…しかし……一つなんとかならないもんでしょうか」
 葉子の怒りに興奮した神経は正井のこの一言《ひとこと》にすぐおびえてしまった。何もかも倉地の裏面を知り抜いてるはずの正井が、捨てばちになったら倉地の身の上にどんな災難が降りかからぬとも限らぬ。そんな事をさせては飛んだ事になるだろう。そんな事をさせては飛んだ事になる。葉子はますます弱身《よわみ》になった自分を救い出す術《すべ》に困《こう》じ果てていた。
 「それを御承知でわたしの所にいらしったって……たといわたしに都合がついたとしたところで、どうしようもありませんじゃないの。なんぼわたしだっても、倉地と仲たがえをなさったあなたに倉地の金を何する……」
 「だから倉地さんのものをおねだりはしませんさ。木村さんからもたんまり[#「たんまり」に傍点]来ているはずじゃありませんか。その中から……たんとたあいいませんから、窮境を助けると思ってどうか」
 正井は葉子を男たらしと見くびった態度で、情夫を持ってる妾《めかけ》にでも逼《せま》るようなずうずうしい顔色を見せた。こんな押し問答の結果葉子はとうとう正井に三百円ほどの金をむざ[#「むざ」に傍点]むざとせびり取られてしまった。葉子はその晩倉地が帰って来た時もそれをいい出す気力はなかった。貯金は全部定子のほうに送ってしまって、葉子の手もとにはいくらも残ってはいなかった。
 それからというもの正井は一週間とおかずに葉子の所に来ては金をせびった。正井はそのおりおりに、絵島丸のサルンの一隅《いちぐう》に陣取って酒と煙草《たばこ》とにひたりながら、何か知らんひそひそ話をしていた数人の人たち――人を見ぬく目の鋭い葉子にもどうしてもその人たちの職業を推察し得なかった数人の人たちの仲間に倉地がはいって始め出した秘密な仕事の巨細《こさい》をもらした。正井が葉子を脅かすために、その話には誇張が加えられている、そう思って聞いてみても、葉子の胸をひやっ[#「ひやっ」に傍点]とさせる事ばかりだった。倉地が日清《にっしん》戦争にも参加した事務長で、海軍の人たちにも航海業者にも割合に広い交際がある所から、材料の蒐集《しゅうしゅう》者としてその仲間の牛耳《ぎゅうじ》を取るようになり、露国や米国に向かってもらした祖国の軍事上の秘密はなかなか容易ならざるものらしかった。倉地の気分がすさんで行くのももっともだと思われるような事柄を数々《かずかず》葉子は聞かされた。葉子はしまいには自分自身を護《まも》るためにも正井のきげんを取りはずしてはならないと思うようになった。そして正井の言葉が一語一語思い出されて、夜なぞになると眠らせぬほどに葉子を苦しめた。葉子はまた一つの重い秘密を背負わなければならぬ自分を見いだした。このつらい意識はすぐにまた倉地に響くようだった。倉地はともすると敵の間諜《かんちょう》ではないかと疑うような険しい目で葉子をにらむようになった。そして二人《ふたり》の間にはまた一つの溝《みぞ》がふえた。
 そればかりではなかった。正井に秘密な金を融通するためには倉地からのあてがい[#「あてがい」に傍点]だけではとても足りなかった。葉子はありもしない事を誠《まこと》しやかに書き連ねて木村のほうから送金させねばならなかった。倉地のためならとにもかくにも、倉地と自分の妹たちとが豊かな生活を導くためにならとにもかくにも、葉子に一種の獰悪《どうあく》な誇りをもってそれをして、男のためになら何事でもという捨てばちな満足を買い得ないではなかったが、その金がたいてい正井のふところに吸収されてしまうのだと思うと、いくら間接には倉地のためだとはいえ葉子の胸は痛かった。木村からは送金のたびごとに相変わらず長い消息が添えられて来た。木村の葉子に対する愛着は日を追うてまさるとも衰える様子は見えなかった。仕事のほうにも手違いや誤算があって始めの見込みどおりには成功とはいえないが、葉子のほうに送るくらいの金はどうしてでも都合がつくくらいの信用は得ているから構わずいってよこせとも書いてあった。こんな信実な愛情と熱意を絶えず示されるこのごろは葉子もさすがに自分のしている事が苦しくなって、思いきって木村にすべてを打ちあけて、関係を絶《た》とうかと思い悩むような事が時々あった。その矢先なので、葉子は胸にことさら痛みを覚えた。それがますます葉子の神経をいらだたせて、その病気にも影響した。そして花の五月が過ぎて、青葉の六月になろうとするころには、葉子は痛ましくやせ細った、目ばかりどぎつい[#「どぎつい」に傍点]純然たるヒステリー症の女になっていた。

    三九

 巡査の制服は一気に夏服になったけれども、その年の気候はひどく不順で、その白服がうらやましいほど暑い時と、気の毒なほど悪冷《わるび》えのする日が入れ代わり立ち代わり続いた。したがって晴雨も定めがたかった。それがどれほど葉子の健康にさし響いたかしれなかった。葉子は絶えず腰部の不愉快な鈍痛を覚ゆるにつけ、暑くて苦しい頭痛に悩まされるにつけ、何一つからだに申し分のなかった十代の昔を思い忍んだ。晴雨寒暑というようなものがこれほど気分に影響するものとは思いもよらなかった葉子は、寝起きの天気を何よりも気にするようになった。きょうこそは一日気がはればれするだろうと思うような日は一日もなかった。きょうもまたつらい一日を過ごさねばならぬというそのいまわしい予想だけでも葉子の気分をそこなうには充分すぎた。
 五月の始めごろから葉子の家に通う倉地の足はだんだん遠のいて、時々どこへとも知れぬ旅に出るようになった。それは倉地が葉子のしつっこい挑《いど》みと、激しい嫉妬《しっと》と、理不尽な疳癖《かんぺき》の発作とを避けるばかりだとは葉子自身にさえ思えない節《ふし》があった。倉地のいわゆる事業には何かかなり致命的な内場破《うちばわ》れが起こって、倉地の力でそれをどうする事もできないらしい事はおぼろげながらも葉子にもわかっていた。債権者であるか、商売仲間であるか、とにかくそういう者を避けるために不意に倉地が姿を隠さねばならぬらしい事は確かだった。それにしても倉地の疎遠は一向《ひたすら》に葉子には憎かった。
 ある時葉子は激しく倉地に迫ってその仕事の内容をすっかり[#「すっかり」に傍点]打ち明けさせようとした。倉地の情人である葉子が倉地の身に大事が降りかかろうとしているのを知りながら、それに助力もし得ないという法はない、そういって葉子はせがみにせがんだ。
 「こればかりは女の知った事じゃないわい。おれが喰《くら》い込んでもお前にはとばっちり[#「とばっちり」に傍点]が行くようにはしたくないで、打ち明けないのだ。どこに行っても知らない知らないで一点張りに通すがいいぜ。……二度と聞きたいとせがんでみろ、おれはうそほん[#「うそほん」に傍点]なしにお前とは手を切って見せるから」
 その最後の言葉は倉地の平生《へいぜい》に似合わない重苦しい響きを持っていた。葉子が息気《いき》をつめてそれ以上をどうしても迫る事ができないと断念するほど重苦しいものだった。正井の言葉から判じても、それは女手などでは実際どうする事もできないものらしいので葉子はこれだけは断念して口をつぐむよりしかたがなかった。
 堕落といわれようと、不貞といわれようと、他人手《ひとで》を待っていてはとても自分の思うような道は開けないと見切りをつけた本能的の衝動から、知らず知らず自分で選び取った道の行く手に目もくらむような未来が見えたと有頂天《うちょうてん》になった絵島丸の上の出来事以来一年もたたないうちに、葉子が命も名もささげてかかった新しい生活は見る見る土台から腐り出して、もう今は一陣の風さえ吹けば、さしもの高楼ももんどり[#「もんどり」に傍点]打って地上にくずれてしまうと思いやると、葉子はしばしば真剣に自殺を考えた。倉地が旅に出た留守に倉地の下宿に行って「急用ありすぐ帰れ」という電報をその行く先に打ってやる。そして自分は心静かに倉地の寝床の上で刃《やいば》に伏していよう。それは自分の一生の幕切れとしては、いちばんふさわしい行為らしい。倉地の心にもまだ自分に対する愛情は燃えかすれながらも残っている。それがこの最後によって一時《いっとき》なりとも美しく燃え上がるだろう。それでいい、それで自分は満足だ。そう心から涙ぐみながら思う事もあった。
 実際倉地が留守のはずのある夜、葉子はふらふらとふだん空想していたその心持ちにきびしく捕えられて前後も知らず家を飛び出した事があった。葉子の心は緊張しきって天気なのやら曇っているのやら、暑いのやら寒いのやらさらに差別がつかなかった。盛んに羽虫《はむし》が飛びかわして往来の邪魔になるのをかすかに意識しながら、家を出てから小半町《こはんちょう》裏坂をおりて行ったが、ふと自分のからだがよごれていて、この三四日湯にはいらない事を思い出すと、死んだあとの醜さを恐れてそのまま家に取って返した。そして妹たちだけがはいったままになっている湯殿《ゆどの》に忍んで行って、さめかけた風呂《ふろ》につかった。妹たちはとうに寝入っていた。手ぬぐい掛けの竹竿《たけざお》にぬれた手ぬぐいが二筋だけかかっているのを見ると、寝入っている二人《ふたり》の妹の事がひしひしと心に逼《せま》るようだった。葉子の決心はしかしそのくらいの事では動かなかった。簡単に身じまいをしてまた家を出た。
 倉地の下宿近くなった時、その下宿から急ぎ足で出て来る背たけの低い丸髷《まるまげ》の女がいた。夜の事ではあり、そのへんは街灯の光も暗いので、葉子にはさだかにそれとわからなかったが、どうも双鶴館《そうかくかん》の女将《おかみ》らしくもあった。葉子はかっ[#「かっ」に傍点]となって足早にそのあとをつけた。二人の間は半町とは離れていなかった。だんだん二人の間に距離がちぢまって行って、その女が街灯の下を通る時などに気を付けて見るとどうしても思ったとおりの女らしかった。さては今まであの女を真《ま》正直に信じていた自分はまんま[#「まんま」に傍点]と詐《いつわ》られていたのだったか。倉地の妻に対しても義理が立たないから、今夜以後葉子とも倉地の妻とも関係を絶《た》つ。悪く思わないでくれと確かにそういった、その義侠《ぎきょう》らしい口車《くちぐるま》にまんま[#「まんま」に傍点]と乗せられて、今まで殊勝な女だとばかり思っていた自分の愚かさはどうだ。葉子はそう思うと目が回ってその場に倒れてしまいそうなくやしさ恐ろしさを感じた。そして女の形を目がけてよろよろとなりながら駆け出した。その時女はそのへんに辻待《つじま》ちをしている車に乗ろうとする所だった。取りにがしてなるものかと、葉子はひた走りに走ろうとした。しかし足は思うようにはかど[#「はかど」に傍点]らなかった。さすがにその静けさを破って声を立てる事もはばかられた。もう十|間《けん》というくらいの所まで来た時車はがらがらと音を立てて砂利道《じゃりみち》を動きはじめた。葉子は息気《いき》せき切ってそれに追いつこうとあせったが、見る見るその距離は遠ざかって、葉子は杉森《すぎもり》で囲まれたさびしい暗闇《くらやみ》の中にただ一人《ひとり》取り残されていた。葉子はなんという事なくその辻車《つじぐるま》のいた所まで行って見た。一台よりいなかったので飛び乗ってあとを追うべき車もなかった。葉子はぼんやりそこに立って、そこに字でも書き残してあるかのように、暗い地面《じめん》をじっ[#「じっ」に傍点]と見つめていた。確かにあの女に違いなかった。背《せい》格好といい、髷《まげ》の形といい、小刻みな歩きぶりといい、……あの女に違いなかった。旅行に出るといった倉地は疑いもなくうそ[#「うそ」に傍点]を使って下宿にくすぶっているに違いない。そしてあの女を仲人《ちゅうにん》に立てて先妻とのより[#「より」ノ傍点]を戻《もど》そうとしているに決まっている。それに何の不思議があろう。長年連れ添った妻ではないか。かわいい三人の娘の母では
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