どの人々の話し声、そういうものは葉子の部屋をいつものとおり取り巻きながら、そして部屋の中はとにかく整頓《せいとん》して灯《ひ》がともっていて、少しの不思議もないのに、どことも知れずそこには死がはい寄って来ていた。
 葉子はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として、血の代わりに心臓の中に氷の水を瀉《そそ》ぎこまれたように思った。死のうとする時はとうとう葉子には来ないで、思いもかけず死ぬ時が来たんだ。今までとめどなく流していた涙は、近づくあらしの前のそよ風のようにどこともなく姿をひそめてしまっていた。葉子はあわてふためいて、大きく目を見開き、鋭く耳をそびやかして、そこにある物、そこにある響きを捕えて、それにすがり付きたいと思ったが、目にも耳にも何か感ぜられながら、何が何やら少しもわからなかった。ただ感ぜられるのは、心の中がわけもなくただわくわくとして、すがりつくものがあれば何にでもすがりつきたいと無性《むしょう》にあせっている、その目まぐるしい欲求だけだった。葉子は震える手で枕《まくら》をなで回したり、シーツをつまみ上げてじっ[#「じっ」に傍点]と握り締めてみたりした。冷たい油汗が手のひらににじみ出るばかりで、握ったものは何の力にもならない事を知った。その失望は形容のできないほど大きなものだった。葉子は一つの努力ごとにがっかり[#「がっかり」に傍点]して、また懸命にたよりになるもの、根のあるようなものを追い求めてみた。しかしどこをさがしてみてもすべての努力が全くむだなのを心では本能的に知っていた。
 周囲の世界は少しのこだわり[#「こだわり」に傍点]もなくずるずると平気で日常の営みをしていた。看護婦が草履《ぞうり》で廊下を歩いて行く、その音一つを考えてみても、そこには明らかに生命が見いだされた。その足は確かに廊下を踏み、廊下は礎《いしずえ》に続き、礎は大地に据《す》えられていた。患者と看護婦との間に取りかわされる言葉一つにも、それを与える人と受ける人とがちゃん[#「ちゃん」に傍点]と大地の上に存在していた。しかしそれらは奇妙にも葉子とは全く無関係で没交渉だった。葉子のいる所にはどこにも底がない事を知らねばならなかった。深い谷に誤って落ち込んだ人が落ちた瞬間に感ずるあの焦躁……それが連続してやむ時なく葉子を襲うのだった。深さのわからないような暗い闇《やみ》が、葉子をただ一人《ひとり》まん中に据えておいて、果てしなくそのまわりを包もうと静かに静かに近づきつつある。葉子は少しもそんな事を欲しないのに、葉子の心持ちには頓着《とんじゃく》なく、休む事なくとどまる事なく、悠々《ゆうゆう》閑々として近づいて来る。葉子は恐ろしさにおびえて声も得《え》上げなかった。そしてただそこからのがれ出たい一心に心ばかりがあせりにあせった。
 もうだめだ、力が尽き切ったと、観念しようとした時、しかし、その奇怪な死は、すうっ[#「すうっ」に傍点]と朝霧が晴れるように、葉子の周囲から消えうせてしまった。見た所、そこには何一つ変わった事もなければ変わった物もない。ただ夏の夕《ゆうべ》が涼しく夜につながろうとしているばかりだった。葉子はきょとん[#「きょとん」に傍点]として庇《ひさし》の下に水々しく漂う月を見やった。
 ただ不思議な変化の起こったのは心ばかりだった。荒磯《あらいそ》に波また波が千変万化して追いかぶさって来ては激しく打ちくだけて、まっ白な飛沫《ひまつ》を空高く突き上げるように、これといって取り留めのない執着や、憤りや、悲しみや、恨みやが蛛手《くもで》によれ合って、それが自分の周囲の人たちと結び付いて、わけもなく葉子の心をかきむしっていたのに、その夕方の不思議な経験のあとでは、一筋の透明なさびしさだけが秋の水のように果てしもなく流れているばかりだった。不思議な事には寝入っても忘れきれないほどな頭脳の激痛も痕《あと》なくなっていた。
 神がかりにあった人が神から見放された時のように、葉子は深い肉体の疲労を感じて、寝床の上に打ち伏さってしまった。そうやっていると自分の過去や現在が手に取るようにはっきり[#「はっきり」に傍点]考えられ出した。そして冷ややかな悔恨が泉のようにわき出した。
 「間違っていた……こう世の中を歩いて来るんじゃなかった。しかしそれはだれの罪だ。わからない。しかしとにかく自分には後悔がある。できるだけ、生きてるうちにそれを償っておかなければならない」
 内田の顔がふと葉子には思い出された。あの厳格なキリストの教師ははたして葉子の所に尋ねて来てくれるかどうかわからない。そう思いながらも葉子はもう一度内田にあって話をしたい心持ちを止める事ができなかった。
 葉子は枕《まくら》もとのベルを押してつやを呼び寄せた。そして手文庫の中から洋紙でとじた手帳を取り出さして、それに毛筆で葉子のいう事を書き取らした。
[#ここから1字下げ]
 「木村さんに。
 「わたしはあなたを詐《いつわ》っておりました。わたしはこれから他の男に嫁入ります。あなたはわたしを忘れてくださいまし。わたしはあなたの所に行ける女ではないのです。あなたのお思い違いを充分御自分で調べてみてくださいまし。
 「倉地さんに。
 「わたしはあなたを死ぬまで。けれども二人《ふたり》とも間違っていた事を今はっきり[#「はっきり」に傍点]知りました。死を見てから知りました。あなたにはおわかりになりますまい。わたしは何もかも恨みはしません。あなたの奥さんはどうなさっておいでです。……わたしは一緒に泣く事ができる。
 「内田のおじさんに。
 「わたしは今夜になっておじさんを思い出しました。おば様によろしく。
 「木部《きべ》さんに。
 「一人《ひとり》の老女があなたの所に女の子を連れて参るでしょう。その子の顔を見てやってくださいまし。
 「愛子と貞世に。
 「愛さん、貞《さあ》ちゃん、もう一度そう呼ばしておくれ。それでたくさん。
 「岡さんに。
 「わたしはあなたをも怒《おこ》ってはいません。
 「古藤さんに。
 「お花とお手紙とをありがとう。あれからわたしは死を見ました。
                            七月二十一日  葉子」
[#ここで字下げ終わり]
 つやはこんなぽつり[#「ぽつり」に傍点]ぽつりと短い葉子の言葉を書き取りながら、時々|怪訝《けげん》な顔をして葉子を見た。葉子の口びるはさびしく震えて、目にはこぼれない程度に涙がにじみ出していた。
 「もうそれでいいありがとうよ。あなただけね、こんなになってしまったわたしのそばにいてくれるのは。……それだのに、わたしはこんなに零落した姿をあなたに見られるのがつらくって、来た日は途中からほかの病院に行ってしまおうかと思ったのよ。ばかだったわね」
 葉子は口ではなつかしそうに笑いながら、ほろほろと涙をこぼしてしまった。
 「それをこの枕《まくら》の下に入れておいておくれ。今夜こそはわたし久しぶりで安々とした心持ちで寝られるだろうよ、あすの手術に疲れないようによく寝ておかないといけないわね。でもこんなに弱っていても手術はできるのかしらん……もう蚊帳《かや》をつっておくれ。そしてついでに寝床をもっとそっちに引っぱって行って、月の光が顔にあたるようにしてちょうだいな。戸は寝入ったら引いておくれ。……それからちょっとあなたの手をお貸し。……あなたの手は温《あたた》かい手ね。この手はいい手だわ」
 葉子は人の手というものをこんなになつかしいものに思った事はなかった。力をこめた手でそっと[#「そっと」に傍点]抱いて、いつまでもやさしくそれをなでていたかった。つやもいつか葉子の気分に引き入れられて、鼻をすするまでに涙ぐんでいた。
 葉子はやがて打ち開いた障子から蚊帳《かや》越しにうっとり[#「うっとり」に傍点]と月をながめながら考えていた。葉子の心は月の光で清められたかと見えた。倉地が自分を捨てて逃げ出すために書いた狂言が計らずその筋の嫌疑《けんぎ》を受けたのか、それとも恐ろしい売国の罪で金をすら葉子に送れぬようになったのか、それはどうでもよかった。よしんば妾《めかけ》が幾人あってもそれもどうでもよかった。ただすべてがむなしく見える中に倉地だけがただ一人《ひとり》ほんとうに生きた人のように葉子の心に住んでいた。互いを堕落させ合うような愛しかたをした、それも今はなつかしい思い出だった。木村は思えば思うほど涙ぐましい不幸な男だった。その思い入った心持ちは何事もわだかまりのなくなった葉子の胸の中を清水《しみず》のように流れて通った。多年の迫害に復讐《ふくしゅう》する時機が来たというように、岡までをそそのかして、葉子を見捨ててしまったと思われる愛子の心持ちにも葉子は同情ができた。愛子の情けに引かされて葉子を裏切った岡の気持ちはなおさらよくわかった。泣いても泣いても泣き足りないようにかわいそうなのは貞世だった。愛子はいまにきっと自分以上に恐ろしい道に踏み迷う女だと葉子は思った。その愛子のただ一人の妹として……もしも自分の命がなくなってしまった後は……そう思うにつけて葉子は内田を考えた。すべての人は何かの力で流れて行くべき先に流れて行くだろう。そしてしまいにはだれでも自分と同様に一人ぼっちになってしまうんだ。……どの人を見てもあわれまれる……葉子はそう思いふけりながら静かに静かに西に回って行く月を見入っていた。その月の輪郭がだんだんぼやけて来て、空の中に浮き漂うようになると、葉子のまつ毛の一つ一つにも月の光が宿った。涙が目じりからあふれて両方のこめかみの所をくすぐるようにする[#「する」に傍点]すると流れ下った。口の中は粘液で粘った。許すべき何人《なんびと》もない。許さるべき何事もない。ただあるがまま……ただ一抹《いちまつ》の清い悲しい静けさ。葉子の目はひとりでに閉じて行った。整った呼吸が軽く小鼻を震わして流れた。
 つやが戸をたてにそーっ[#「そーっ」に傍点]とその部屋《へや》にはいった時には、葉子は病気を忘れ果てたもののように、がたぴし[#「がたぴし」に傍点]と戸を締める音にも目ざめずに安らけく寝入っていた。

    四八

 その翌朝手術台にのぼろうとした葉子は昨夜の葉子とは別人のようだった。激しい呼鈴《よびりん》の音で呼ばれてつやが病室に来た時には、葉子は寝床から起き上がって、したため終わった手紙の状袋を封じている所だったが、それをつやに渡そうとする瞬間にいきなり[#「いきなり」に傍点]いやになって、口びるをぶるぶる震わせながらつやの見ている前でそれをずた[#「ずた」に傍点]ずたに裂いてしまった。それは愛子にあてた手紙だったのだ。きょうは手術を受けるから九時までにぜひとも立ち会いに来るようにとしたためたのだった。いくら気丈夫でも腹を立ち割る恐ろしい手術を年若い少女が見ていられないくらいは知っていながら、葉子は何がなしに愛子にそれを見せつけてやりたくなったのだ。自分の美しい肉体がむごたらしく傷つけられて、そこから静脈《じょうみゃく》を流れているどす[#「どす」に傍点]黒い血が流れ出る、それを愛子が見ているうちに気が遠くなって、そのままそこに打ち倒れる、そんな事になったらどれほど快いだろうと葉子は思った。幾度来てくれろと電話をかけても、なんとか口実をつけてこのごろ見も返らなくなった愛子に、これだけの復讐《ふくしゅう》をしてやるのでも少しは胸がすく、そう葉子は思ったのだ。しかしその手紙をつやに渡そうとする段になると、葉子には思いもかけぬ躊躇《ちゅうちょ》が来た。もし手術中にはしたな[#「はしたな」に傍点]い囈言《うわごと》でもいってそれを愛子に聞かれたら。あの冷刻《れいこく》な愛子が面《おもて》もそむけずにじっと姉の肉体が切りさいなまれるのを見続けながら、心の中で存分に復讐心《ふくしゅうしん》を満足するような事があったら。こんな手紙を受け取ってもてんで[#「てんで」に傍点]相手にしないで愛子が来なかったら……そんな事を予想すると葉子は手紙を
前へ 次へ
全47ページ中44ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング