書いた自分に愛想が尽きてしまった。
 つやは恐ろしいまでに激昂《げきこう》した葉子の顔を見やりもし得ないで、おずおずと立ちもやらずにそこにかしこまっていた。葉子はそれがたまらないほど癪《しゃく》にさわった。自分に対してすべての人が普通の人間として交わろうとはしない。狂人にでも接するような仕打ちを見せる。だれも彼もそうだ。医者までがそうだ。
 「もう用はないのよ。早くあっちにおいで。お前はわたしを気狂《きちが》いとでも思っているんだろうね。……早く手術をしてくださいってそういっておいで。わたしはちゃん[#「ちゃん」に傍点]と死ぬ覚悟をしていますからってね」
 ゆうべなつかしく握ってやったつやの手の事を思い出すと、葉子は嘔吐《おうと》を催すような不快を感じてこういった。きたないきたない何もかもきたない。つやは所在なげにそっ[#「そっ」に傍点]とそこを立って行った。葉子は目でかみつくようにその後ろ姿を見送った。
 その日天気は上々で東向きの壁はさわってみたら内部からでもほんのり[#「ほんのり」に傍点]と暖かみを感ずるだろうと思われるほど暑くなっていた。葉子はきのうまでの疲労と衰弱とに似ず、その日は起きるとから黙って臥《ね》てはいられないくらい、からだが動かしたかった。動かすたびごとに襲って来る腹部の鈍痛や頭の混乱をいやが上にも募らして、思い存分の苦痛を味わってみたいような捨てばちな気分になっていた。そしてふらふらと少しよろけながら、衣紋《えもん》も乱したまま部屋《へや》の中を片づけようとして床の間の所に行った。懸《か》け軸もない床の間の片すみにはきのう古藤が持って来た花が、暑さのために蒸《む》れたようにしぼみかけて、甘ったるい香を放ってうなだれていた。葉子はガラスびんごとそれを持って縁側の所に出た。そしてその花のかたまり[#「かたまり」に傍点]の中にむずと熱した手を突っ込んだ。死屍《しし》から来るような冷たさが葉子の手に伝わった。葉子の指先は知らず知らず縮まって没義道《もぎどう》にそれを爪《つめ》も立たんばかり握りつぶした。握りつぶしてはびんから引き抜いて手欄《てすり》から戸外に投げ出した。薔薇《ばら》、ダリア、小田巻《おだまき》、などの色とりどりの花がばらばらに乱れて二階から部屋の下に当たるきたない路頭に落ちて行った。葉子はほとんど無意識に一つかみずつそうやって投げ捨てた。そして最後にガラスびんを力任せにたたきつけた。びんは目の下で激しくこわれた。そこからあふれ出た水がかわききった縁側板に丸い斑紋《はんもん》をいくつとなく散らかして。
 ふと見ると向こうの屋根の物干し台に浴衣《ゆかた》の類を持って干しに上がって来たらしい女中風の女が、じっ[#「じっ」に傍点]と不思議そうにこっちを見つめているのに気がついた。葉子とは何の関係もないその女までが、葉子のする事を怪しむらしい様子をしているのを見ると、葉子の狂暴な気分はますます募った。葉子は手欄《てすり》に両手をついてぶる[#「ぶる」に傍点]ぶると震えながら、その女をいつまでもいつまでもにらみつけた。女のほうでも葉子の仕打ちに気づいて、しばらくは意趣《いしゅ》に見返すふうだったが、やがて一種の恐怖に襲われたらしく、干し物を竿《さお》に通しもせずにあたふた[#「あたふた」に傍点]とあわてて干し物台の急な階子《はしご》を駆けおりてしまった。あとには燃えるような青空の中に不規則な屋根の波ばかりが目をちかちかさせて残っていた。葉子はなぜにとも知れぬため息を深くついてまんじり[#「まんじり」に傍点]とそのあからさま[#「あからさま」に傍点]な景色《けしき》を夢かなぞのようにながめ続けていた。
 やがて葉子はまたわれに返って、ふくよかな髪の中に指を突っ込んで激しく頭の地《じ》をかきながら部屋に戻《もど》った。
 そこには寝床のそばに洋服を着た一人《ひとり》の男が立っていた。激しい外光から暗い部屋《へや》のほうに目を向けた葉子には、ただまっ黒な立ち姿が見えるばかりでだれとも見分けがつかなかった。しかし手術のために医員の一人が迎えに来たのだと思われた。それにしても障子《しょうじ》のあく音さえしなかったのは不思議な事だ。はいって来ながら声一つかけないのも不思議だ。と、思うと得体《えたい》のわからないその姿は、そのまわりの物がだんだん明らかになって行く間に、たった一つだけまっ黒なままでいつまでも輪郭を見せないようだった。いわば人の形をしたまっ暗な洞穴《ほらあな》が空気の中に出来上がったようだった。始めの間《あいだ》好奇心をもってそれをながめていた葉子は見つめれば見つめるほど、その形に実質がなくって、まっ暗な空虚ばかりであるように思い出すと、ぞーっ[#「ぞーっ」に傍点]と水を浴びせられたように怖毛《おぞけ》をふるった。「木村が来た」……何という事なしに葉子はそう思い込んでしまった。爪《つめ》の一枚一枚までが肉に吸い寄せられて、毛という毛が強直《きょうちょく》して逆立《さかだ》つような薄気味わるさが総身《そうみ》に伝わって、思わず声を立てようとしながら、声は出ずに、口びるばかりがかすかに開いてぶるぶると震えた。そして胸の所に何か突きのけるような具合に手をあげたまま、ぴったり[#「ぴったり」に傍点]と立ち止まってしまった。
 その時その黒い人の影のようなものが始めて動き出した。動いてみるとなんでもない、それはやはり人間だった。見る見るその姿の輪郭がはっきり[#「はっきり」に傍点]わかって来て、暗さに慣れて来た葉子の目にはそれが岡である事が知れた。
 「まあ岡さん」
 葉子はその瞬間のなつかしさに引き入れられて、今まで出なかった声をどもるような調子で出した。岡はかすかに頬《ほお》を紅《あか》らめたようだった。そしていつものとおり上品に、ちょっと畳の上に膝《ひざ》をついて挨拶《あいさつ》した。まるで一年も牢獄《ろうごく》にいて、人間らしい人間にあわないでいた人のように葉子には岡がなつかしかった。葉子とはなんの関係もない広い世間から、一人の人が好意をこめて葉子を見舞うためにそこに天降《あまくだ》ったとも思われた。走り寄ってしっかり[#「しっかり」に傍点]とその手を取りたい衝動を抑《おさ》える事ができないほどに葉子の心は感激していた。葉子は目に涙をためながら思うままの振る舞いをした。自分でも知らぬ間に、葉子は、岡のそば近くすわって、右手をその肩に、左手を畳に突いて、しげしげと相手の顔を見やる自分を見いだした。
 「ごぶさたしていました」
 「よくいらしってくださってね」
 どっち[#「どっち」に傍点]からいい出すともなく二人《ふたり》の言葉は親しげにからみ合った。葉子は岡の声を聞くと、急に今まで自分から逃げていた力が回復して来たのを感じた。逆境にいる女に対して、どんな男であれ、男の力がどれほど強いものであるかを思い知った。男性の頼もしさがしみじみと胸に逼《せま》った。葉子はわれ知らずすがり付くように、岡の肩にかけていた右手をすべらして、膝《ひざ》の上に乗せている岡の右手の甲の上からしっかり[#「しっかり」に傍点]と捕えた。岡の手は葉子の触覚に妙に冷たく響いて来た。
 「長く長くおあいしませんでしたわね。わたしあなたを幽霊じゃないかと思いましてよ。変な顔つきをしたでしょう。貞世は……あなたけさ病院のほうからいらしったの?」
 岡はちょっと返事をためらったようだった。
 「いゝえ家から来ました。ですからわたし、きょうの御様子は知りませんが、きのうまでのところではだんだんおよろしいようです。目さえさめていらっしゃると『おねえ様おねえ様』とお泣きなさるのがほんとうにおかわいそうです」
 葉子はそれだけ聞くともう感情がもろくなっていて胸が張り裂けるようだった。岡は目ざとくもそれを見て取って、悪い事をいったと思ったらしかった。そして少しあわてたように笑い足《た》しながら、
 「そうかと思うと、たいへんお元気な事もあります。熱の下がっていらっしゃる時なんかは、愛子さんにおもしろい本を読んでおもらいになって、喜んで聞いておいでです」
 と付け足した。葉子は直覚的に岡がその場の間に合わせをいっているのだと知った。それは葉子を安心させるための好意であるとはいえ、岡の言葉は決して信用する事ができない。毎日一度ずつ大学病院まで見舞いに行ってもらうつやの言葉に安心ができないでいて、だれか目に見たとおりを知らせてくれる人はないかとあせっていた矢先、この人ならばと思った岡も、つや以上にいいかげんをいおうとしているのだ。この調子では、とうに貞世が死んでしまっていても、人たちは岡がいって聞かせるような事をいつまでも自分にいうのだろう。自分にはだれ一人《ひとり》として胸を開いて交際しようという人はいなくなってしまったのだ。そう思うとさびしいよりも、苦しいよりも、かっ[#「かっ」に傍点]と取りのぼせるほど貞世の身の上が気づかわれてならなくなった。
 「かわいそうに貞世は……さぞやせてしまったでしょうね?」
 葉子は口裏をひくようにこう尋ねてみた。
 「始終見つけているせいですか、そんなにも見えません」
 岡はハンカチで首のまわりをぬぐって、ダブル・カラーの合わせを左の手でくつろげながら少し息気《いき》苦しそうにこう答えた。
 「なんにもいただけないんでしょうね」
 「ソップと重湯《おもゆ》だけですが両方ともよく食べなさいます」
 「ひもじがっておりますか」
 「いゝえそんなでも」
 もう許せないと葉子は思い入って腹を立てた。腸チブスの予後にあるものが、食欲がない……そんなしらじらしい虚構《うそ》があるものか。みんな虚構《うそ》だ。岡のいう事もみんな虚構《うそ》だ。昨夜は病院に泊まらなかったという、それも虚構《うそ》でなくてなんだろう。愛子の熱情に燃えた手を握り慣れた岡の手が、葉子に握られて冷えるのももっともだ。昨夜はこの手は……葉子はひとみを定めて自分の美しい指にからまれた岡の美しい右手を見た。それは女の手のように白くなめらかだった。しかしこの手が昨夜は、……葉子は顔をあげて岡を見た。ことさらにあざやかに紅《あか》いその口びる……この口びるが昨夜は……眩暈《めまい》がするほど一度に押し寄せて来た憤怒と嫉妬《しっと》とのために、葉子は危うくその場にあり合わせたものにかみつこうとしたが、からくそれをささえると、もう熱い涙が目をこがすように痛めて流れ出した。
 「あなたはよくうそをおつきなさるのね」
 葉子はもう肩で息気《いき》をしていた。頭が激しい動悸《どうき》のたびごとに震えるので、髪の毛は小刻みに生き物のようにおののいた。そして岡の手から自分の手を離して、袂《たもと》から取り出したハンケチでそれを押しぬぐった。目に入る限りのもの、手に触れる限りのものがまたけがらわしく見え始めたのだ。岡の返事も待たずに葉子は畳みかけて吐き出すようにいった。
 「貞世はもう死んでいるんです。それを知らないとでもあなたは思っていらっしゃるの。あなたや愛子に看護してもらえばだれでもありがたい往生《おうじょう》ができましょうよ。ほんとうに貞世は仕合わせな子でした。……おゝおゝ貞世! お前はほんとに仕合わせな子だねえ。……岡さんいって聞かせてください、貞世はどんな死にかたをしたか。飲みたい死に水も飲まずに死にましたか。あなたと愛子がお庭を歩き回っているうちに死んでいましたか。それとも……それとも愛子の目が憎々しく笑っているその前で眠るように息気《いき》を引き取りましたか。どんなお葬式が出たんです。早桶《はやおけ》はどこで注文なさったんです。わたしの早桶のより少し大きくしないとはいりませんよ。……わたしはなんというばかだろう早く丈夫になって思いきり貞世を介抱してやりたいと思ったのに……もう死んでしまったのですものねえ。うそです……それからなぜあなたも愛子ももっとしげしげわたしの見舞いには来てくださらないの。あなたはきょうわたしを苦しめに……なぶりにいらしったのね……」
 
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