。多少|垢《あか》になった薩摩絣《さつまがすり》の着物を着て、観世撚《かんぜより》の羽織|紐《ひも》にも、きちん[#「きちん」に傍点]とはいた袴《はかま》にも、その人の気質が明らかに書き記《しる》してあるようだった。
「こんなでたいへん変な所ですけれどもどうか気楽《きらく》になさってくださいまし。それでないとなんだか改まってしまってお話がしにくくっていけませんから」
心置きない、そして古藤を信頼している様子を巧みにもそれとなく気取《けど》らせるような葉子の態度はだんだん古藤の心を静めて行くらしかった。古藤は自分の長所も短所も無自覚でいるような、そのくせどこかに鋭い光のある目をあげてまじまじと葉子を見始めた。
「何より先にお礼。ありがとうございました妹たちを。おととい二人でここに来てたいへん喜んでいましたわ」
「なんにもしやしない、ただ塾《じゅく》に連れて行って上げただけです。お丈夫ですか」
古藤はありのままをありのままにいった。そんな序曲的な会話を少し続けてから葉子はおもむろに探り知っておかなければならないような事柄《ことがら》に話題を向けて行った。
「今度こんなひょん[#「ひょん」に傍点]な事でわたしアメリカに上陸もせず帰って来る事になったんですが、ほんとうをおっしゃってくださいよ、あなたはいったいわたしをどうお思いになって」
葉子は火鉢《ひばち》の縁《ふち》に両|肘《ひじ》をついて、両手の指先を鼻の先に集めて組んだりほどいたりしながら、古藤の顔に浮かび出るすべての意味を読もうとした。
「えゝ、ほんとうをいいましょう」
そう決心するもののように古藤はいってからひと膝《ひざ》乗り出した。
「この十二月に兵隊に行かなければならないものだから、それまでに研究室の仕事を片づくものだけは片づけて置こうと思ったので、何もかも打ち捨てていましたから、このあいだ横浜からあなたの電話を受けるまでは、あなたの帰って来られたのを知らないでいたんです。もっとも帰って来られるような話はどこかで聞いたようでしたが。そして何かそれには重大なわけがあるに違いないとは思っていましたが。ところがあなたの電話を切るとまもなく木村君の手紙が届いて来たんです。それはたぶん絵島丸より一日か二日早く大北《たいほく》汽船会社の船が着いたはずだから、それが持って来たんでしょう。ここに持って来ましたが、それを見て僕《ぼく》は驚いてしまったんです。ずいぶん長い手紙だからあとで御覧になるなら置いて行きましょう。簡単にいうと(そういって古藤はその手紙の必要な要点を心の中で整頓《せいとん》するらしくしばらく黙っていたが)木村君はあなたが帰るようになったのを非常に悲しんでいるようです。そしてあなたほど不幸な運命にもてあそばれる人はない。またあなたほど誤解を受ける人はない。だれもあなたの複雑な性格を見窮めて、その底にある尊い点を拾い上げる人がないから、いろいろなふうにあなたは誤解されている。あなたが帰るについては日本でも種々さまざまな風説が起こる事だろうけれども、君だけはそれを信じてくれちゃ困る。それから……あなたは今でも僕の妻だ……病気に苦しめられながら、世の中の迫害を存分に受けなければならないあわれむべき女だ。他人がなんといおうと君だけは僕を信じて……もしあなたを信ずることができなければ僕を信じて、あなたを妹だと思ってあなたのために戦ってくれ……ほんとうはもっと最大級の言葉が使ってあるのだけれども大体そんな事が書いてあったんです。それで……」
「それで?」
葉子は目の前で、こんがらがった糸が静かにほごれて行くのを見つめるように、不思議な興味を感じながら、顔だけは打ち沈んでこう促した。
「それでですね。僕はその手紙に書いてある事とあなたの電話の『滑稽《こっけい》だった』という言葉とをどう結び付けてみたらいいかわからなくなってしまったんです。木村の手紙を見ない前でもあなたのあの電話の口調には……電話だったせいかまるでのんきな冗談口のようにしか聞こえなかった
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