と開けて行く。もう一度心置きなくこの世に生きる時が来たら、それはどのくらいいい事だろう。今度こそは考え直して生きてみよう。もう自分も二十六だ。今までのような態度で暮らしてはいられない。倉地にもすまなかった。倉地があれほどある限りのものを犠牲にして、しかもその事業といっている仕事はどう考えてみても思わしく行っていないらしいのに、自分たちの暮らし向きはまるでそんな事も考えないような寛濶《かんかつ》なものだった。自分は決心さえすればどんな境遇にでも自分をはめ込む事ぐらいできる女だ。もし今度家を持つようになったらすべてを妹たちにいって聞かして、倉地と一緒になろう。そして木村とははっきり[#「はっきり」に傍点]縁を切ろう。木村といえば……そうして葉子は倉地と古藤とがいい合いをしたその晩の事を考え出した。古藤にあんな約束をしながら、貞世の病気に紛れていたというほかに、てんで真相を告白する気がなかったので今まではなんの消息もしないでいた自分がとがめられた。ほんとうに木村にもすまなかった。今になってようやく長い間の木村の心の苦しさが想像される。もし貞世が退院するようになったら――そして退院するに決まっているが――自分は何をおいても木村に手紙を書く。そうしたらどれほど心が安くそして軽くなるかしれない。……葉子はもうそんな境界《きょうがい》が来てしまったように考えて、だれとでもその喜びをわかちたく思った。で、椅子《「す》にかけたまま右後ろを向いて見ると、床板の上に三畳|畳《たたみ》を敷いた部屋《へや》の一|隅《ぐう》に愛子がたわいもなくすやすやと眠っていた。うるさがるので貞世には蚊帳《かや》をつってなかったが、愛子の所には小さな白い西洋蚊帳がつってあった。その細かい目を通して見る愛子の顔は人形のように整って美しかった。その愛子をこれまで憎み通しに憎み、疑い通しに疑っていたのが、不思議を通り越して、奇怪な事にさえ思われた。葉子はにこにこしながら立って行って蚊帳のそばによって、
「愛さん……愛さん」
そうかなり大きな声で呼びかけた。ゆうべおそく枕《まくら》についた愛子はやがてようやく睡《ねむ》そうに大きな目を静かに開いて、姉が枕もとにいるのに気がつくと、寝すごしでもしたと思ったのか、あわてるように半身を起こして、そっ[#「そっ」に傍点]と葉子をぬすみ見るようにした。日ごろならばそんな挙動をすぐ疳癪《かんしゃく》の種《たね》にする葉子も、その朝ばかりはかわいそうなくらいに思っていた。
「愛さんお喜び、貞《さあ》ちゃんの熱がとうとう七度台に下がってよ。ちょっと起きて来てごらん、それはいい顔をして寝ているから……静かにね」
「静かにね」といいながら葉子の声は妙にはずんで高かった。愛子は柔順に起き上がってそっ[#「そっ」に傍点]と蚊帳をくぐって出て、前を合わせながら寝台のそばに来た。
「ね?」
葉子は笑《え》みかまけて愛子にこう呼びかけた。
「でもなんだか、だいぶに蒼白《あおじろ》く見えますわね」
と愛子が静かにいうのを葉子はせわしく引ったくって、
「それは電燈の風呂敷《ふろしき》のせいだわ……それに熱が取れれば病人はみんな一度はかえって悪くなったように見えるものなのよ。ほんとうによかった。あなたも親身《しんみ》に世話してやったからよ」
そういって葉子は右手で愛子の肩をやさしく抱いた。そんな事を愛子にしたのは葉子としては始めてだった。愛子は恐れをなしたように身をすぼめた。
葉子はなんとなくじっ[#「じっ」に傍点]としてはいられなかった。子供らしく、早く貞世が目をさませばいいと思った。そうしたら熱の下がったのを知らせて喜ばせてやるのにと思った。しかしさすがにその小さな眠りを揺《ゆ》りさます事はし得ないで、しきりと部屋《へや》の中を片づけ始めた。愛子が注意の上に注意をしてこそ[#「こそ」に傍点]との音もさせまいと気をつかっているのに、葉子がわざとするかとも思われるほど騒々《そうぞう》しく働くさまは、日ごろとはまるで反対だった。愛子は時々不思議そうな目つきをしてそっ[#「そっ」に傍点]と葉子の挙動を注意した。
そのうちに夜がどんどん明け離れて、電灯の消えた瞬間はちょっと部屋の中が暗くなったが、夏の朝らしく見る見るうちに白い光が窓から容赦なく流れ込んだ。昼になってからの暑さを予想させるような涼しさが青葉の軽いにおいと共に部屋の中にみちあふれた。愛子の着かえた大柄《おおがら》な白の飛白《かすり》も、赤いメリンスの帯も、葉子の目を清々《すがすが》しく刺激した。
葉子は自分で貞世の食事を作ってやるために宿直室のそばにある小さな庖厨《ほうちゅう》に行って、洋食店から届けて来たソップを温《あたた》めて塩で味をつけている間も、だんだん起き出て来る看護婦たちに貞世の昨夜の経過を誇りがに話して聞かせた。病室に帰って見ると、愛子がすでに目ざめた貞世に朝じまいをさせていた。熱が下がったのできげんのよかるべき貞世はいっそうふきげんになって見えた。愛子のする事一つ一つに故障をいい立てて、なかなかいう事を聞こうとはしなかった。熱の下がったのに連れて始めて貞世の意志が人間らしく働き出したのだと葉子は気がついて、それも許さなければならない事だと、自分の事のように心で弁疏《べんそ》した。ようやく洗面が済んで、それから寝台の周囲を整頓《せいとん》するともう全く朝になっていた。けさこそは貞世がきっと賞美しながら食事を取るだろうと葉子はいそいそとたけの高い食卓を寝台の所に持って行った。
その時思いがけなくも朝がけに倉地が見舞いに来た。倉地も涼しげな単衣《ひとえ》に絽《ろ》の羽織《はおり》を羽織ったままだった。その強健な、物を物ともしない姿は夏の朝の気分としっくり[#「しっくり」に傍点]そぐって見えたばかりでなく、その日に限って葉子は絵島丸の中で語り合った倉地を見いだしたように思って、その寛濶《かんかつ》な様子がなつかしくのみながめられた。倉地もつとめて葉子の立ち直った気分に同《どう》じているらしかった。それが葉子をいっそう快活にした。葉子は久しぶりでその銀の鈴のような澄みとおった声で高調子に物をいいながら二言《ふたこと》目には涼しく笑った。
「さ、貞《さあ》ちゃん、ねえさんが上手《じょうず》に味をつけて来て上げたからソップを召し上がれ。けさはきっとおいしく食べられますよ。今までは熱で味も何もなかったわね、かわいそうに」
そういって貞世の身ぢかに椅子《いす》を占めながら、糊《のり》の強いナフキンを枕《まくら》から喉《のど》にかけてあてがってやると、貞世の顔は愛子のいうようにひどく青味がかって見えた。小さな不安が葉子の頭をつきぬけた。葉子は清潔な銀の匙《さじ》に少しばかりソップをしゃくい上げて貞世の口もとにあてがった。
「まずい」
貞世はちらっと[#「ちらっと」に傍点]姉をにらむように盗み見て、口にあるだけのソップをしいて飲みこんだ。
「おやどうして」
「甘ったらしくって」
「そんなはずはないがねえ。どれそれじゃも少し塩を入れてあげますわ」
葉子は塩をたしてみた。けれども貞世はうまいとはいわなかった。また一口飲み込むともういやだといった。
「そういわずとも少し召し上がれ、ね、せっかくねえさんが加減したんだから。第一食べないでいては弱ってしまいますよ」
そう促してみても貞世は金輪際《こんりんざい》あとを食べようとはしなかった。
突然自分でも思いもよらない憤怒が葉子に襲いかかった。自分がこれほど骨を折ってしてやったのに、義理にももう少しは食べてよさそうなものだ。なんというわがままな子だろう(葉子は貞世が味覚を回復していて、流動食では満足しなくなったのを少しも考えに入れなかった)。
そうなるともう葉子は自分を統御《とうぎょ》する力を失ってしまっていた。血管の中の血が一時にかっ[#「かっ」に傍点]と燃え立って、それが心臓に、そして心臓から頭に衝《つ》き進んで、頭蓋骨《ずがいこつ》はばり[#「ばり」に傍点]ばりと音を立てて破《わ》れそうだった。日ごろあれほどかわいがってやっているのに、……憎さは一倍だった。貞世を見つめているうちに、そのやせきった細首に鍬形《くわがた》にした両手をかけて、一思いにしめつけて、苦しみもがく様子を見て、「そら見るがいい」といい捨ててやりたい衝動がむずむずとわいて来た。その頭のまわりにあてがわるべき両手の指は思わず知らず熊手《くまで》のように折れ曲がって、はげしい力のために細かく震えた。葉子は凶器に変わったようなその手を人に見られるのが恐ろしかったので、茶わんと匙《さじ》とを食卓にかえして、前だれの下に隠してしまった。上《うわ》まぶたの一文字になった目をきりっ[#「きりっ」に傍点]と据えてはた[#「はた」に傍点]と貞世をにらみつけた。葉子の目には貞世のほかにその部屋《へや》のものは倉地から愛子に至るまですっかり[#「すっかり」に傍点]見えなくなってしまっていた。
「食べないかい」
「食べないかい。食べなければ云々《うんぬん》」と小言《こごと》をいって貞世を責めるはずだったが、初句を出しただけで、自分の声のあまりに激しい震えように言葉を切ってしまった。
「食べない……食べない……御飯でなくってはいやあだあ」
葉子の声の下からすぐこうしたわがままな貞世のすねにすねた声が聞こえたと葉子は思った。まっ黒な血潮がどっ[#「どっ」に傍点]と心臓を破って脳天に衝《つ》き進んだと思った。目の前で貞世の顔が三つにも四つにもなって泳いだ。そのあとには色も声もしびれ果ててしまったような暗黒の忘我が来た。
「おねえ様……おねえ様ひどい……いやあ……」
「葉ちゃん……あぶない……」
貞世と倉地の声とがもつれ合って、遠い所からのように聞こえて来るのを、葉子はだれかが何か貞世に乱暴をしているのだなと思ったり、この勢いで行かなければ貞世は殺せやしないと思ったりしていた。いつのまにか葉子はただ一筋に貞世を殺そうとばかりあせっていたのだ。葉子は闇黒《あんこく》の中で何か自分に逆らう力と根《こん》限りあらそいながら、物すごいほどの力をふりしぼってたたかっているらしかった。何がなんだかわからなかった。その混乱の中に、あるいは今自分は倉地の喉笛《のどぶえ》に針のようになった自分の十本の爪《つめ》を立てて、ねじりもがきながら争っているのではないかとも思った。それもやがて夢のようだった。遠ざかりながら人の声とも獣《けもの》の声とも知れぬ音響がかすかに耳に残って、胸の所にさし込んで来る痛みを吐き気のように感じた次の瞬間には、葉子は昏々《こんこん》として熱も光も声もない物すさまじい暗黒の中にまっさかさまに浸って行った。
ふと葉子は擽《くす》むるようなものを耳の所に感じた。それが音響だとわかるまでにはどのくらいの時間が経過したかしれない。とにかく葉子はがや[#「がや」に傍点]がやという声をだんだんとはっきり[#「はっきり」に傍点]聞くようになった。そしてぽっかり[#「ぽっかり」に傍点]視力を回復した。見ると葉子は依然として貞世の病室にいるのだった。愛子が後ろ向きになって寝台の上にいる貞世を介抱していた。自分は……自分はと葉子は始めて自分を見回そうとしたが、からだは自由を失っていた。そこには倉地がいて葉子の首根っこに腕を回して、膝《ひざ》の上に一方の足を乗せて、しっかりと抱きすくめていた。その足の重さが痛いほど感じられ出した。やっぱり自分は倉地を死に神のもとへ追いこくろうとしていたのだなと思った。そこには白衣を着た医者も看護婦も見え出した。
葉子はそれだけの事を見ると急に気のゆるむのを覚えた。そして涙がぼろぼろと出てしかたがなくなった。おかしな……どうしてこう涙が出るのだろうと怪しむうちに、やる瀬ない悲哀がどっ[#「どっ」に傍点]とこみ上げて来た。底のないようなさびしい悲哀……そのうちに葉子は悲哀とも睡《ねむ》さとも区別のできない重い力に圧せられてまた知覚か
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