ないか。葉子というものに一日一日|疎《うと》くなろうとする倉地ではないか。それに何の不思議があろう。……それにしてもあまりといえばあまりな仕打ちだ。なぜそれならそうと明らかにいってはくれないのだ。いってさえくれれば自分にだって恋する男に対しての女らしい覚悟はある。別れろとならばきれいさっぱりと別れても見せる。……なんという踏みつけかただ。なんという恥さらしだ。倉地の妻はおおそれた貞女ぶった顔を震わして、涙を流しながら、「それではお葉さんという方《かた》にお気の毒だから、わたしはもう亡《な》いものと思ってくださいまし……」……見ていられぬ、聞いていられぬ。……葉子という女はどんな女だか、今夜こそは倉地にしっかり思い知らせてやる……。
葉子は酔ったもののようにふらふらした足どりでそこから引き返した。そして下宿屋に来《き》着いた時には、息気《いき》苦しさのために声も出ないくらいになっていた。下宿の女たちは葉子を見ると「またあの気狂《きちが》いが来た」といわんばかりの顔をして、その夜の葉子のことさらに取りつめた顔色には注意を払う暇もなく、その場をはずして姿を隠した。葉子はそんな事には気もかけずに物すごい笑顔《えがお》でことさららしく帳場にいる男にちょっと頭を下げて見せて、そのままふらふらと階子段《はしごだん》をのぼって行った。ここが倉地の部屋《へや》だというその襖《ふすま》の前に立った時には、葉子は泣き声に気がついて驚いたほど、われ知らずすすり上げて泣いていた。身の破滅、恋の破滅は今夜の今、そう思って荒々しく襖《ふすま》を開いた。
部屋の中には案外にも倉地はいなかった。すみからすみまで片づいていて、倉地のあの強烈な膚の香《にお》いもさらに残ってはいなかった。葉子は思わずふらふらとよろけて、泣きやんで、部屋の中に倒れこみながらあたりを見回した。いるに違いないとひとり決《ぎ》めをした自分の妄想《もうそう》が破れたという気は少しも起こらないで、確かにいたものが突然溶けてしまうかどうかしたような気味の悪い不思議さに襲われた。葉子はすっかり[#「すっかり」に傍点]気抜けがして、髪も衣紋《えもん》も取り乱したまま横ずわりにすわったきりでぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]していた。
あたりは深山のようにしーん[#「しーん」に傍点]としていた。ただ葉子の目の前をうるさく[#「うるさく」に傍点]行ったり来たりする黒い影のようなものがあった。葉子は何物という分別《ふんべつ》もなく始めはただうるさいとのみ思っていたが、しまいにはこらえかねて手をあげてしきりにそれを追い払ってみた。追い払っても追い払ってもそのうるさい黒い影は目の前を立ち去ろうとはしなかった。……しばらくそうしているうちに葉子は寒気《さむけ》がするほどぞっ[#「ぞっ」に傍点]とおそろしくなって気がはっきり[#「はっきり」に傍点]した。
急に周囲《あたり》には騒がしい下宿屋らしい雑音が聞こえ出した。葉子をうるさがらしたその黒い影は見る見る小さく遠ざかって、電燈の周囲をきり[#「きり」に傍点]きりと舞い始めた。よく見るとそれは大きな黒い夜蛾《よが》だった。葉子は神がかりが離れたようにきょとん[#「きょとん」に傍点]となって、不思議そうに居ずまいを正《ただ》してみた。
どこまでが真実で、どこまでが夢なんだろう……。
自分の家を出た、それに間違いはない。途中から取って返して風呂《ふろ》をつかった、……なんのために? そんなばかな事をするはずがない。でも妹たちの手ぬぐいが二筋ぬれて手ぬぐいかけの竹竿《たけざお》にかかっていた、(葉子はそう思いながら自分の顔をなでたり、手の甲を調べて見たりした。そして確かに湯にはいった事を知った。)それならそれでいい。それから双鶴館の女将《おかみ》のあとをつけたのだったが、……あのへんから夢になったのかしらん。あすこにいる蛾《が》をもやもやした黒い影のように思ったりしていた事から考えてみると、いまいましさから自分は思わず背たけの低い女の幻影を見ていたのかもしれない。それにしてもいるはずの倉地がいないという法はないが……葉子はどうしても自分のして来た事にはっきり[#「はっきり」に傍点]連絡をつけて考える事ができなかった。
葉子は……自分の頭ではどう考えてみようもなくなって、ベルを押して番頭に来てもらった。
「あのう、あとでこの蛾《が》を追い出しておいてくださいな……それからね、さっき……といったところがどれほど前だかわたしにもはっきり[#「はっきり」に傍点]しませんがね、ここに三十格好の丸髷《まるまげ》を結った女の人が見えましたか」
「こちら様にはどなたもお見えにはなりませんが……」
番頭は怪訝《けげん》な顔をしてこう答えた。
「こちら様だろうがなんだろうが、そんな事を聞くんじゃないの。この下宿屋からそんな女の人が出て行きましたか」
「さよう……へ、一時間ばかり前ならお一人《ひとり》お帰りになりました」
「双鶴館のお内儀《かみ》さんでしょう」
図星《ずぼし》をさされたろうといわんばかりに葉子はわざと鷹揚《おうよう》な態度を見せてこう聞いてみた。
「いゝえそうじゃございません」
番頭は案外にもそうきっぱり[#「きっぱり」に傍点]といい切ってしまった。
「それじゃだれ」
「とにかく他のお部屋《へや》においでなさったお客様で、手前どもの商売上お名前までは申し上げ兼ねますが」
葉子もこの上の問答の無益なのを知ってそのまま番頭を返してしまった。
葉子はもう何者も信用する事ができなかった。ほんとうに双鶴館の女将《おかみ》が来たのではないらしくもあり、番頭までが倉地とぐる[#「ぐる」に傍点]になっていてしらじらしい虚言《うそ》をついたようにもあった。
何事も当てにはならない。何事もうそ[#「うそ」に傍点]から出た誠だ。……葉子はほんとうに生きている事がいやになった。
……そこまで来て葉子は始めて自分が家を出て来たほんとうの目的がなんであるかに気づいた。すべてにつまずいて、すべてに見限られて、すべてを見限ろうとする、苦しみぬいた一つの魂が、虚無の世界の幻の中から消えて行くのだ。そこには何の未練も執着もない。うれしかった事も、悲しかった事も、悲しんだ事も、苦しんだ事も、畢竟《ひっきょう》は水の上に浮いた泡《あわ》がまたはじけて水に帰るようなものだ。倉地が、死骸《しがい》になった葉子を見て嘆こうが嘆くまいが、その倉地さえ幻の影ではないか。双鶴館の女将《おかみ》だと思った人が、他人であったように、他人だと思ったその人が、案外双鶴館の女将であるかもしれないように、生きるという事がそれ自身幻影でなくってなんであろう。葉子は覚《さ》めきったような、眠りほうけているような意識の中でこう思った。しんしんと底も知らず澄み透《とお》った心がただ一つぎり[#「ぎり」に傍点]ぎりと死のほうに働いて行った。葉子の目には一しずくの涙も宿ってはいなかった。妙にさえて落ち付き払ったひとみを静かに働かして、部屋の中を静かに見回していたが、やがて夢遊病者のように立ち上がって、戸棚《とだな》の中から倉地の寝具を引き出して来て、それを部屋のまん中に敷いた。そうしてしばらくの間その上に静かにすわって目をつぶってみた。それからまた立ち上がって全く無感情な顔つきをしながら、もう一度|戸棚《とだな》に行って、倉地が始終身近に備えているピストルをあちこち[#「あちこち」に傍点]と尋ね求めた。しまいにそれが本箱の引き出しの中の幾通かの手紙と、書きそこねの書類と、四五枚の写真とがごっちゃ[#「ごっちゃ」に傍点]にしまい込んであるその中から現われ出た。葉子は妙に無関心な心持ちでそれを手に取った。そして恐ろしいものを取り扱うようにそれをからだから離して右手にぶら下げて寝床に帰った。そのくせ葉子は露ほどもその凶器におそれをいだいているわけではなかった。寝床のまん中にすわってからピストルを膝《ひざ》の上に置いて手をかけたまましばらくながめていたが、やがてそれを取り上げると胸の所に持って来て鶏頭《けいとう》を引き上げた。
きりっ[#「きりっ」に傍点]
と歯切れのいい音を立てて弾筒が少し回転した。同時に葉子の全身は電気を感じたようにびりっ[#「びりっ」に傍点]とおののいた。しかし葉子の心は水が澄んだように揺《ゆる》がなかった。葉子はそうしたまま短銃をまた膝《ひざ》の上に置いてじっ[#「じっ」に傍点]とながめていた。
ふと葉子はただ一つし残した事のあるのに気が付いた。それがなんであるかを自分でもはっきり[#「はっきり」に傍点]とは知らずに、いわば何物かの余儀ない命令に服従するように、また寝床から立ち上がって戸棚《とだな》の中の本箱の前に行って引き出しをあけた。そしてそこにあった写真を丁寧に一枚ずつ取り上げて静かにながめるのだった。葉子は心ひそかに何をしているんだろうと自分の動作《しうち》を怪しんでいた。
葉子はやがて一人《ひとり》の女の写真を見つめている自分を見いだした。長く長く見つめていた。……そのうちに、白痴がどうかしてだんだん真《ま》人間にかえる時はそうもあろうかと思われるように、葉子の心は静かに静かに自分で働くようになって行った。女の写真を見てどうするのだろうと思った。早く死ななければいけないのだがと思った。いったいその女はだれだろうと思った。……それは倉地の妻の写真だった。そうだ倉地の妻の若い時の写真だ。なるほど美しい女だ。倉地は今でもこの女に未練を持っているだろうか。この妻には三人のかわいい娘があるのだ。「今でも時々思い出す」そう倉地のいった事がある。こんな写真がいったいこの部屋《へや》なんぞにあってはならないのだが。それはほんとうにならないのだ。倉地はまだこんなものを大事にしている。この女はいつまでも倉地に帰って来ようと待ち構えているのだ。そしてまだこの女は生きているのだ。それが幻なものか。生きているのだ、生きているのだ。……死なれるか、それで死なれるか。何が幻だ、何が虚無だ。このとおりこの女は生きているではないか……危うく……危うく自分は倉地を安堵《あんど》させる所だった。そしてこの女を……このまだ生《しょう》のあるこの女を喜ばせるところだった。
葉子は一刹那《いっせつな》の違いで死の界《さかい》から救い出された人のように、驚喜に近い表情を顔いちめんにみなぎらして裂けるほど目を見張って、写真を持ったまま飛び上がらんばかりに突っ立ったが、急に襲いかかるやるせない嫉妬《しっと》の情と憤怒とにおそろしい形相《ぎょうそう》になって、歯がみをしながら、写真の一端をくわえて、「いゝ……」といいながら、総身《そうしん》の力をこめてまっ二つに裂くと、いきなり寝床の上にどう[#「どう」に傍点]と倒れて、物すごい叫び声を立てながら、涙も流さずに叫びに叫んだ。
店のものがあわてて部屋にはいって来た時には、葉子はしおらしい様子をして、短銃を床の下に隠してしまって、しくしくとほんとうに泣いていた。
番頭はやむを得ず、てれ隠しに、
「夢でも御覧になりましたか、たいそうなお声だったものですから、つい御案内もいたさず飛び込んでしまいまして」
といった。葉子は、
「えゝ夢を見ました。あの黒い蛾《が》が悪いんです。早く追い出してください」
そんなわけのわからない事をいって、ようやく涙を押しぬぐった。
こういう発作《ほっさ》を繰り返すたびごとに、葉子の顔は暗くばかりなって行った。葉子には、今まで自分が考えていた生活のほかに、もう一つ不可思議な世界があるように思われて来た。そうしてややともすればその両方の世界に出たりはいったりする自分を見いだすのだった。二人《ふたり》の妹たちはただはらはらして姉の狂暴な振る舞いを見守るほかはなかった。倉地は愛子に刃物《はもの》などに注意しろといったりした。
岡の来た時だけは、葉子のきげんは沈むような事はあっても狂暴になる事は絶えてなかったので、岡は妹たちの言葉に
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