な激痛になっていて、気が狂うように頭は重くうずいた。我慢にも貞世を見舞うなどという事はできなかった。
 こうして臥《ね》ながらにも葉子は断片的にいろいろな事を考えた。自分の手もとにある金の事をまず思案してみた。倉地から受け取った金の残りと、調度類を売り払ってもらってできたまとまった金とが何もかにもこれから姉妹三人を養って行くただ一つの資本だった。その金が使い尽くされた後には今のところ、何をどうするという目途《あて》は露ほどもなかった。葉子はふだんの葉子に似合わずそれが気になり出してしかたがなかった。特等室なぞにはいり込んだ事が後悔されるばかりだった。といって今になって等級の下がった病室に移してもらうなどとは葉子としては思いもよらなかった。
 葉子はぜいたくな寝台の上に横になって、羽根|枕《まくら》に深々《ふかぶか》と頭を沈めて、氷嚢《ひょうのう》を額にあてがいながら、かんかんと赤土にさしている真夏の日の光を、広々と取った窓を通してながめやった。そうして物心ついてからの自分の過去を針で揉《も》み込むような頭の中でずっと見渡すように考えたどってみた。そんな過去が自分のものなのか、そう疑って見ねばならぬほどにそれははるかにもかけ隔たった事だった。父母――ことに父のなめるような寵愛《ちょうあい》の下《もと》に何一つ苦労を知らずに清い美しい童女としてすらすらと育ったあの時分がやはり自分の過去なのだろうか。木部との恋に酔いふけって、国分寺《こくぶんじ》の櫟《くぬぎ》の林の中で、その胸に自分の頭を託して、木部のいう一語一語を美酒のように飲みほしたあの少女はやはり自分なのだろうか。女の誇りという誇りを一身に集めたような美貌《びぼう》と才能の持ち主として、女たちからは羨望《せんぼう》の的《まと》となり、男たちからは嘆美の祭壇とされたあの青春の女性はやはりこの自分なのだろうか。誤解の中にも攻撃の中にも昂然《こうぜん》と首をもたげて、自分は今の日本に生まれて来《く》べき女ではなかったのだ。不幸にも時と所とを間違えて天上から送られた王女であるとまで自分に対する矜誇《ほこり》に満ちていた、あの妖婉《ようえん》な女性はまごうかたなく自分なのだろうか。絵島丸の中で味わい尽くしなめ尽くした歓楽と陶酔との限りは、始めて世に生まれ出た生きがいをしみじみと感じた誇りがなしばらくは今の自分と結びつけていい過去の一つなのだろうか……日はかんかんと赤土の上に照りつけていた。油蝉《あぶらぜみ》の声は御殿の池をめぐる鬱蒼《うっそう》たる木立ちのほうからしみ入るように聞こえていた。近い病室では軽病の患者が集まって、何かみだららしい雑談に笑い興じている声が聞こえて来た。それは実際なのか夢なのか。それらのすべては腹立たしい事なのか、哀《かな》しい事なのか、笑い捨つべき事なのか、嘆き恨まねばならぬ事なのか。……喜怒哀楽のどれか一つだけでは表わし得ない、不思議に交錯した感情が、葉子の目からとめどなく涙を誘い出した。あんな世界がこんな世界に変わってしまった。そうだ貞世が生死の境にさまよっているのはまちがいようのない事実だ。自分の健康が衰え果てたのも間違いのない出来事だ。もし毎日貞世を見舞う事ができるのならホこのままここにいるのもいい。しかし自分のからだの自由さえ今はきかなくなった。手術を受ければどうせ[#「どうせ」に傍点]当分は身動きもできないのだ。岡や愛子……そこまで来ると葉子は夢の中にいる女ではなかった。まざまざとした煩悩《ぼんのう》が勃然《ぼつぜん》としてその歯がみした物すごい鎌首《かまくび》をきっ[#「きっ」に傍点]ともたげるのだった。それもよし。近くいても看視のきかないのを利用したくば思うさま利用するがいい。倉地と三人で勝手な陰謀を企てるがいい。どうせ看視のきかないものなら、自分は貞世のためにどこか第二流か第三流の病院に移ろう。そしていくらでも貞世のほうを安楽にしてやろう。葉子は貞世から離れるといちずにそのあわれさが身にしみてこう思った。
 葉子はふと[#「ふと」に傍点]つやの事を思い出した。つやは看護婦になって京橋あたりの病院にいると双鶴館《そうかくかん》からいって来たのを思い出した。愛子を呼び寄せて電話でさがさせようと決心した。

    四六

 まっ暗な廊下が古ぼけた縁側になったり、縁側の突き当たりに階子段《はしごだん》があったり、日当たりのいい中《ちゅう》二階のような部屋《へや》があったり、納戸《なんど》と思われる暗い部屋に屋根を打ち抜いてガラスをはめて光線が引いてあったりするような、いわばその界隈《かいわい》にたくさんある待合《まちあい》の建て物に手を入れて使っているような病院だった。つやは加治木《かじき》病院というその病院の看護婦になっていた。
 長く天気が続いて、そのあとに激しい南風が吹いて、東京の市街はほこりまぶれになって、空も、家屋も、樹木も、黄粉《きなこ》でまぶしたようになったあげく、気持ち悪く蒸し蒸しと膚を汗ばませるような雨に変わったある日の朝、葉子はわずかばかりな荷物を持って人力車で加治木病院に送られた。後ろの車には愛子が荷物の一部分を持って乗っていた。須田町《すだちょう》に出た時、愛子の車は日本橋の通りをまっすぐに一足《ひとあし》先に病院に行かして、葉子は外濠《そとぼり》に沿うた道を日本銀行からしばらく行く釘店《くぎだな》の横丁《よこちょう》に曲がらせた。自分の住んでいた家を他所《よそ》ながら見て通りたい心持ちになっていたからだった。前幌《まえほろ》のすきまからのぞくのだったけれども、一年の後にもそこにはさして変わった様子は見えなかった。自分のいた家の前でちょっと車を止まらして中をのぞいて見た。門札には叔父《おじ》の名はなくなって、知らない他人の姓名が掲げられていた。それでもその人は医者だと見えて、父の時分からの永寿堂《えいじゅどう》病院という看板は相変わらず玄関の※[#「※」は「きへんに眉」、283−6]《なげし》に見えていた。長三洲《ちょうさんしゅう》と署名してあるその字も葉子には親しみの深いものだった。葉子がアメリカに出発した朝も九月ではあったがやはりその日のようにじめじめと雨の降る日だったのを思い出した。愛子が櫛《くし》を折って急に泣き出したのも、貞世が怒《おこ》ったような顔をして目に涙をいっぱいためたまま見送っていたのもその玄関を見ると描くように思い出された。
 「もういい早くやっておくれ」
 そう葉子は車の上から涙声でいった。車は梶棒《かじぼう》を向け換えられて、また雨の中を小さく揺れながら日本橋のほうに走り出した。葉子は不思議にそこに一緒に住んでいた叔父叔母《おじおば》の事を泣きながら思いやった。あの人たちは今どこにどうしているだろう。あの白痴の子ももうずいぶん大きくなったろう。でも渡米を企ててからまだ一年とはたっていないんだ。へえ、そんな短い間にこれほどの変化が……葉子は自分で自分にあきれるようにそれを思いやった。それではあの白痴の子も思ったほど大きくなっているわけではあるまい。葉子はその子の事を思うとどうしたわけか定子の事を胸が痛むほどきびしくおもい出してしまった。鎌倉《かまくら》に行った時以来、自分のふところからもぎ放してしまって、金輪際《こんりんざい》忘れてしまおうと堅く心に契っていたその定子が……それはその場合葉子を全く惨《みじ》めにしてしまった。
 病院に着いた時も葉子は泣き続けていた。そしてその病院のすぐ手前まで来て、そこに入院しようとした事を心から後悔してしまった。こんな落魄《らくはく》したような姿をつやに見せるのが堪《た》えがたい事のように思われ出したのだ。
 暗い二階の部屋《へや》に案内されて、愛子が準備しておいた床に横になると葉子はだれに挨拶《あいさつ》もせずにただ泣き続けた。そこは運河の水のにおいが泥《どろ》臭く通《かよ》って来るような所だった。愛子は煤《すす》けた障子《しょうじ》の陰で手回りの荷物を取り出して案配《あんばい》した。口少《くちずく》なの愛子は姉を慰めるような言葉も出さなかった。外部が騒々《そうぞう》しいだけに部屋の中はなおさらひっそり[#「ひっそり」に傍点]と思われた。
 葉子はやがて静かに顔をあげて部屋の中を見た。愛子の顔色が黄色く見えるほどその日の空も部屋の中も寂《さび》れていた。少し黴《かび》を持ったようにほこりっぽくぶく[#「ぶく」に傍点]ぶくする畳の上には丸盆の上に大学病院から持って来た薬びんが乗せてあった。障子ぎわには小さな鏡台が、違い棚《だな》には手文庫と硯箱《すずりばこ》が飾られたけれども、床の間には幅物《ふくもの》一つ、花活《はない》け一つ置いてなかった。その代わりに草色の風呂敷《ふろしき》に包み込んだ衣類と黒い柄《え》のパラソルとが置いてあった。薬びんの乗せてある丸盆が、出入りの商人から到来のもので、縁《ふち》の所に剥《は》げた所ができて、表には赤い短冊《たんざく》のついた矢が的《まと》に命中している画《え》が安っぽい金で描いてあった。葉子はそれを見ると盆もあろうにと思った。それだけでもう葉子は腹が立ったり情けなくなったりした。
 「愛さんあなた御苦労でも毎日ちょっとずつは来てくれないじゃ困りますよ。貞《さあ》ちゃんの様子も聞きたいしね。……貞ちゃんも頼んだよ。熱が下がって物事がわかるようになる時にはわたしもなおって帰るだろうから……愛さん」
 いつものとおりはき[#「はき」に傍点]はきとした手答えがないので、もうぎり[#「ぎり」に傍点]ぎりして来た葉子は剣《けん》を持った声で、「愛さん」と語気強く呼びかけた。言葉をかけるとそれでも片づけものの手を置いて葉子のほうに向き直った愛子は、この時ようやく顔を上げておとなしく「はい」と返事をした。葉子の目はすかさずその顔を発矢《はっし》とむちうった。そして寝床の上に半身を肘《ひじ》にささえて起き上がった。車で揺られたために腹部は痛みを増して声をあげたいほどうずいていた。
 「あなたにきょうははっきり[#「はっきり」に傍点]聞いておきたい事があるの……あなたはよもや岡さんとひょん[#「ひょん」に傍点]な約束なんぞしてはいますまいね」
 「いゝえ」
 愛子は手もなく素直《すなお》にこう答えて目を伏せてしまった。
 「古藤さんとも?」
 「いゝえ」
 今度は顔を上げて不思議な事を問いただすというようにじっ[#「じっ」に傍点]と葉子を見つめながらこう答えた。そのタクトがあるような、ないような愛子の態度が葉子をいやが上にいらだたした。岡の場合にはどこか後ろめたくて首をたれたとも見える。古藤の場合にはわざとしら[#「しら」に傍点]を切るために大胆に顔を上げたとも取れる。またそんな意味ではなく、あまり不思議な詰問が二度まで続いたので、二度目には怪訝《けげん》に思って顔を上げたのかとも考えられる。葉子は畳みかけて倉地の事まで問い正そうとしたが、その気分はくだかれてしまった。そんな事を聞いたのが第一愚かだった。隠し立てをしようと決心した以上は、女は男よりもはるかに巧妙で大胆なのを葉子は自分で存分に知り抜いているのだ。自分から進んで内兜《うちかぶと》を見透かされたようなもどかしさ[#「もどかしさ」に傍点]はいっそう葉子の心を憤らした。
 「あなたは二人《ふたり》から何かそんな事をいわれた覚えがあるでしょう。その時あなたはなんと御返事したの」
 愛子は下を向いたまま黙っていた。葉子は図星《ずぼし》をさしたと思って嵩《かさ》にかかって行った。
 「わたしは考えがあるからあなたの口からもその事を聞いておきたいんだよ。おっしゃいな」
 「お二人ともなんにもそんな事はおっしゃりはしませんわ」
 「おっしゃらない事があるもんかね」
 憤怒《ふんぬ》に伴ってさしこんで来る痛みを憤怒と共にぐっ[#「ぐっ」に傍点]と押えつけながら葉子はわざと声を和らげた。そうして愛子の挙動を爪《つめ》の先ほども見のがすまいとした。愛子は黙ってしまった。この沈黙は愛子の隠
前へ 次へ
全47ページ中42ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング