消えてなくなったような寒さと闇《やみ》とが葉子の心におおいかぶさって来た。愛子|一人《ひとり》ぐらいを指の間に握りつぶす事ができないと思っているのか……見ているがいい。葉子はいらだちきって毒蛇《どくじゃ》のような殺気だった心になった。そして静かに岡のほうを顧みた。
 何か遠いほうの物でも見つめているように少しぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]した目つきで貞世を見守っていた岡は、葉子に振り向かれると、そのほうに素早《すばや》く目を転じたが、その物すごい不気味《ぶきみ》さに脊髄《せきずい》まで襲われたふうで、顔色をかえて目をたじろがした。
 「岡さん。わたし一生のお頼み……これからすぐ山内《さんない》の家まで行ってください。そして不用な荷物は今夜のうちにみんな倉地さんの下宿に送り返してしまって、わたしと愛子のふだん使《づか》いの着物と道具とを持って、すぐここに引っ越して来るように愛子にいいつけてください。もし倉地さんが家に来ていたら、わたしから確かに返したといってこれを渡してください(そういって葉子は懐紙《ふところがみ》に拾円紙幣の束を包んで渡した)。いつまでかかっても構わないから今夜のうちにね。お頼みを聞いてくださって?」
 なんでも葉子のいう事なら口返答をしない岡だけれどもこの常識をはずれた葉子の言葉には当惑して見えた。岡は窓ぎわに行ってカーテンの陰から戸外をすかして見て、ポケットから巧緻《こうち》な浮き彫りを施した金時計を取り出して時間を読んだりした。そして少し躊躇《ちゅうちょ》するように、
 「それは少し無理だとわたし、思いますが……あれだけの荷物を片づけるのは……」
 「無理だからこそあなたを見込んでお願いするんですわ。そうねえ、入り用のない荷物を倉地さんの下宿に届けるのは何かもしれませんわね。じゃ構わないから置き手紙を婆《ばあ》やというのに渡しておいてくださいまし。そして婆やにいいつけてあすでも倉地さんの所に運ばしてくださいまし。それなら何もいさくさ[#「いさくさ」に傍点]はないでしょう。それでもおいや? いかが?……ようございます。それじゃもうようございます。あなたをこんなにおそくまでお引きとめしておいて、又候《またぞろ》めんどうなお願いをしようとするなんてわたしもどうかしていましたわ。……貞《さあ》ちゃんなんでもないのよ。わたし今岡さんとお話ししていたんですよ。汽車の音でもなんでもないんだから、心配せずにお休み……どうして貞世はこんなに怖《こわ》い事ばかりいうようになってしまったんでしょう。夜中などに一人で起きていて囈言《うわごと》を聞くとぞーっとするほど気味が悪くなりますのよ。あなたはどうぞもうお引き取りくださいまし。わたし車屋をやりますから……」
 「車屋をおやりになるくらいならわたし行きます」
 「でもあなたが倉地さんに何とか思われなさるようじゃお気の毒ですもの」
 「わたし、倉地さんなんぞをはばかっていっているのではありません」
 「それはよくわかっていますわ。でもわたしとしてはそんな結果も考えてみてからお頼みするんでしたのに……」
 こういう押し問答の末に岡はとうとう愛子の迎えに行く事になってしまった。倉地がその夜はきっと愛子の所にいるに違いないと思った葉子は、病院に泊まるものと高《たか》をくくっていた岡が突然|真夜中《まよなか》に訪れて来たので倉地もさすがにあわてずにはいられまい。それだけの狼狽《ろうばい》をさせるにしても快い事だと思っていた。葉子は宿直|部屋《べや》に行って、しだらなく睡入《ねい》った当番の看護婦を呼び起こして人力車《じんりきしゃ》を頼ました。
 岡は思い入った様子でそっ[#「そっ」に傍点]と貞世の病室を出た。出る時に岡は持って来たパラフィン紙に包んである包みを開くと美しい花束だった。岡はそれをそっ[#「そっ」に傍点]と貞世の枕《まくら》もとにおいて出て行った。
 しばらくすると、しとしとと降る雨の中を、岡を乗せた人力車が走り去る音がかすかに聞こえて、やがて遠くに消えてしまった。看護婦が激しく玄関の戸締まりする音が響いて、そのあとはひっそりと夜がふけた。遠くの部屋でディフテリヤにかかっている子供の泣く声が間遠《まどお》に聞こえるほかには、音という音は絶え果てていた。
 葉子はただ一人《ひとり》いたずらに興奮して狂うような自分を見いだした。不眠で過ごした夜が三日も四日も続いているのにかかわらず、睡気《ねむけ》というものは少しも襲って来なかった。重石《おもし》をつり下げたような腰部の鈍痛ばかりでなく、脚部は抜けるようにだるく冷え、肩は動かすたびごとにめり[#「めり」に傍点]めり音がするかと思うほど固く凝り、頭の心《しん》は絶え間なくぎり[#「ぎり」に傍点]ぎりと痛んで、そこからやりどころのない悲哀と疳癪《かんしゃく》とがこんこんとわいて出た。もう鏡は見まいと思うほど顔はげっそり[#「げっそり」に傍点]と肉がこけて、目のまわりの青黒い暈《かさ》は、さらぬだに大きい目をことさらにぎら[#「ぎら」に傍点]ぎらと大きく見せた。鏡を見まいと思いながら、葉子はおりあるごとに帯の間から懐中鏡を出して自分の顔を見つめないではいられなかった。
 葉子は貞世の寝息をうかがっていつものように鏡を取り出した。そして顔を少し電灯のほうに振り向けてじっと自分を映して見た。おびただしい毎日の抜け毛で額ぎわの著しく透いてしまったのが第一に気になった。少し振り仰いで顔を映すと頬《ほお》のこけたのがさほどに目立たないけれども、顎《あご》を引いて下俯《したうつむ》きになると、口と耳との間には縦に大きな溝《みぞ》のような凹《くぼ》みができて、下顎骨《かがくこつ》[#底本ではルビが「かがつこつ」]が目立っていかめしく現われ出ていた。長く見つめているうちにはだんだん慣れて来て、自分の意識でしいて矯正《きょうせい》するために、やせた顔もさほどとは思われなくなり出すが、ふと鏡に向かった瞬間には、これが葉子葉子と人々の目をそばだたした自分かと思うほど醜かった。そうして鏡に向かっているうちに、葉子はその投影を自分以外のある他人の顔ではないかと疑い出した。自分の顔より映るはずがない。それだのにそこに映っているのは確かにだれか見も知らぬ人の顔だ。苦痛にしいたげられ、悪意にゆがめられ、煩悩《ぼんのう》のために支離滅裂になった亡者《もうじゃ》の顔……葉子は背筋に一時に氷をあてられたようになって、身ぶるいしながら思わず鏡を手から落とした。
 金属の床に触れる音が雷のように響いた。葉子はあわてて貞世を見やった。貞世はまっ赤《か》に充血して熱のこもった目をまんじり[#「まんじり」に傍点]と開いて、さも不思議そうに中有《ちゅうう》を見やっていた。
 「愛ねえさん……遠くでピストルの音がしたようよ」
 はっきり[#「はっきり」に傍点]した声でこういったので、葉子が顔を近寄せて何かいおうとすると昏々《こんこん》としてたわいもなくまた眠りにおちいるのだった。貞世の眠るのと共に、なんともいえない無気味な死の脅かしが卒然として葉子を襲った。部屋《へや》の中にはそこらじゅうに死の影が満ち満ちていた。目の前の氷水を入れたコップ一つも次の瞬間にはひとりで[#「ひとりで」に傍点]に倒れてこわれてしまいそうに見えた。物の影になって薄暗い部分は見る見る部屋じゅうに広がって、すべてを冷たく暗く包み終わるかとも疑われた。死の影は最も濃く貞世の目と口のまわりに集まっていた。そこには死が蛆《うじ》のようににょろ[#「にょろ」に傍点]にょろとうごめいているのが見えた。それよりも……それよりもその影はそろそろと葉子を目がけて四方の壁から集まり近づこうとひしめいているのだ。葉子はほとんどその死の姿を見るように思った。頭の中がシーン[#「シーン」に傍点]と冷え通って冴《さ》えきった寒さがぞく[#「ぞく」に傍点]ぞくと四|肢《し》を震わした。
 その時宿直室の掛け時計が遠くのほうで一時を打った。
 もしこの音を聞かなかったら、葉子は恐ろしさのあまり自分のほうから宿直室へ駆け込んで行ったかもしれなかった。葉子はおびえながら耳をそばだてた。宿直室のほうから看護婦が草履《ぞうり》をばたばたと引きずって来る音が聞こえた。葉子はほっ[#「ほっ」に傍点]と息気《いき》をついた。そしてあわてるように身を動かして、貞世の頭の氷嚢《ひょうのう》の溶け具合をしらべて見たり、掻巻《かいまき》を整えてやったりした。海の底に一つ沈んでぎらっ[#「ぎらっ」に傍点]と光る貝殻《かいがら》のように、床の上で影の中に物すごく横たわっている鏡を取り上げてふところに入れた。そうして一室一室と近づいて来る看護婦の足音に耳を澄ましながらまた考え続けた。
 今度は山内《さんない》の家のありさまがさながらまざまざと目に見るように想像された。岡が夜ふけにそこを訪れた時には倉地が確かにいたに違いない。そしていつものとおり一種の粘り強さをもって葉子の言伝《ことづ》てを取り次ぐ岡に対して、激しい言葉でその理不尽な狂気じみた葉子の出来心をののしったに違いない。倉地と岡との間には暗々裡《あんあんり》に愛子に対する心の争闘が行なわれたろう。岡の差し出す紙幣の束を怒りに任せて畳の上にたたきつける倉地の威丈高《いたけだか》な様子、少女にはあり得ないほどの冷静さで他人事《ひとごと》のように二人《ふたり》の間のいきさつ[#「いきさつ」に傍点]を伏し目ながらに見守る愛子の一種の毒々しい妖艶《ようえん》さ。そういう姿がさながら目の前に浮かんで見えた。ふだんの葉子だったらその想像は葉子をその場にいるように興奮させていたであろう。けれども死の恐怖に激しく襲われた葉子はなんともいえない嫌悪《けんお》の情をもってのほかにはその場面を想像する事ができなかった。なんというあさましい人の心だろう。結局は何もかも滅びて行くのに、永遠な灰色の沈黙の中にくずれ込んでしまうのに、目前の貪婪《どんらん》に心火の限りを燃やして、餓鬼《がき》同様に命をかみ合うとはなんというあさましい心だろう。しかもその醜い争いの種子《たね》をまいたのは葉子自身なのだ。そう思うと葉子は自分の心と肉体とがさながら蛆虫《うじむし》のようにきたなく見えた。……何のために今まであってないような妄執《もうしゅう》に苦しみ抜いてそれを生命そのもののように大事に考え抜いていた事か。それはまるで貞世が始終見ているらしい悪夢の一つよりもさらにはかないものではないか。……こうなると倉地さえが縁もゆかりもないもののように遠く考えられ出した。葉子はすべてのもののむなしさにあきれたような目をあげて今さららしく部屋《へや》の中をながめ回した。なんの飾りもない、修道院の内部のような裸な室内がかえってすがすがしく見えた。岡の残した貞世の枕《まくら》もとの花束だけが、そしておそらくは(自分では見えないけれども)これほどの忙しさの間にも自分を粉飾するのを忘れずにいる葉子自身がいかにも浮薄なたよりないものだった。葉子はこうした心になると、熱に浮かされながら一歩一歩なんの心のわだかまりもなく死に近づいて行く貞世の顔が神々《こうごう》しいものにさえ見えた。葉子は祈るようなわび驍謔、な心でしみじみと貞世を見入った。
 やがて看護婦が貞世の部屋《へや》にはいって来た。形式一ぺんのお辞儀を睡《ねむ》そうにして、寝台のそばに近寄ると、無頓着《むとんじゃく》なふうに葉子が入れておいた検温器を出して灯《ひ》にすかして見てから、胸の氷嚢《ひょうのう》を取りかえにかかった。葉子は自分|一人《ひとり》の手でそんな事をしてやりたいような愛着と神聖さとを貞世に感じながら看護婦を手伝った。
 「貞《さあ》ちゃん……さ、氷嚢を取りかえますからね……」
 とやさしくいうと、囈言《うわごと》をいい続けていながらやはり貞世はそれまで眠っていたらしく、痛々《いたいた》しいまで大きくなった目を開いて、まじ[#「まじ」に傍点]まじと意外な人でも見るように葉子を見るのだった。
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