ら物のない世界に落ち込んで行った。
 ほんとうに葉子が目をさました時には、まっさおに晴天の後の夕暮れが催しているころだった。葉子は部屋《へや》のすみの三畳に蚊帳《かや》の中に横になって寝ていたのだった。そこには愛子のほかに岡も来合わせて貞世の世話をしていた。倉地はもういなかった。
 愛子のいう所によると、葉子は貞世にソップを飲まそうとしていろいろにいったが、熱が下がって急に食欲のついた貞世は飯でなければどうしても食べないといってきかなかったのを、葉子は涙を流さんばかりになって執念《しゅうね》くソップを飲ませようとした結果、貞世はそこにあったソップ皿《ざら》を臥《ね》ていながらひっくり[#「ひっくり」に傍点]返してしまったのだった。そうすると葉子はいきなり[#「いきなり」に傍点]立ち上がって貞世の胸《むな》もとをつかむなり寝台から引きずりおろしてこづき回した。幸いにい合わした倉地が大事にならないうちに葉子から貞世を取り放しはしたが、今度は葉子は倉地に死に物狂いに食ってかかって、そのうちに激しい癪《しゃく》を起こしてしまったのだとの事だった。
 葉子の心はむなしく痛んだ。どこにとて取りつくものもないようなむなしさが心には残っているばかりだった。貞世の熱はすっかり[#「すっかり」に傍点]元通りにのぼってしまって、ひどくおびえるらしい囈言《うわごと》を絶え間なしに口走った。節々《ふしぶし》はひどく痛みを覚えながら、発作《ほっさ》の過ぎ去った葉子は、ふだんどおりになって起き上がる事もできるのだった。しかし葉子は愛子や岡への手前すぐ起き上がるのも変だったのでその日はそのまま寝続けた。
 貞世は今度こそは死ぬ。とうとう自分の末路も来てしまった。そう思うと葉子はやるかたなく悲しかった。たとい貞世と自分とが幸いに生き残ったとしても、貞世はきっと永劫《えいごう》自分を命《いのち》の敵《かたき》と怨《うら》むに違いない。
 「死ぬに限る」
 葉子は窓を通して青から藍《あい》に変わって行きつつある初夏の夜の景色をながめた。神秘的な穏やかさと深さとは脳心にしみ通るようだった。貞世の枕《まくら》もとには若い岡と愛子とがむつまじげに居たり立ったりして貞世の看護に余念なく見えた。その時の葉子にはそれは美しくさえ見えた。親切な岡、柔順な愛子……二人《ふたり》が愛し合うのは当然でいい事らしい。
 「どうせすべては過ぎ去るのだ」
 葉子は美しい不思議な幻影でも見るように、電気灯の緑の光の中に立つ二人の姿を、無常を見ぬいた隠者《いんじゃ》のような心になって打ちながめた。

    四五

 この事があった日から五日たったけれども倉地はぱったり[#「ぱったり」に傍点]来なくなった。たよりもよこさなかった。金も送っては来なかった。あまりに変なので岡に頼んで下宿のほうを調べてもらうと三日前に荷物の大部分を持って旅行に出るといって姿を隠してしまったのだそうだ。倉地がいなくなると刑事だという男が二度か三度いろいろな事を尋ねに来たともいっているそうだ。岡は倉地からの一通の手紙を持って帰って来た。葉子はすぐに封を開いて見た。
[#ここから1字下げ]
 「事《こと》重大となり姿を隠す。郵便では累《るい》を及ぼさん事を恐れ、これを主人に託しおく。金も当分は送れぬ。困ったら家財道具を売れ。そのうちにはなんとかする。読後火中」
[#ここで字下げ終わり]
 とだけしたためて葉子へのあて名も自分の名も書いてはなかった。倉地の手跡には間違いない。しかしあの発作《ほっさ》以後ますますヒステリックに根性《こんじょう》のひねくれてしまった葉子は、手紙を読んだ瞬間にこれは造り事だと思い込まないではいられなかった。とうとう倉地も自分の手からのがれてしまった。やる瀬ない恨みと憤りが目もくらむほどに頭の中を攪《か》き乱した。
 岡と愛子とがすっかり[#「すっかり」に傍点]打ち解けたようになって、岡がほとんど入りびたりに病院に来て貞世の介抱をするのが葉子には見ていられなくなって来た。
 「岡さん、もうあなたこれからここにはいらっしゃらないでくださいまし。こんな事になると御迷惑があなたにかからないとも限りませんから。わたしたちの事はわたしたちがしますから。わたしはもう他人にたよりたくはなくなりました」
 「そうおっしゃらずにどうかわたしをあなたのおそばに置かしてください。わたし、決して伝染なぞを恐れはしません」
 岡は倉地の手紙を読んではいないのに葉子は気がついた。迷惑といったのを病気の伝染と思い込んでいるらしい。そうじゃない。岡が倉地の犬でないとどうしていえよう。倉地が岡を通して愛子と慇懃《いんぎん》を通《かよ》わし合っていないとだれが断言できる。愛子は岡をたらし込むぐらいは平気でする娘だ。葉子は自分の愛子ぐらいの年ごろの時の自分の経験の一々が生き返ってその猜疑心《さいぎしん》をあおり立てるのに自分から苦しまねばならなかった。あの年ごろの時、思いさえすれば自分にはそれほどの事は手もなくしてのける事ができた。そして自分は愛子よりももっと[#「もっと」に傍点]無邪気な、おまけに快活な少女であり得た。寄ってたかって自分をだましにかかるのなら、自分にだってして見せる事がある。
 「そんなにお考えならおいでくださるのはお勝手ですが、愛子をあなたにさし上げる事はできないんですからそれは御承知くださいましよ。ちゃん[#「ちゃん」に傍点]と申し上げておかないとあとになっていさくさ[#「いさくさ」に傍点]が起こるのはいやですから……愛さんお前も聞いているだろうね」
 そういって葉子は畳の上で貞世の胸にあてる湿布《しっぷ》を縫っている愛子のほうにも振り向いた。うなだれた愛子は顔も上げず返事もしなかったから、どんな様子を顔に見せたかを知る由はなかったが、岡は羞恥《しゅうち》のために葉子を見かえる事もできないくらいになっていた。それはしかし岡が葉子のあまりといえば露骨《ろこつ》な言葉を恥じたのか、自分の心持ちをあばかれたのを恥じたのか葉子の迷いやすくなった心にはしっかり[#「しっかり」に傍点]と見窮められなかった。
 これにつけかれにつけもどかしい事ばかりだった。葉子は自分の目で二人《ふたり》を看視して同時に倉地を間接に看視するよりほかはないと思った。こんな事を思うすぐそばから葉子は倉地の細君《さいくん》の事も思った。今ごろは彼らはのう[#「のう」に傍点]のうとして邪魔者がいなくなったのを喜びながら一つ家に住んでいないとも限らないのだ。それとも倉地の事だ、第二第三の葉子が葉子の不幸をいい事にして倉地のそばに現われているのかもしれない。……しかし今の場合倉地の行くえを尋ねあてる事はちょっとむずかしい。
 それからというもの葉子の心は一秒の間も休まらなかった。もちろん今まででも葉子は人一倍心の働く女だったけれども、そのころのような激しさはかつてなかった。しかもそれがいつも表から裏を行く働きかただった。それは自分ながら全く地獄《じごく》の苛責《かしゃく》だった。
 そのころから葉子はしばしば自殺という事を深く考えるようになった。それは自分でも恐ろしいほどだった。肉体の生命を絶《た》つ事のできるような物さえ目に触れれば、葉子の心はおびえながらもはっ[#「はっ」に傍点]と高鳴った。薬局の前を通るとずらっ[#「ずらっ」に傍点]とならんだ薬びんが誘惑のように目を射た。看護婦が帽子を髪にとめるための長い帽子ピン、天井の張ってない湯殿《ゆどの》の梁《はり》、看護婦室に薄赤い色をして金《かな》だらいにたたえられた昇汞水《しょうこうすい》、腐敗した牛乳、剃刀《かみそり》、鋏《はさみ》、夜ふけなどに上野《うえの》のほうから聞こえて来る汽車の音、病室からながめられる生理学教室の三階の窓、密閉された部屋《へや》、しごき帯、……なんでもかでもが自分の肉を喰《は》む毒蛇《どくじゃ》のごとく鎌首《かまくび》を立てて自分を待ち伏せしているように思えた。ある時はそれらをこの上なく恐ろしく、ある時はまたこの上なく親しみ深くながめやった。一匹の蚊にさされた時さえそれがマラリヤを伝える種類であるかないかを疑ったりした。
 「もう自分はこの世の中に何の用があろう。死にさえすればそれで事は済むのだ。この上自身も苦しみたくない。他人も苦しめたくない。いやだいやだと思いながら自分と他人とを苦しめているのが堪《た》えられない。眠りだ。長い眠りだ。それだけのものだ」
 と貞世の寝息をうかがいながらしっかり[#「しっかり」に傍点]思い込むような時もあったが、同時に倉地がどこかで生きているのを考えると、たちまち燕返《つばめがえ》しに死から生のほうへ、苦しい煩悩《ぼんのう》の生のほうへ激しく執着して行った。倉地の生きてる間に死んでなるものか……それは死よりも強い誘惑だった。意地《いじ》にかけても、肉体のすべての機関がめちゃめちゃになっても、それでも生きていて見せる。……葉子はそしてそのどちらにもほんとうの決心のつかない自分にまた苦しまねばならなかった。
 すべてのものを愛しているのか憎んでいるのかわからなかった。貞世に対してですらそうだった。葉子はどうかすると、熱に浮かされて見さかいのなくなっている貞世を、継母《ままはは》がまま子をいびり抜くように没義道《もぎどう》に取り扱った。そして次の瞬間には後悔しきって、愛子の前でも看護婦の前でも構わずにおいおいと泣きくずおれた。
 貞世の病状は悪くなるばかりだった。
 ある時伝染病室の医長が来て、葉子が今のままでいてはとても健康が続かないから、思いきって手術をしたらどうだと勧告した。黙って聞いていた葉子は、すぐ岡の差し入れ口だと邪推して取った。その後ろには愛子がいるに違いない。葉子が付いていたのでは貞世の病気はなおるどころか悪くなるばかりだ(それは葉子もそう思っていた。葉子は貞世を全快させてやりたいのだ。けれどもどうしてもいびらなければいられないのだ。それはよく葉子自身が知っていると思っていた)。それには葉子をなんとかして貞世から離しておくのが第一だ。そんな相談を医長としたものがいないはずがない。ふむ、……うまい事を考えたものだ。その復讐《ふくしゅう》はきっとしてやる。根本的に病気をなおしてからしてやるから見ているがいい。葉子は医長との対話の中に早くもこう決心した。そうして思いのほか手っ取り早く手術を受けようと進んで返答した。
 婦人科の室《へや》は伝染病室とはずっと離れた所に近ごろ新築された建て物の中にあった。七月のなかばに葉子はそこに入院する事になったが、その前に岡と古藤とに依頼して、自分の身ぢかにある貴重品から、倉地の下宿に運んである衣類までを処分してもらわなければならなかった。金の出所は全くとだえてしまっていたから。岡がしきりと融通《ゆうずう》しようと申し出たのもすげなく断わった。弟同様の少年から金まで融通してもらうのはどうしても葉子のプライドが承知しなかった。
 葉子は特等を選んで日当たりのいい広々とした部屋《へや》にはいった。そこは伝染病室とは比べものにもならないくらい新式の設備の整った居心地《いごこち》のいい所だった。窓の前の庭はまだ掘りくり返したままで赤土の上に草も生《は》えていなかったけれども、広い廊下の冷ややかな空気は涼しく病室に通りぬけた。葉子は六月の末以来始めて寝床の上に安々とからだを横たえた。疲労が回復するまでしばらくの間《あいだ》手術は見合わせるというので葉子は毎日一度ずつ内診をしてもらうだけでする事もなく日を過ごした。
 しかし葉子の精神は興奮するばかりだった。一人《ひとり》になって暇になってみると、自分の心身がどれほど破壊されているかが自分ながら恐ろしいくらい感ぜられた。よくこんなありさまで今まで通して来たと驚くばかりだった。寝台の上に臥《ね》てみると二度と起きて歩く勇気もなく、また実際できもしなかった。ただ鈍痛とのみ思っていた痛みは、どっち[#「どっち」に傍点]に臥《ね》返ってみても我慢のできないほど
前へ 次へ
全47ページ中41ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング