「そんな飛んでもない!」
岡がせきこんで葉子の言葉の切れ目にいい出そうとするのを、葉子は激しい笑いでさえぎった。
「飛んでもない……そのとおり。あゝ頭が痛い。わたしは存分に呪《のろ》いを受けました。御安心なさいましとも。決してお邪魔はしませんから。わたしはさんざん踊りました。今度はあなた方《がた》が踊っていい番ですものね。……ふむ、踊れるものならみごとに踊ってごらんなさいまし。……踊れるものなら、はゝゝ」
葉子は狂女のように高々《たかだか》と笑った。岡は葉子の物狂おしく笑うのを見ると、それを恥じるようにまっ紅《か》になって下を向いてしまった。
「聞いてください」
やがて岡はこういってきっ[#「きっ」に傍点]となった。
「伺いましょう」
葉子もきっ[#「きっ」に傍点]となって岡を見やったが、すぐ口じりにむごたらしい皮肉な微笑をたたえた。それは岡の気先《きさき》をさえ折るに充分なほどの皮肉さだった。
「お疑いなさってもしかたがありません。わたし、愛子さんには深い親しみを感じております……」
「そんな事なら伺うまでもありませんわ。わたしをどんな女だと思っていらっしゃるの。愛子さんに深い親しみを感じていらっしゃればこそ、けさはわざわざ何日《いつ》ごろ死ぬだろうと見に来てくださったのね。なんとお礼を申していいか、そこはお察しくださいまし。きょうは手術を受けますから、死骸《しがい》になって手術室から出て来る所をよっく御覧なさってあなたの愛子に知らせて喜ばしてやってくださいましよ。死にに行く前に篤《とく》とお礼を申します。絵島丸ではいろいろ御親切をありがとうございました。お陰様でわたしはさびしい世の中から救い出されました。あなたをおにいさんともお慕いしていましたが、愛子に対しても気恥ずかしくなりましたから、もうあなたとは御縁を断ちます。というまでもない事ですわね。もう時間が来ますからお立ちくださいまし」
「わたし、ちっとも[#「ちっとも」に傍点]知りませんでした。ほんとうにそのおからだで手術をお受けになるのですか」
岡はあきれたような顔をした。
「毎日大学に行くつやはばかですから何も申し上げなかったんでしょうよ。申し上げてもお聞こえにならなかったかもしれませんわね」
と葉子はほほえんで、まっさおになった顔にふりかかる髪の毛を左の手で器用にかき上げた。その小指はやせ細って骨ばかりのようになりながらも、美しい線を描いて折れ曲がっていた。
「それはぜひお延ばしくださいお願いしますから……お医者さんもお医者さんだと思います」
「わたしがわたしだもんですからね」
葉子はしげしげと岡を見やった。その目からは涙がすっかり[#「すっかり」に傍点]かわいて、額の所には油汗がにじみ出ていた。触れてみたら氷のようだろうと思われるような青白い冷たさが生《は》えぎわかけて漂っていた。
「ではせめてわたしに立ち会わしてください」
「それほどまでにあなたはわたしがお憎いの?……麻酔《ますい》中にわたしのいう囈口《うわごと》でも聞いておいて笑い話の種になさろうというのね。えゝ、ようごさいますいらっしゃいまし、御覧に入れますから。呪《のろ》いのためにやせ細ってお婆《ばあ》さんのようになってしまったこのからだを頭から足の爪先《つまさき》まで御覧に入れますから……今さらおあきれになる余地もありますまいけれど」
そういって葉子はやせ細った顔にあらん限りの媚《こ》びを集めて、流眄《ながしめ》に岡を見やった。岡は思わず顔をそむけた。
そこに若い医員がつやをつれてはいって来た。葉子は手術のしたくができた事を見て取った。葉子は黙って医員にちょっと挨拶《あいさつ》したまま衣紋《えもん》をつくろってすぐ座を立った。それに続いて部屋《へや》を出て来た岡などは全く無視した態度で、怪しげな薄暗い階子段《はしごだん》を降りて、これも暗い廊下を四五|間《けん》たどって手術室の前まで来た。つやが戸のハンドルを回してそれをあけると、手術室からはさすがにまぶしい豊かな光線が廊下のほうに流れて来た。そこで葉子は岡のほうに始めて振り返った。
「遠方をわざわざ御苦労さま。わたしはまだあなたに肌《はだ》を御覧に入れるほどの莫連者《ばくれんもの》にはなっていませんから……」
そう小さな声でいって悠々《ゆうゆう》と手術室にはいって行った。岡はもちろん押し切ってあとについては来なかった。
着物を脱ぐ間に、世話に立ったつやに葉子はこうようやくにしていった。
「岡さんがはいりたいとおっしゃっても入れてはいけないよ。それから……それから(ここで葉子は何がなしに涙ぐましくなった)もしわたしが囈言《うわごと》のような事でもいいかけたら、お前に一生のお願いだからね、わたしの口を……口を抑《おさ》えて殺してしまっておくれ。頼むよ。きっと!」
婦人科病院の事とて女の裸体は毎日幾人となく扱いつけているくせに、やはり好奇な目を向けて葉子を見守っているらしい助手たちに、葉子はやせさらばえた自分をさらけ出して見せるのが死ぬよりつらかった。ふとした出来心から岡に対していった言葉が、葉子の頭にはいつまでもこびり付いて、貞世はもうほんとうに死んでしまったもののように思えてしかたがなかった。貞世が死んでしまったのに何を苦しんで手術を受ける事があろう。そう思わないでもなかった。しかし場合が場合でこうなるよりしかたがなかった。
まっ白な手術衣を着た医員や看護婦に囲まれて、やはりまっ白な手術台は墓場のように葉子を待っていた。そこに近づくと葉子はわれにもなく急におびえが出た。思いきり鋭利なメスで手ぎわよく切り取ってしまったらさぞさっぱり[#「さっぱり」に傍点]するだろうと思っていた腰部の鈍痛も、急に痛みが止まってしまって、からだ全体がしびれるようにしゃちこば[#「しゃちこば」に傍点]って冷や汗が額にも手にもしとどに流れた。葉子はただ一つの慰藉《いしゃ》のようにつやを顧みた。そのつやの励ますような顔をただ一つのたよりにして、細かく震えながら仰向けに冷やっとする手術台に横たわった。
医員の一人《ひとり》が白布の口あてを口から鼻の上にあてがった。それだけで葉子はもう息気《いき》がつまるほどの思いをした。そのくせ目は妙にさえて目の前に見る天井板の細かい木理《もくめ》までが動いて走るようにながめられた。神経の末梢《まっしょう》が大風にあったようにざわざわと小気味わるく騒ぎ立った。心臓が息気《いき》苦しいほど時々働きを止めた。
やがて芳芬《ほうふん》の激しい薬滴が布の上にたらされた。葉子は両手の脈所《みゃくどころ》を医員に取られながら、その香《にお》いを薄気味わるくかいだ。
「ひとーつ」
執刀者が鈍い声でこういった。
「ひとーつ」
葉子のそれに応ずる声は激しく震えていた。
「ふたーつ」
葉子は生命の尊《とうと》さをしみじみと思い知った。死もしくは死の隣へまでの不思議な冒険……そう思うと血は凍るかと疑われた。
「ふたーつ」
葉子の声はますます震えた。こうして数を読んで行くうちに、頭の中がしんしんと冴《さ》えるようになって行ったと思うと、世の中がひとりでに遠のくように思えた。葉子は我慢ができなかった。いきなり右手を振りほどいて力任せに口の所を掻《か》い払った。しかし医員の力はすぐ葉子の自由を奪ってしまった。葉子は確かにそれにあらがっているつもりだった。
「倉地が生きている間――死ぬものか、……どうしてももう一度その胸に……やめてください。狂気で死ぬとも殺されたくはない。やめて……人殺し」
そう思ったのかいったのか、自分ながらどっちとも定めかねながら葉子はもだえた。
「生きる生きる……死ぬのはいやだ……人殺し!……」
葉子は力のあらん限り戦った、医者とも薬とも……運命とも……葉子は永久に戦った。しかし葉子は二十も数を読まないうちに、死んだ者同様に意識なく医員らの目の前に横たわっていたのだ。
四九
手術を受けてから三日を過ぎていた。その間非常に望ましい経過を取っているらしく見えた容態は三日目の夕方から突然激変した。突然の高熱、突然の腹痛、突然の煩悶《はんもん》、それは激しい驟雨《しゅうう》が西風に伴われてあらしがかった天気模様になったその夕方の事だった。
その日の朝からなんとなく頭の重かった葉子は、それが天候のためだとばかり思って、しいてそういうふうに自分を説服して、憂慮を抑《おさ》えつけていると、三時ごろからどんどん熱が上がり出して、それと共に下腹部の疼痛《とうつう》が襲って来た。子宮底|穿孔《せんこう》?![#「?!」は横一列] なまじっか医書を読みかじった葉子はすぐそっちに気を回した。気を回してはしいてそれを否定して、一時《いっとき》延ばしに容態の回復を待ちこがれた。それはしかしむだだった。つやがあわてて当直医を呼んで来た時には、葉子はもう生死を忘れて床の上に身を縮み上がらしておいおいと泣いていた。
医員の報告で院長も時を移さずそこに駆けつけた。応急の手あてとして四個の氷嚢《ひょうのう》が下腹部にあてがわれた。葉子は寝衣《ねまき》がちょっと肌にさわるだけの事にも、生命をひっぱたか[#「ひっぱたか」に傍点]れるような痛みを覚えて思わずきゃっ[#「きゃっ」に傍点]と絹を裂くような叫び声をたてた。見る見る葉子は一寸《いっすん》の身動きもできないくらい疼痛《とうつう》に痛めつけられていた。
激しい音を立てて戸外では雨の脚《あし》が瓦《かわら》屋根をたたいた。むしむしする昼間《ひるま》の暑さは急に冷《ひ》え冷《び》えとなって、にわかに暗くなった部屋《へや》の中に、雨から逃げ延びて来たらしい蚊がぶーんと長く引いた声を立てて飛び回った。青白い薄|闇《やみ》に包まれて葉子の顔は見る見るくずれて行った。やせ細っていた頬《ほお》はことさらげっそりとこけて、高々とそびえた鼻筋の両側には、落ちくぼんだ両眼が、中有《ちゅうう》の中を所きらわずおどおどと何物かをさがし求めるように輝いた。美しい弧を描いて延びていた眉《まゆ》は、めちゃくちゃにゆがんで、眉間《みけん》の八の字の所に近々と寄り集まった。かさかさにかわききった口びるからは吐く息気《いき》ばかりが強く押し出された。そこにはもう女の姿はなかった。得体《えたい》のわからない動物がもだえもがいているだけだった。
間《ま》を置いてはさし込んで来る痛み……鉄の棒をまっ赤《か》に焼いて、それで下腹の中を所きらわずえぐり回すような[#底本では「やうな」]痛みが来ると、葉子は目も口もできるだけ堅く結んで、息気《いき》もつけなくなってしまった。何人そこに人がいるのか、それを見回すだけの気力もなかった。天気なのかあらしなのか、それもわからなかった。稲妻が空を縫って走る時には、それが自分の痛みが形になって現われたように見えた。少し痛みが退くとほっ[#「ほっ」に傍点]と吐息《といき》をして、助けを求めるようにそこに付いている医員に目ですがった。痛みさえなおしてくれれば殺されてもいいという心と、とうとう自分に致命的な傷を負わしたと恨む心とが入り乱れて、旋風のようにからだじゅうを通り抜けた。倉地がいてくれたら……木村がいてくれたら……あの親切な木村がいてくれたら……そりゃだめだ。もうだめだ。……だめだ。貞世だって苦しんでいるんだ、こんな事で……痛い痛い痛い……つやはいるのか(葉子は思いきって目を開いた。目の中が痛かった)いる。心配そうな顔をして、……うそだあの顔が何が心配そうな顔なものか……みんな他人だ……なんの縁故もない人たちだ……みんなのんきな顔をして何事もせずにただ見ているんだ……この悩みの百分の一でも知ったら……あ、痛い痛い痛い! 定子……お前はまだどこかに生きているのか、貞世は死んでしまったのだよ、定子……わたしも死ぬんだ死ぬよりも苦しい、この苦しみは……ひどい、これで死なれるものか……こんなにされて死なれるものか……何か……どこか……だれか…
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