捕えている貞世の手をほどいて、倉地のあとから病室を出た。病室を出るとすぐ葉子はもう貞世を看護している葉子ではなかった。
葉子はすぐに倉地に引き添って肩をならべながら廊下を応接室のほうに伝って行った。
「お前はずいぶんと疲れとるよ。用心せんといかんぜ」
「大丈夫……こっちは大丈夫です。それにしてもあなたは……お忙しかったんでしょうね」
たとえば自分の言葉は稜針《かどばり》で、それを倉地の心臓に揉《も》み込むというような鋭い語気になってそういった。
「全く忙しかった。あれからわしはお前の家には一度もよう行かずにいるんだ」
そういった倉地の返事にはいかにもわだかまりがなかった。葉子の鋭い言葉にも少しも引けめを感じているふうは見えなかった。葉子でさえが危うくそれを信じようとするほどだった。しかしその瞬間に葉子は燕返《つばめがえ》しに自分に帰った。何をいいかげんな……それは白々《しらじら》しさが少し過ぎている。この十日の間に、倉地にとってはこの上もない機会の与えられた十日の間に、杉森《すぎもり》の中のさびしい家にその足跡の印《しる》されなかったわけがあるものか。……さらぬだに、病み果て疲れ果てた頭脳に、極度の緊張を加えた葉子は、ぐらぐらとよろけた足もとが廊下の板に着いていないような憤怒《ふんぬ》に襲われた。
応接室まで来て上《うわ》っ張《ぱ》りを脱ぐと、看護婦が噴霧器《ふんむき》を持って来て倉地の身のまわりに消毒薬を振りかけた。そのかすかなにおいがようやく葉子をはっきり[#「はっきり」に傍点]した意識に返らした。葉子の健康が一日一日といわず、一時間ごとにもどんどん弱って行くのが身にしみて知れるにつけて、倉地のどこにも批点のないような頑丈《がんじょう》な五体にも心にも、葉子はやりどころのないひがみと憎しみを感じた。倉地にとっては葉子はだんだんと用のないものになって行きつつある。絶えず何か目新しい冒険を求めているような倉地にとっては、葉子はもう散りぎわの花に過ぎない。
看護婦がその室《へや》を出ると、倉地は窓の所に寄って行って、衣嚢《かくし》の中から大きな鰐皮《わにがわ》のポケットブックを取り出して、拾円札のかなりの束を引き出した。葉子はそのポケットブックにもいろいろの記憶を持っていた。竹柴館《たけしばかん》で一夜を過ごしたその朝にも、その後のたびたびのあいびき[#「あいびき」に傍点]のあとの支払いにも、葉子は倉地からそのポケットブックを受け取って、ぜいたくな支払いを心持ちよくしたのだった。そしてそんな記憶はもう二度とは繰り返せそうもなく、なんとなく葉子には思えた。そんな事をさせてなるものかと思いながらも、葉子の心は妙に弱くなっていた。
「また足らなくなったらいつでもいってよこすがいいから……おれのほうの仕事はどうもおもしろくなくなって来《き》おった。正井のやつ何か容易ならぬ悪戯《わるさ》をしおった様子もあるし、油断がならん。たびたびおれがここに来るのも考え物だて」
紙幣を渡しながらこういって倉地は応接室を出た。かなりぬれているらしい靴《くつ》をはいて、雨水で重そうになった洋傘《こうもり》をばさ[#「ばさ」に傍点]ばさいわせながら開いて、倉地は軽い挨拶《あいさつ》を残したまま夕闇《ゆうやみ》の中に消えて行こうとした。間を置いて道わきにともされた電灯の灯《ひ》が、ぬれた青葉をすべり落ちてぬかるみの中に燐《りん》のような光を漂わしていた。その中をだんだん南門のほうに遠ざかって行く倉地を見送っていると葉子はとてもそのままそこに居残ってはいられなくなった。
だれの履《は》き物《もの》とも知らずそこにあった吾妻下駄《あづまげた》をつっかけて葉子は雨の中を玄関から走り出て倉地のあとを追った。そこにある広場には欅《けやき》や桜の木がまばらに立っていて、大規模な増築のための材料が、煉瓦《れんが》や石や、ところどころに積み上げてあった。東京の中央にこんな所があるかと思われるほど物さびしく静かで、街灯の光の届く所だけに白く光って斜めに雨のそそぐのがほのかに見えるばかりだった。寒いとも暑いともさらに感じなく過ごして来た葉子は、雨が襟脚《えりあし》に落ちたので初めて寒いと思った。関東に時々襲って来る時ならぬ冷え日《び》でその日もあったらしい。葉子は軽く身ぶるいしながら、いちずに倉地のあとを追った。やや十四五|間《けん》も先にいた倉地は足音を聞きつけたと見えて立ちどまって振り返った。葉子が追いついた時には、肩はいいかげんぬれて、雨のしずくが前髪を伝って額に流れかかるまでになっていた。葉子はかすかな光にすかして、倉地が迷惑そうな顔つきで立っているのを知った。葉子はわれにもなく倉地が傘《かさ》を持つために水平に曲げたその腕にすがり付いた。
「さっきのお金はお返しします。義理ずくで他人からしていただくんでは胸がつかえますから……」
倉地の腕の所で葉子のすがり付いた手はぶるぶると震えた。傘からはしたたりがことさら繁《しげ》く落ちて、単衣《ひとえ》をぬけて葉子の肌《はだ》ににじみ通った。葉子は、熱病患者が冷たいものに触れた時のような不快な悪寒《おかん》を感じた。
「お前の神経は全く少しどうかしとるぜ。おれの事を少しは思ってみてくれてもよかろうが……疑うにもひがむにもほどがあっていいはずだ。おれはこれまでにどんな不貞腐《ふてくさ》れをした。いえるならいってみろ」
さすがに倉地も気にさえているらしく見えた。
「いえないように上手《じょうず》に不貞腐《ふてくさ》れをなさるのじゃ、いおうったっていえやしませんわね。なぜあなたははっきり[#「はっきり」に傍点]葉子にはあきた、もう用がないとおいいになれないの。男らしくもない。さ、取ってくださいましこれを」
葉子は紙幣の束をわなわなする手先で倉地の胸の所に押しつけた。
「そしてちゃん[#「ちゃん」に傍点]と奥さんをお呼び戻《もど》しなさいまし。それで何もかも元通りになるんだから。はばかりながら……」
「愛子は」と口もとまでいいかけて、葉子は恐ろしさに息気《いき》を引いてしまった。倉地の細君《さいくん》の事までいったのはその夜が始めてだった。これほど露骨《ろこつ》な嫉妬《しっと》の言葉は、男の心を葉子から遠ざからすばかりだと知り抜いて慎んでいたくせに、葉子はわれにもなく、がみ[#「がみ」に傍点]がみと妹の事までいってのけようとする自分にあきれてしまった。
葉子がそこまで走り出て来たのは、別れる前にもう一度倉地の強い腕でその暖かく広い胸に抱かれたいためだったのだ。倉地に悪《あく》たれ口をきいた瞬間でも葉子の願いはそこにあった。それにもかかわらず口の上では全く反対に、倉地を自分からどんどん離れさすような事をいってのけているのだ。
葉子の言葉が募るにつれて、倉地は人目をはばかるようにあたり[#「あたり」に傍点]を見回した。互い互いに殺し合いたいほどの執着を感じながら、それを言い現わす事も信ずる事もできず、要もない猜疑《さいぎ》と不満とにさえぎられて、見る見る路傍の人のように遠ざかって行かねばならぬ、――そのおそろしい運命を葉子はことさら痛切に感じた。倉地があたりを見回した――それだけの挙動が、機を見計らっていきなり[#「いきなり」に傍点]そこを逃げ出そうとするもののようにも思いなされた。葉子は倉地に対する憎悪《ぞうお》の心を切《せつ》ないまでに募らしながら、ますます相手の腕に堅く寄り添った。
しばらくの沈黙の後、倉地はいきなり[#「いきなり」に傍点]洋傘《こうもり》をそこにかなぐり捨てて、葉子の頭を右腕で巻きすくめようとした。葉子は本能的に激しくそれにさからった。そして紙幣の束をぬかるみの中にたたきつけた。そして二人《ふたり》は野獣のように争った。
「勝手にせい……ばかっ」
やがてそう激しくいい捨てると思うと、倉地は腕の力を急にゆるめて、洋傘《こうもり》を拾い上げるなり、あとをも向かずに南門のほうに向いてずんずんと歩き出した。憤怒と嫉妬《しっと》とに興奮しきった葉子は躍起《やっき》となってそのあとを追おうとしたが、足はしびれたように動かなかった。ただだんだん遠ざかって行く後ろ姿に対して、熱い涙がとめどなく流れ落ちるばかりだった。
しめやかな音を立てて雨は降りつづけていた。隔離病室のある限りの窓にはかん[#「かん」に傍点]かんと灯《ひ》がともって、白いカーテンが引いてあった。陰惨な病室にそう赤々と灯のともっているのはかえってあたりを物すさまじくして見せた。
葉子は紙幣の束を拾い上げるほか、術《すべ》のないのを知って、しおしおとそれを拾い上げた。貞世の入院料はなんといってもそれで仕払うよりしようがなかったから。いいようのないくやし涙がさらにわき返った。
四三
その夜おそくまで岡はほんとうに忠実《まめ》やかに貞世の病床に付き添って世話をしてくれた。口少《くちずく》なにしとやか[#「しとやか」に傍点]によく気をつけて、貞世の欲する事をあらかじめ知り抜いているような岡の看護ぶりは、通り一ぺんな看護婦の働きぶりとはまるでくらべものにならなかった。葉子は看護婦を早く寝かしてしまって、岡と二人だけで夜のふけるまで氷嚢《ひょうのう》を取りかえたり、熱を計ったりした。
高熱のために貞世の意識はだんだん不明瞭《ふめいりょう》になって来ていた。退院して家に帰りたいとせがんでしようのない時は、そっ[#「そっ」に傍点]と向きをかえて臥《ね》かしてから、「さあもうお家《うち》ですよ」というと、うれしそうに笑顔《えがお》をもらしたりした。それを見なければならぬ葉子はたまらなかった。どうかした拍子《ひょうし》に、葉子は飛び上がりそうに心が責められた。これで貞世が死んでしまったなら、どうして生き永《なが》らえていられよう。貞世をこんな苦しみにおとしいれたものはみんな自分だ。自分が前どおりに貞世に優しくさえしていたら、こんな死病は夢にも貞世を襲って来はしなかったのだ。人の心の報いは恐ろしい……そう思って来ると葉子はだれにわびようもない苦悩に息気《いき》づまった。
緑色の風呂敷《ふろしき》で包んだ電燈の下に、氷嚢《ひょうのう》を幾つも頭と腹部とにあてがわれた貞世は、今にも絶え入るかと危ぶまれるような荒い息気《いき》づかいで夢現《ゆめうつつ》の間をさまようらしく、聞きとれない囈言《うわごと》を時々口走りながら、眠っていた。岡は部屋《へや》のすみのほうにつつましく突っ立ったまま、緑色をすかして来る電燈の光でことさら青白い顔色をして、じっ[#「じっ」に傍点]と貞世を見守っていた。葉子は寝台に近く椅子《いす》を寄せて、貞世の顔をのぞき込むようにしながら、貞世のために何かし続けていなければ、貞世の病気がますます重《おも》るという迷信のような心づかいから、要もないのに絶えず氷嚢《ひょうのう》の位置を取りかえてやったりなどしていた。
そして短い夜はだんだんにふけて行った。葉子の目からは絶えず涙がはふり落ちた。倉地と思いもかけない別れかたをしたその記憶が、ただわけもなく葉子を涙ぐました。
と、ふっ[#「ふっ」に傍点]と葉子は山内《さんない》の家のありさまを想像に浮かべた。玄関わきの六畳ででもあろうか、二階の子供の勉強|部屋《べや》ででもあろうか、この夜ふけを下宿から送られた老女が寝入ったあと、倉地と愛子とが話し続けているような事はないか。あの不思議に心の裏を決して他人に見せた事のない愛子が、倉地をどう思っているかそれはわからない。おそらくは倉地に対しては何の誘惑も感じてはいないだろう。しかし倉地はああいうしたたか[#「したたか」に傍点]者だ。愛子は骨に徹する怨恨《えんこん》を葉子に対していだいている。その愛子が葉子に対して復讐《ふくしゅう》の機会を見いだしたとこの晩思い定めなかったとだれが保証し得よう。そんな事はとうの昔に行なわれてしまっているのかもしれない。もしそうなら、今ごろは、このしめやかな夜を……太陽が
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