った。そこに一人残された愛子……長い時間の間《あいだ》にどんな事でも起こり得ずにいるものか。そう気を回し出すと葉子は貞世の寝台のかたわらにいて、熱のために口びるがかさ[#「かさ」に傍点]かさになって、半分目をあけたまま昏睡《こんすい》しているその小さな顔を見つめている時でも、思わずかっ[#「かっ」に傍点]となってそこを飛び出そうとするような衝動に駆り立てられるのだった。
しかしまた短く感じられるほうの期間にはただ貞世ばかりがいた。末子として両親からなめるほど溺愛《できあい》もされ、葉子の唯一の寵児《ちょうじ》ともされ、健康で、快活で、無邪気で、わがままで、病気という事などはついぞ知らなかったその子は、引き続いて父を失い、母を失い、葉子の病的な呪詛《じゅそ》の犠牲となり、突然死病に取りつかれて、夢にもうつつにも思いもかけなかった死と向かい合って、ひたすらに恐れおののいている、その姿は、千丈の谷底に続く崕《がけ》のきわに両手だけでぶら下がった人が、そこの土がぼろぼろとくずれ落ちるたびごとに、懸命になって助けを求めて泣き叫びながら、少しでも手がかりのある物にしがみつこうとするのを見るのと異ならなかった。しかもそんなはめ[#「はめ」に傍点]に貞世をおとしいれてしまったのは結局自分に責任の大部分があると思うと、葉子はいとしさ悲しさで胸も腸《はらわた》も裂けるようになった。貞世が死ぬにしても、せめては自分だけは貞世を愛し抜いて死なせたかった。貞世をかりにもいじめるとは……まるで天使のような心で自分を信じきり愛し抜いてくれた貞世をかりにも没義道《もぎどう》に取り扱ったとは……葉子は自分ながら葉子の心の埒《らち》なさ恐ろしさに悔いても悔いても及ばない悔いを感じた。そこまで詮《せん》じつめて来ると、葉子には倉地もなかった。ただ命にかけても貞世を病気から救って、貞世が元通りにつやつやしい健康に帰った時、貞世を大事に大事に自分の胸にかき抱《いだ》いてやって、
「貞《さあ》ちゃんお前はよくこそなおってくれたね。ねえさんを恨まないでおくれ。ねえさんはもう今までの事をみんな後悔して、これからはあなたをいつまでもいつまでも後生《ごしょう》大事にしてあげますからね」
としみじみと泣きながらいってやりたかった。ただそれだけの願いに固まってしまった。そうした心持ちになっていると、時間はただ矢のように飛んで過ぎた。死のほうへ貞世を連れて行く時間はただ矢のように飛んで過ぎると思えた。
この奇怪な心の葛藤《かっとう》に加えて、葉子の健康はこの十日ほどの激しい興奮と活動とでみじめにもそこない傷つけられているらしかった。緊張の極点にいるような今の葉子にはさほどと思われないようにもあったが、貞世が死ぬかなおるかして一息つく時が来たら、どうして肉体をささえる事ができようかと危ぶまないではいられない予感がきびしく葉子を襲う瞬間は幾度もあった。
そうした苦しみの最中に珍しく倉地が尋ねて来たのだった。ちょうど何もかも忘れて貞世の事ばかり気にしていた葉子は、この案内を聞くと、まるで生まれかわったようにその心は倉地でいっぱいになってしまった。
病室の中から叫びに叫ぶ貞世の声が廊下まで響いて聞こえたけれども、葉子はそれには頓着《とんじゃく》していられないほどむきになって看護婦のあとを追った。歩きながら衣紋《えもん》を整えて、例の左手をあげて鬢《びん》の毛を器用にかき上げながら、応接室の所まで来ると、そこはさすがにいくぶんか明るくなっていて、開き戸のそばのガラス窓の向こうに頑丈《がんじょう》な倉地と、思いもかけず岡の華車《きゃしゃ》な姿とがながめられた。
葉子は看護婦のいるのも岡のいるのも忘れたようにいきなり[#「いきなり」に傍点]倉地に近づいて、その胸に自分の顔を埋《うず》めてしまった。何よりもかによりも長い長い間あい得ずにいた倉地の胸は、数限りもない連想に飾られて、すべての疑惑や不快を一掃するに足るほどなつかしかった。倉地の胸から触れ慣れた衣《きぬ》ざわりと、強烈な膚のにおいとが、葉子の病的に嵩《こう》じた感覚を乱酔さすほどに伝わって来た。
「どうだ、ちっとはいいか」
「おゝこの声だ、この声だ」……葉子はかく思いながら悲しくなった。それは長い間|闇《やみ》の中に閉じこめられていたものが偶然|灯《ひ》の光を見た時に胸を突いてわき出て来るような悲しさだった。葉子は自分の立場をことさらあわれに描いてみたい衝動を感じた。
「だめです。貞世は、かわいそうに死にます」
「ばかな……あなたにも似合わん、そう早《はよ》う落胆する法があるものかい。どれ一つ見舞ってやろう」
そういいながら倉地は先刻からそこにいた看護婦のほうに振り向いた様子だった。そこに看護婦も岡もいるという事はちゃんと知っていながら、葉子はだれもいないもののような心持ちで振る舞っていたのを思うと、自分ながらこのごろは心が狂っているのではないかとさえ疑った。看護婦は倉地と葉子との対話ぶりで、この美しい婦人の素性《すじょう》をのみ込んだというような顔をしていた。岡はさすがにつつましやかに心痛の色を顔に現わして椅子《いす》の背に手をかけたまま立っていた。
「あゝ、岡さんあなたもわざわざお見舞いくださってありがとうございました」
葉子は少し挨拶《あいさつ》の機会をおくらしたと思いながらもやさしくこういった。岡は頬《ほお》を紅《あか》らめたまま黙ってうなずいた。
「ちょうど今見えたもんだで御一緒したが、岡さんはここでお帰りを願ったがいいと思うが……(そういって倉地は岡のほうを見た)何しろ病気が病気ですから……」
「わたし、貞世さんにぜひお会いしたいと思いますからどうかお許しください」
岡は思い入ったようにこういって、ちょうどそこに看護婦が持って来た二枚の白い上《うわ》っ張《ぱ》りのうち少し古く見える一枚を取って倉地よりも先に着始めた。葉子は岡を見るともう一つのたくらみ[#「たくらみ」に傍点]を心の中で案じ出していた。岡をできるだけたびたび山内《さんない》の家のほうに遊びに行かせてやろう。それは倉地と愛子とが接触する機会をいくらかでも妨げる結果になるに違いない。岡と愛子とが互いに愛し合うようになったら……なったとしてもそれは悪い結果という事はできない。岡は病身ではあるけれども地位もあれば金もある。それは愛子のみならず、自分の将来に取っても役に立つに相違ない。……とそう思うすぐその下から、どうしても虫の好《す》かない愛子が、葉子の意志の下《もと》にすっかり[#「すっかり」に傍点]つなぎつけられているような岡をぬすんで行くのを見なければならないのが面《つら》憎くも妬《ねた》ましくもあった。
葉子は二人《ふたり》の男を案内しながら先に立った。暗い長い廊下の両側に立ちならんだ病室の中からは、呼吸困難の中からかすれたような声でディフテリヤらしい幼児の泣き叫ぶのが聞こえたりした。貞世の病室からは一人《ひとり》の看護婦が半ば身を乗り出して、部屋《へや》の中に向いて何かいいながら、しきりとこっちをながめていた。貞世の何かいい募る言葉さえが葉子の耳に届いて来た。その瞬間にもう葉子はそこに倉地のいる事なども忘れて、急ぎ足でそのほうに走り近づいた。
「そらもう帰っていらっしゃいましたよ」
といいながら顔を引っ込めた看護婦に続いて、飛び込むように病室にはいって見ると、貞世は乱暴にも寝台の上に起き上がって、膝《ひざ》小僧もあらわになるほど取り乱した姿で、手を顔にあてたままおいおいと泣いていた。葉子は驚いて寝台に近寄った。
「なんというあなたは聞きわけのない……貞《さあ》ちゃんその病気で、あなた、寝台から起き上がったりするといつまでもなおりはしませんよ。あなたの好きな倉地のおじさんと岡さんがお見舞いに来てくださったのですよ。はっきり[#「はっきり」に傍点]わかりますか、そら、そこを御覧、横になってから」
そう言い言い葉子はいかにも愛情に満ちた器用な手つきで軽く貞世をかかえて床の上に臥《ね》かしつけた。貞世の顔は今まで盛んな運動でもしていたように美しく活々《いきいき》と紅味《あかみ》がさして、ふさふさした髪の毛は少しもつれて汗ばんで額ぎわに粘りついていた。それは病気を思わせるよりも過剰の健康とでもいうべきものを思わせた。ただその両眼と口びるだけは明らかに尋常でなかった。すっかり充血したその目はふだんよりも大きくなって、二重《ふたえ》まぶたになっていた。そのひとみは熱のために燃えて、おどおどと何者かを見つめているようにも、何かを見いだそうとして尋ねあぐんでいるようにも見えた。その様子はたとえば葉子を見入っている時でも、葉子を貫いて葉子の後ろの方《かた》はるかの所にある或《あ》る者を見きわめようとあらん限りの力を尽くしているようだった。口びるは上下ともからからになって内紫《うちむらさき》という柑類《かんるい》の実をむいて天日《てんぴ》に干したようにかわいていた。それは見るもいたいたしかった。その口びるの中から高熱のために一種の臭気が呼吸のたびごとに吐き出される、その臭気が口びるの著しいゆがめかたのために、目に見えるようだった。貞世は葉子に注意されて物惰《ものう》げに少し目をそらして倉地と岡とのいるほうを見たが、それがどうしたんだというように、少しの興味も見せずにまた葉子を見入りながらせっせ[#「せっせ」に傍点]と肩をゆすって苦しげな呼吸をつづけた。
「おねえさま……水……氷……もういっちゃいや……」
これだけかすかにいうともう苦しそうに目をつぶってほろほろと大粒の涙をこぼすのだった。
倉地は陰鬱《いんうつ》な雨脚《あまあし》で灰色になったガラス窓を背景にして突っ立ちながら、黙ったまま不安らしく首をかしげた。岡は日ごろのめったに泣かない性質に似ず、倉地の後ろにそっ[#「そっ」に傍点]と引きそって涙ぐんでいた。葉子には後ろを振り向いて見ないでもそれが目に見るようにはっきり[#「はっきり」に傍点]わかった。貞世の事は自分|一人《ひとり》で背負って立つ。よけいなあわれみはかけてもらいたくない。そんないらいらしい反抗的な心持ちさえその場合起こらずにはいなかった。過ぐる十日というもの一度も見舞う事をせずにいて、今さらその由々《ゆゆ》しげな顔つきはなんだ。そう倉地にでも岡にでもいってやりたいほど葉子の心はとげとげしくなっていた。で、葉子は後ろを振り向きもせずに、箸《はし》の先につけた脱脂綿《だっしめん》を氷水の中に浸しては、貞世の口をぬぐっていた。
こうやってもののやや二十分が過ぎた。飾りけも何もない板張りの病室にはだんだん夕暮れの色が催して来た。五月雨《さみだれ》はじめじめと小休《おや》みなく戸外では降りつづいていた。「おねえ様なおしてちょうだいよう」とか「苦しい……苦しいからお薬をください」とか「もう熱を計るのはいや」とか時々|囈言《うわごと》のように言っては、葉子の手にかじりつく貞世の姿はいつ息気《いき》を引き取るかもしれないと葉子に思わせた。
「ではもう帰りましょうか」
倉地が岡を促すようにこういった。岡は倉地に対し葉子に対して少しの間《あいだ》返事をあえてするのをはばかっている様子だったが、とうとう思いきって、倉地に向かって言っていながら少し葉子に対して嘆願するような調子で、
「わたし、きょうはなんにも用がありませんから、こちらに残らしていただいて、葉子さんのお手伝いをしたいと思いますから、お先にお帰りください」
といった。岡はひどく意志が弱そうに見えながら一度思い入っていい出した事は、とうとう仕畢《しおお》せずにはおかない事を、葉子も倉地も今までの経験から知っていた。葉子は結局それを許すほかはないと思った。
「じゃわしはお先するがお葉さんちょっと……」
といって倉地は入り口のほうにしざって行った。おりから貞世はすやすやと昏睡《こんすい》に陥っていたので、葉子はそっ[#「そっ」に傍点]と自分の袖《そで》を
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