「おねえ様なの……いつ帰って来たの。おかあ様がさっきいらしってよ……いやおねえ様、病院いや帰る帰る……おかあ様おかあ様(そういってきょろ[#「きょろ」に傍点]きょろとあたりを見回しながら)帰らしてちょうだいよう。お家《うち》に早く、おかあ様のいるお家《うち》に早く……」
 葉子は思わず毛孔《けあな》が一本一本|逆立《さかだ》つほどの寒気《さむけ》を感じた。かつて母という言葉もいわなかった貞世の口から思いもかけずこんな事を聞くと、その部屋のどこかにぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]立っている母が感ぜられるように思えた。その母の所に貞世は行きたがってあせっている。なんという深いあさましい骨肉《こつにく》の執着だろう。
 看護婦が行ってしまうとまた病室の中はしん[#「しん」に傍点]となってしまった。なんともいえず可憐《かれん》な澄んだ音を立てて水たまりに落ちる雨《あま》だれの音はなお絶え間なく聞こえ続けていた。葉子は泣くにも泣かれないような心になって、苦しい呼吸をしながらもうつら[#「うつら」に傍点]うつらと生死の間を知らぬげに眠る貞世の顔をのぞき込んでいた。
 と、雨だれの音にまじって遠くのほうに車の轍《わだち》の音を聞いたように思った。もう目をさまして用事をする人もあるかと、なんだか違った世界の出来事のようにそれを聞いていると、その音はだんだん病室のほうに近寄って来た。……愛子ではないか……葉子は愕然《がくぜん》として夢からさめた人のようにきっ[#「きっ」に傍点]となってさらに耳をそばだてた。
 もうそこには死生を瞑想《めいそう》して自分の妄執《もうしゅう》のはかなさをしみじみと思いやった葉子はいなかった。我執のために緊張しきったその目は怪しく輝いた。そして大急ぎで髪のほつれをかき上げて、鏡に顔を映しながら、あちこちと指先で容子《ようす》を整えた。衣紋《えもん》もなおした。そしてまたじっ[#「じっ」に傍点]と玄関のほうに聞き耳を立てた。
 はたして玄関の戸のあく音が聞こえた。しばらく廊下がごた[#「ごた」に傍点]ごたする様子だったが、やがて二三人の足音が聞こえて、貞世の病室の戸がしめやか[#「しめやか」に傍点]に開かれた。葉子はそのしめやか[#「しめやか」に傍点]さでそれは岡が開いたに違いない事を知った。やがて開かれた戸口から岡にちょっと挨拶《あいさつ》しながら愛子の顔が静かに現われた。葉子の目は知らず知らずそのどこまでも従順らしく伏し目になった愛子の面《おもて》に激しく注がれて、そこに書かれたすべてを一時に読み取ろうとした。小羊のようにまつ毛の長いやさしい愛子の目はしかし不思議にも葉子の鋭い眼光にさえ何物をも見せようとはしなかった。葉子はすぐいらいらして、何事もあばかないではおくものかと心の中で自分自身に誓言《せいごん》を立てながら、
 「倉地さんは」
 と突然真正面から愛子にこう尋ねた。愛子は多恨な目をはじめてまとも[#「まとも」に傍点]に葉子のほうに向けて、貞世のほうにそれをそらしながら、また葉子をぬすみ見るようにした。そして倉地さんがどうしたというのか意味が読み取れないというふうを見せながら返事をしなかった。生意気《なまいき》をしてみるがいい……葉子はいらだっていた。
 「おじさんも一緒にいらしったかいというんだよ」
 「いゝえ」
 愛子は無愛想《ぶあいそ》なほど無表情に一言《ひとこと》そう答えた。二人《ふたり》の間にはむずかしい沈黙が続いた。葉子はすわれとさえいってやらなかった。一日一日と美しくなって行くような愛子は小肥《こぶと》りなからだをつつましく整えて静かに立っていた。
 そこに岡が小道具を両手に下げて玄関のほうから帰って来た。外套《がいとう》をびっしょり[#「びっしょり」に傍点]雨にぬらしているのから見ても、この真夜中に岡がどれほど働いてくれたかがわかっていた。葉子はしかしそれには一言の挨拶《あいさつ》もせずに、岡が道具を部屋《へや》のすみにおくや否や、
 「倉地さんは何かいっていまして?」
 と剣《けん》を言葉に持たせながら尋ねた。
 「倉地さんはおいでがありませんでした。で婆《ばあ》やに言伝《ことづ》てをしておいて、お入り用の荷物だけ造って持って来ました。これはお返ししておきます」
 そういって衣嚢《かくし》の中から例の紙幣の束を取り出して葉子に渡そうとした。
 愛子だけならまだしも、岡までがとうとう自分を裏切ってしまった。二人が二人ながら見えすいた虚言《うそ》をよくもああしらじらしくいえたものだ。おおそれた弱虫どもめ。葉子は世の中が手ぐすね引いて自分|一人《ひとり》を敵に回しているように思った。
 「へえ、そうですか。どうも御苦労さま。……愛さんお前はそこにそうぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]立ってるためにここに呼ばれたと思っているの? 岡さんのそのぬれた外套《がいとう》でも取ってお上げなさいな。そして宿直室に行って看護婦にそういってお茶でも持っておいで。あなたの大事な岡さんがこんなにおそくまで働いてくださったのに……さあ岡さんどうぞこの椅子《いす》に(といって自分は立ち上がった)……わたしが行って来るわ、愛さんも働いてさぞ疲れたろうから……よござんす、よござんすったら愛さん……」
 自分のあとを追おうとする愛子を刺し貫くほど睨《ね》めつけておいて葉子は部屋を出た。そうして火をかけられたようにかっ[#「かっ」に傍点]と逆上しながら、ほろほろとくやし涙を流して暗い廊下を夢中で宿直室のほうへ急いで行った。

    四四

 たたきつけるようにして倉地に返してしまおうとした金は、やはり手に持っているうちに使い始めてしまった。葉子の性癖としていつでもできるだけ豊かな快い夜昼《よるひる》を送るようにのみ傾いていたので、貞世の病院生活にも、だれに見せてもひけ[#「ひけ」に傍点]を取らないだけの事を上《うわ》べばかりでもしていたかった。夜具でも調度でも家にあるものの中でいちばん優《すぐ》れたものを選んで来てみると、すべての事までそれにふさわしいものを使わなければならなかった。葉子が専用の看護婦を二人《ふたり》も頼まなかったのは不思議なようだが、どういうものか貞世の看護をどこまでも自分|一人《ひとり》でしてのけたかったのだ。その代わり年とった女を二人|傭《やと》って交代に病院に来《こ》さして、洗い物から食事の事までを賄《まかな》わした。葉子はとても病院の食事では済ましていられなかった。材料のいい悪いはとにかく、味はとにかく、何よりもきたならしい感じがして箸《はし》もつける気になれなかったので、本郷《ほんごう》通りにある或《あ》る料理屋から日々入れさせる事にした。こんなあんばいで、費用は知れない所に思いのほかかかった。葉子が倉地が持って来てくれた紙幣の束から仕払おうとした時は、いずれそのうち木村から送金があるだろうから、あり次第それから埋め合わせをして、すぐそのまま返そうと思っていたのだった。しかし木村からは、六月になって以来一度も送金の通知は来なかった。葉子はそれだからなおさらの事もう来そうなものだと心待ちをしたのだった。それがいくら待っても来ないとなるとやむを得ず持ち合わせた分から使って行かなければならなかった。まだまだと思っているうちに束の厚みはどんどん減って行った。それが半分ほど減ると、葉子は全く返済の事などは忘れてしまったようになって、あるに任せて惜しげもなく仕払いをした。
 七月にはいってから気候はめっきり暑くなった。椎《しい》の木の古葉もすっかり[#「すっかり」に傍点]散り尽くして、松も新しい緑にかわって、草も木も青い焔《ほのお》のようになった。長く寒く続いた五月雨《さみだれ》のなごりで、水蒸気が空気中に気味わるく飽和されて、さらぬだに急に堪《た》え難《がた》く暑くなった気候をますます堪え難いものにした。葉子は自身の五体が、貞世の回復をも待たずにずんずんくずれて行くのを感じないわけには行かなかった。それと共に勃発的《ぼっぱつてき》に起こって来るヒステリーはいよいよ募るばかりで、その発作《ほっさ》に襲われたが最後、自分ながら気が違ったと思うような事がたびたびになった。葉子は心ひそかに自分を恐れながら、日々の自分を見守る事を余儀なくされた。
 葉子のヒステリーはだれかれの見さかいなく破裂するようになったがことに愛子に屈強の逃げ場を見いだした。なんといわれてもののしられても、打ち据《す》えられさえしても、屠所《としょ》の羊のように柔順に黙ったまま、葉子にはまどろしく見えるくらいゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]落ち着いて働く愛子を見せつけられると、葉子の疳癪《かんしゃく》は嵩《こう》じるばかりだった。あんな素直《すなお》な殊勝げなふうをしていながらしらじらしくも姉を欺いている。それが倉地との関係においてであれ、岡との関係においてであれ、ひょっとすると古藤との関係においてであれ、愛子は葉子に打ち明けない秘密を持ち始めているはずだ。そう思うと葉子は無理にも平地に波瀾《はらん》が起こしてみたかった。ほとんど毎日――それは愛子が病院に寝泊まりするようになったためだと葉子は自分|決《ぎ》めに決めていた――幾時間かの間、見舞いに来てくれる岡に対しても、葉子はもう元のような葉子ではなかった。どうかすると思いもかけない時に明白な皮肉が矢のように葉子の口びるから岡に向かって飛ばされた。岡は自分が恥じるように顔を紅《あか》らめながらも、上品な態度でそれをこらえた。それがまたなおさら葉子をいらつかす種《たね》になった。
 もう来《こ》られそうもないといいながら倉地も三日に一度ぐらいは病院を見舞うようになった。葉子はそれをも愛子ゆえと考えずにはいられなかった。そう激しい妄想《もうそう》に駆り立てられて来ると、どういう関係で倉地と自分とをつないでおけばいいのか、どうした態度で倉地をもちあつかえばいいのか、葉子にはほとほと見当がつかなくなってしまった。親身《しんみ》に持ちかけてみたり、よそよそしく取りなしてみたり、その時の気分気分で勝手な無技巧な事をしていながらも、どうしてものがれ出る事のできないのは倉地に対するこちん[#「こちん」に傍点]と固まった深い執着だった。それは情けなくも激しく強くなり増さるばかりだった。もう自分で自分の心根《こころね》を憫然《びんぜん》に思ってそぞろに涙を流して、自らを慰めるという余裕すらなくなってしまった。かわききった火のようなものが息気《いき》苦しいまでに胸の中にぎっしり[#「ぎっしり」に傍点]つまっているだけだった。
 ただ一人《ひとり》貞世だけは……死ぬか生きるかわからない貞世だけは、この姉を信じきってくれている……そう思うと葉子は前にも増した愛着をこの病児にだけは感じないでいられなかった。「貞世がいるばかりで自分は人殺しもしないでこうしていられるのだ」と葉子は心の中で独語《ひとりご》ちた。
 けれどもある朝そのかすかな希望さえ破れねばならぬような事件がまくし上がった。
 その朝は暁から水がしたたりそうに空が晴れて、珍しくすがすがしい涼風が木の間から来て窓の白いカーテンをそっ[#「そっ」に傍点]となでて通るさわやかな天気だったので、夜通し貞世の寝台のわきに付き添って、睡《ねむ》くなるとそうしたままでうとうとと居睡《いねむ》りしながら過ごして来た葉子も、思いのほか頭の中が軽くなっていた。貞世もその晩はひどく熱に浮かされもせずに寝続けて、四時ごろの体温は七度八分まで下がっていた。緑色の風呂敷《ふろしき》を通して来る光でそれを発見した葉子は飛び立つような喜びを感じた。入院してから七度台に熱の下がったのはこの朝が始めてだったので、もう熱の剥離期《はくりき》が来たのかと思うと、とうとう貞世の命は取り留めたという喜悦《きえつ》の情で涙ぐましいまでに胸はいっぱいになった。ようやく一心が届いた。自分のために病気になった貞世は、自分の力でなおった。そこから自分の運命はまた新しく開けて行くかもしれない。きっ
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