りになっていてもびく[#「びく」に傍点]ともしないという自信もなくって、ずるずるべったりに無反省に借りばかり作っているのは考えてみると不安じゃないでしょうか。葉子さん、あなたには美しい誠実があるんだ。僕はそれを知っています。木村にだけはどうしたわけか別だけれども、あなたはびた[#「びた」に傍点]一|文《もん》でも借りをしていると思うと寝心地《ねごこち》が悪いというような気象を持っているじゃありませんか。それに心の借金ならいくら借金をしていても平気でいられるわけはないと思いますよ。なぜあなたは好んでそれを踏みにじろうとばかりしているんです。そんな情けない事ばかりしていてはだめじゃありませんか。……僕ははっきり[#「はっきり」に傍点]思うとおりをいい現わし得ないけれども……いおうとしている事はわかってくださるでしょう」
古藤は思い入ったふうで、油でよごれた手を幾度もまっ黒に日に焼けた目がしらの所に持って行った。蚊がぶんぶんと攻めかけて来るのも忘れたようだった。葉子は古藤の言葉をもうそれ以上は聞いていられなかった。せっかくそっ[#「そっ」に傍点]として置いた心のよどみがかきまわされて、見まいとしていたきたないものがぬら[#「ぬら」に傍点]ぬらと目の前に浮き出て来るようでもあった。塗りつぶし塗りつぶししていた心の壁にひびが入って、そこから面《おもて》も向けられない白い光がちら[#「ちら」に傍点]とさすようにも思った。もうしかしそれはすべてあまりおそい。葉子はそんな物を無視してかかるほかに道がないと思った。ごまかしてはいけないと古藤のいった言葉はその瞬間にもすぐ葉子にきびしく答えたけれども、葉子は押し切ってそんな言葉をかなぐり捨てないではいられないと自分からあきらめた。
「よくわかりました。あなたのおっしゃる事はいつでもわたしにはよくわかりますわ。そのうちわたしきっと木村のほうに手紙を出すから安心してくださいまし。このごろはあなたのほうが木村以上に神経質になっていらっしゃるようだけれども、御親切はよくわたしにもわかりますわ。倉地さんだってあなたのお心持ちは通じているに違いないんですけれども、あなたが……なんといったらいいでしょうねえ……あなたがあんまり[#「あんまり」に傍点]真正面からおっしゃるもんだから、つい向《むか》っ腹《ぱら》をお立てなすったんでしょう。そうでしょう、ね、倉地さん。……こんないやなお話はこれだけにして妹たちでも呼んでおもしろいお話でもしましょう」
「僕がもっと偉《えら》いと、いう事がもっと深く皆さんの心にはいるんですが、僕のいう事はほんとうの事だと思うんだけれどもしかたがありません。それじゃきっと木村に書いてやってください。僕《ぼく》自身は何も物数寄《ものずき》らしくその内容を知りたいとは思ってるわけじゃないんですから……」
古藤がまだ何かいおうとしている時に愛子が整頓風呂敷《せいとんぶろしき》の出来上がったのを持って、二階から降りて来た。古藤は愛子からそれを受け取ると思い出したようにあわてて時計を見た。葉子はそれには頓着《とんじゃく》しないように、
「愛さんあれを古藤さんにお目にかけよう。古藤さんちょっと待っていらしってね。今おもしろいものをお目にかけるから。貞《さあ》ちゃんは二階? いないの? どこに行ったんだろう……貞ちゃん!」
こういって葉子が呼ぶと台所のほうから貞世が打ち沈んだ顔をして泣いたあとのように頬《ほお》を赤くしてはいって来た。やはり自分のいった言葉に従って一人《ひとり》ぽっちで台所に行ってすすぎ物をしていたのかと思うと、葉子はもう胸が逼《せま》って目の中が熱くなるのだった。
「さあ二人《ふたり》でこの間学校で習って来たダンスをして古藤さんと倉地さんとにお目におかけ。ちょっとコティロン[#底本では「コテイロン」]のようでまた変わっていますの。さ」
二人は十畳の座敷のほうに立って行った。倉地はこれをきっかけ[#「きっかけ」に傍点]にからっ[#「からっ」に傍点]と快活になって、今までの事は忘れたように、古藤にも微笑を与えながら「それはおもしろかろう」といいつつあとに続いた。愛子の姿を見ると古藤も釣《つ》り込まれるふうに見えた。葉子は決してそれを見のがさなかった。
可憐《かれん》な姿をした姉と妹とは十畳の電燈の下に向かい合って立った。愛子はいつでもそうなようにこんな場合でもいかにも冷静だった。普通ならばその年ごろの少女としては、やり所もない羞恥《しゅうち》を感ずるはずであるのに、愛子は少し目を伏せているほかにはしらじらとしていた。きゃっ[#「きゃっ」に傍点]きゃっとうれしがったり恥ずかしがったりする貞世はその夜はどうしたものかただ物憂《ものう》げにそこにしょんぼり[#「しょんぼり」に傍点]と立った。その夜の二人は妙に無感情な一対《いっつい》の美しい踊り手だった。葉子が「一二三」と相図をすると、二人は両手を腰骨の所に置き添えて静かに回旋しながら舞い始めた。兵営の中ばかりにいて美しいものを全く見なかったらしい古藤は、しばらくは何事も忘れたように恍惚《こうこつ》として二人の描く曲線のさまざまに見とれていた。
と突然貞世が両|袖《そで》を顔にあてたと思うと、急に舞いの輸からそれて、一散に玄関わきの六畳に駆け込んだ。六畳に達しないうちに痛ましくすすり泣く声が聞こえ出した。古藤ははっ[#「はっ」に傍点]とあわててそっちに行こうとしたが、愛子が一人になっても、顔色も動かさずに踊り続けているのを見るとそのまままた立ち止まった。愛子は自分のし遂《おお》すべき務めをし遂《おお》せる事に心を集める様子で舞いつづけた。
「愛さんちょっとお待ち」
といった葉子の声は低いながら帛《きぬ》を裂くように疳癖《かんぺき》らしい調子になっていた。別室に妹の駆け込んだのを見向きもしない愛子の不人情さを憤る怒りと、命ぜられた事を中途|半端《はんぱ》でやめてしまった貞世を憤る怒りとで葉子は自制ができないほどふるえていた。愛子は静かにそこに両手を腰からおろして立ち止まった。
「貞《さあ》ちゃんなんですその失礼は。出ておいでなさい」
葉子は激しく隣室に向かってこう叫んだ。隣室から貞世のすすり泣く声が哀れにもまざまざと聞こえて来るだけだった。抱きしめても抱きしめても飽き足らないほどの愛着をそのまま裏返したような憎しみが、葉子の心を火のようにした。葉子は愛子にきびしくいいつけて貞世を六畳から呼び返さした。
やがてその六畳から出て来た愛子は、さすがに不安な面持《おもも》ちをしていた。苦しくってたまらないというから額《ひたい》に手をあてて見たら火のように熱いというのだ。
葉子は思わずぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。生まれ落ちるとから病気一つせずに育って来た貞世は前から発熱していたのを自分で知らずにいたに違いない。気むずかしくなってから一週間ぐらいになるから、何かの熱病にかかったとすれば病気はかなり進んでいたはずだ。ひょっ[#「ひょっ」に傍点]とすると貞世はもう死ぬ……それを葉子は直覚したように思った。目の前で世界が急に暗くなった。電灯の光も見えないほどに頭の中が暗い渦巻《うずま》きでいっぱいになった。えゝ、いっその事死んでくれ。この血祭りで倉地が自分にはっきり[#「はっきり」に傍点]つながれてしまわないとだれがいえよう。人身御供《ひとみごくう》にしてしまおう。そう葉子は恐怖の絶頂にありながら妙にしん[#「しん」に傍点]とした心持ちで思いめぐらした。そしてそこにぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]したまま突っ立っていた。
いつのまに行ったのか、倉地と古藤とが六畳の間《ま》から首を出した。
「お葉さん……ありゃ泣いたためばかりの熱じゃない。早く来てごらん」
倉地のあわてるような声が聞こえた。
それを聞くと葉子は始めて事の真相がわかったように、夢から目ざめたように、急に頭がはっきり[#「はっきり」に傍点]して六畳の間《ま》に走り込んだ。貞世はひときわ背たけが縮まったように小さく丸まって、座ぶとんに顔を埋《うず》めていた。膝《ひざ》をついてそばによって後頸《うなじ》の所にさわってみると、気味の悪いほどの熱が葉子の手に伝わって来た。
その瞬間に葉子の心はでんぐり[#「でんぐり」に傍点]返しを打った。いとしい貞世につらく当たったら、そしてもし貞世がそのために命を落とすような事でもあったら、倉地を大丈夫つかむ事ができると何がなしに思い込んで、しかもそれを実行した迷信とも妄想《もうそう》ともたとえようのない、狂気じみた結願《けちがん》がなんの苦もなくばら[#「ばら」に傍点]ばらにくずれてしまって、その跡にはどうかして貞世を活《い》かしたいという素直《すなお》な涙ぐましい願いばかりがしみじみと働いていた。自分の愛するものが死ぬか活《い》きるかの境目《さかいめ》に来たと思うと、生への執着と死への恐怖とが、今まで想像も及ばなかった強さでひし[#「ひし」に傍点]ひしと感ぜられた。自分を八つ裂《ざ》きにしても貞世の命は取りとめなくてはならぬ。もし貞世が死ねばそれは自分が殺したんだ。何も知らない、神のような少女を……葉子はあらぬことまで勝手に想像して勝手に苦しむ自分をたしなめるつもりでいても、それ以上に種々な予想が激しく頭の中で働いた。
葉子は貞世の背をさすりながら、嘆願するように哀恕《あいじょ》を乞《こ》うように古藤や倉地や愛子までを見まわした。それらの人々はいずれも心痛《こころいた》げな顔色を見せていないではなかった。しかし葉子から見るとそれはみんな贋物《にせもの》だった。
やがて古藤は兵営への帰途医者を頼むといって帰って行った。葉子は、一人《ひとり》でも、どんな人でも貞世の身ぢかから離れて行くのをつらく思った。そんな人たちは多少でも貞世の生命を一緒に持って行ってしまうように思われてならなかった。
日はとっぷり[#「とっぷり」に傍点]暮れてしまったけれどもどこの戸締まりもしないこの家に、古藤がいってよこした医者がやって来た。そして貞世は明らかに腸チブスにかかっていると診断されてしまった。
四二
「おねえ様……行っちゃいやあ……」
まるで四つか五つの幼児のように頑是《がんぜ》なくわがままになってしまった貞世の声を聞き残しながら葉子は病室を出た。おりからじめじめと降りつづいている五月雨《さみだれ》に、廊下には夜明けからの薄暗さがそのまま残っていた。白衣を着た看護婦が暗いだだっ広《ぴろ》い廊下を、上草履《うわぞうり》の大きな音をさせながら案内に立った。十日の余も、夜昼《よるひる》の見さかいもなく、帯も解かずに看護の手を尽くした葉子は、どうかするとふらふらとなって、頭だけが五体から離れてどこともなく漂って行くかとも思うような不思議な錯覚を感じながら、それでも緊張しきった心持ちになっていた。すべての音響、すべての色彩が極度に誇張されてその感覚に触れて来た。貞世が腸チブスと診断されたその晩、葉子は担架に乗せられたそのあわれな小さな妹に付き添ってこの大学病院の隔離室に来てしまったのであるが、その時別れたなりで、倉地は一度も病院を尋ねては来《こ》なかったのだ。葉子は愛子|一人《ひとり》が留守する山内《さんない》の家のほうに、少し不安心ではあるけれどもいつか暇をやったつやを呼び寄せておこうと思って、宿もとにいってやると、つやはあれから看護婦を志願して京橋《きょうばし》のほうのある病院にいるという事が知れたので、やむを得ず倉地の下宿から年を取った女中を一人頼んでいてもらう事にした。病院に来てからの十日――それはきのうからきょうにかけての事のように短く思われもし、一日が一年に相当するかと疑われるほど長くも感じられた。
その長く感じられるほうの期間には、倉地と愛子との姿が不安と嫉妬《しっと》との対照となって葉子の心の目に立ち現われた。葉子の家を預かっているものは倉地の下宿から来た女だとすると、それは倉地の犬といってもよか
前へ
次へ
全47ページ中35ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング