で邪魔でなくてなんだ……えゝ、そこじゃありゃせんよ。そこに見えとるじゃないか」
倉地は口をとがらして顎《あご》を突き出しながら、どしん[#「どしん」に傍点]と足をあげて畳を踏み鳴らした。
葉子はそれでも我慢した。そしてボタンを拾って立ち上がると倉地はもうワイシャツを脱ぎ捨てている所だった。
「胸《むな》くその悪い……おい日本服を出せ」
「襦袢《じゅばん》の襟《えり》がかけずにありますから……洋服で我慢してくださいましね」
葉子は自分が持っていると思うほどの媚《こ》びをある限り目に集めて嘆願するようにこういった。
「お前には頼まんまでよ……愛ちゃん」
倉地は大きな声で愛子を呼びながら階下のほうに耳を澄ました。葉子はそれでも根《こん》かぎり我慢しようとした。階子段《はしごだん》をしとやか[#「しとやか」に傍点]にのぼって愛子がいつものように柔順に部屋《へや》にはいって来た。倉地は急に相好《そうごう》をくずしてにこやか[#「にこやか」に傍点]になっていた。
「愛ちゃん頼む、シャツにそのボタンをつけておくれ」
愛子は何事の起こったかを露知らぬような顔をして、男の肉感をそそるような堅肉《かたじし》の肉体を美しく折り曲げて、雪白《せっぱく》のシャツを手に取り上げるのだった。葉子がちゃん[#「ちゃん」に傍点]と倉地にかしずいてそこにいるのを全く無視したようなずう[#「ずう」に傍点]ずうしい態度が、ひがんでしまった葉子の目には憎々しく映った。
「よけいな事をおしでない」
葉子はとうとうかっ[#「かっ」に傍点]となって愛子をたしなめながらいきなり[#「いきなり」に傍点]手にあるシャツをひったくってしまった。
「きさまは……おれが愛ちゃんに頼んだになぜよけいな事をしくさるんだ」
とそういって威丈高《いたけだか》になった倉地には葉子はもう目もくれなかった。愛子ばかりが葉子の目には見えていた。
「お前は下にいればそれでいい人間なんだよ。おさんどん[#「おさんどん」に傍点]の仕事もろくろくできはしないくせによけいな所に出しゃばるもんじゃない事よ。……下に行っておいで」
愛子はこうまで姉にたしなめられても、さからうでもなく怒《おこ》るでもなく、黙ったまま柔順に、多恨な目で姉をじっ[#「じっ」に傍点]と見て静々《しずしず》とその座をはずしてしまった。
こんなもつれ合ったいさかい[#「いさかい」に傍点]がともすると葉子の家で繰り返されるようになった。ひとりになって気がしずまると葉子は心の底から自分の狂暴な振る舞いを悔いた。そして気を取り直したつもりでどこまでも愛子をいたわって[#「いたわって」に傍点]やろうとした。愛子に愛情を見せるためには義理にも貞世につらく当たるのが当然だと思った。そして愛子の見ている前で、愛するものが愛する者を憎んだ時ばかりに見せる残虐な呵責《かしゃく》を貞世に与えたりした。葉子はそれが理不尽きわまる事だとは知っていながら、そう偏頗《へんぱ》に傾いて来る自分の心持ちをどうする事もできなかった。それのみならず葉子には自分の鬱憤《うっぷん》をもらすための対象がぜひ一つ必要になって来た。人でなければ動物、動物でなければ草木、草木でなければ自分自身に何かなしに傷害を与えていなければ気が休まなくなった。庭の草などをつかんでいる時でも、ふと気が付くと葉子はしゃがん[#「しゃがん」に傍点]だまま一茎の名もない草をたった[#「たった」に傍点]一本摘みとって、目に涙をいっぱいためながら爪《つめ》の先で寸々《ずたずた》に切りさいなんでいる自分を見いだしたりした。
同じ衝動は葉子を駆って倉地の抱擁に自分自身を思う存分しいたげようとした。そこには倉地の愛を少しでも多く自分につなぎたい欲求も手伝ってはいたけれども、倉地の手で極度の苦痛を感ずる事に不満足きわまる満足を見いだそうとしていたのだ。精神も肉体もはなはだしく病に虫ばまれた葉子は抱擁によっての有頂天《うちょうてん》な歓楽を味わう資格を失ってからかなり久しかった。そこにはただ地獄《じごく》のような呵責《かしゃく》があるばかりだった。すべてが終わってから葉子に残るものは、嘔吐《おうと》を催すような肉体の苦痛と、しいて自分を忘我に誘おうともがきながら、それが裏切られて無益に終わった、その後に襲って来る唾棄《だき》すべき倦怠《けんたい》ばかりだった。倉地が葉子のその悲惨な無感覚を分け前してたとえようもない憎悪《ぞうお》を感ずるのはもちろんだった。葉子はそれを知るとさらにいい知れないたよりなさを感じてまたはげしく倉地にいどみかかるのだった。倉地は見る見る一歩一歩葉子から離れて行った。そしてますますその気分はすさんで行った。
「きさまはおれに厭《あ》きたな。男でも作りおったんだろう」
そう唾《つば》でも吐き捨てるようにいまいましげに倉地があらわ[#「あらわ」に傍点]にいうような日も来た。
「どうすればいいんだろう」
そういって額《ひたい》の所に手をやって頭痛を忍びながら葉子はひとり苦しまねばならなかった。
ある日葉子は思いきってひそかに医師を訪れた。医師は手もなく、葉子のすべての悩みの原因は子宮|後屈《こうくつ》症と子宮内膜炎とを併発しているからだといって聞かせた。葉子はあまりにわかりきった事を医師がさも知ったかぶりにいって聞かせるようにも、またそののっぺりした白い顔が、恐ろしい運命が葉子に対して装うた仮面で、葉子はその言葉によってまっ暗な行く手を明らかに示されたようにも思った。そして怒りと失望とをいだきながらその家を出た。帰途葉子は本屋に立ち寄って婦人病に関する大部な医書を買い求めた。それは自分の病症に関する徹底的な知識を得ようためだった。家に帰ると自分の部屋《へや》に閉じこもってすぐ大体を読んで見た。後屈症は外科手術を施して位置|矯正《きょうせい》をする事によって、内膜炎は内膜炎を抉掻《けっそう》する事によって、それが器械的の発病である限り全治の見込みはあるが、位置矯正の場合などに施術者《しじゅつしゃ》の不注意から子宮底に穿孔《せんこう》を生じた時などには、往々にして激烈な腹膜炎を結果する危険が伴わないでもないなどと書いてあった。葉子は倉地に事情を打ち明けて手術を受けようかとも思った。ふだんならば常識がすぐそれを葉子にさせたに違いない。しかし今はもう葉子の神経は極度に脆弱《ぜいじゃく》になって、あらぬ方向にばかりわれにもなく鋭く働くようになっていた。倉地は疑いもなく自分の病気に愛想を尽かすだろう。たといそんな事はないとしても入院の期間に倉地の肉の要求が倉地を思わぬほうに連れて行かないとはだれが保証できよう。それは葉子の僻見《へきけん》であるかもしれない、しかしもし愛子が倉地の注意をひいているとすれば、自分の留守の間に倉地が彼女に近づくのはただ一歩の事だ。愛子があの年であの無経験で、倉地のような野性と暴力とに興味を持たぬのはもちろん、一種の厭悪《けんお》をさえ感じているのは察せられないではない。愛子はきっと倉地を退けるだろう。しかし倉地には恐ろしい無恥がある。そして一度倉地が女をおのれの力の下に取りひしいだら、いかなる女も二度と倉地からのがれる事のできないような奇怪の麻酔《ますい》の力を持っている。思想とか礼儀とかにわずらわされない、無尽蔵に強烈で征服的な生《き》のままな男性の力はいかな女をもその本能に立ち帰らせる魔術を持っている。しかもあの柔順らしく見える愛子は葉子に対して生まれるとからの敵意を挟《さしはさtんでいるのだ。どんな可能でも描いて見る事ができる。そう思うと葉子はわが身でわが身を焼くような未練と嫉妬《しっと》のために前後も忘れてしまった。なんとかして倉地を縛り上げるまでは葉子は甘んじて今の苦痛に堪《た》え忍ぼうとした。
そのころからあの正井という男が倉地の留守をうかがっては葉子に会いに来るようになった。
「あいつは犬だった。危うく手をかませる所だった。どんな事があっても寄せ付けるではないぞ」
と倉地が葉子にいい聞かせてから一週間もたたない後に、ひょっこり正井が顔を見せた。なかなかのしゃれ[#「しゃれ」に傍点]者で、寸分のすきもない身なりをしていた男が、どこかに貧窮をにおわすようになっていた。カラーにはうっすり汗じみができて、ズボンの膝《ひざ》には焼けこげの小さな孔《あな》が明いたりしていた。葉子が上げる上げないもいわないうちに、懇意ずくらしくどんどん玄関から上がりこんで座敷に通った。そして高価らしい西洋菓子の美しい箱を葉子の目の前に風呂敷《ふろしき》から取り出した。
「せっかくおいでくださいましたのに倉地さんは留守ですから、はばかりですが出直してお遊びにいらしってくださいまし。これはそれまでお預かりおきを願いますわ」
そういって葉子は顔にはいかにも懇意を見せながら、言葉には二の句がつげないほどの冷淡さと強さとを示してやった。しかし正井はしゃあ[#「しゃあ」に傍点]しゃあとして平気なものだった。ゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]内衣嚢《うちがくし》から巻煙草《まきたばこ》入れを取り出して、金口《きんぐち》を一本つまみ取ると、炭の上にたまった灰を静かにかきのけるようにして火をつけて、のどかに香《かお》りのいい煙を座敷に漂わした。
「お留守ですか……それはかえって好都合でした……もう夏らしくなって来ましたね、隣の薔薇《ばら》も咲き出すでしょう……遠いようだがまだ去年の事ですねえ、お互い様に太平洋を往《い》ったり来たりしたのは……あのころがおもしろい盛りでしたよ。わたしたちの仕事もまだにらまれずにいたんでしたから……時に奥さん」
そういって折り入って相談でもするように正井は煙草盆を押しのけて膝《ひざ》を乗り出すのだった。人を侮ってかかって来ると思うと葉子はぐっ[#「ぐっ」に傍点]と癪《しゃく》にさわった。しかし以前のような葉子はそこにはいなかった。もしそれが以前であったら、自分の才気と力量と美貌《びぼう》とに充分の自信を持つ葉子であったら、毛の末ほども自分を失う事なく、優婉《ゆうえん》に円滑に男を自分のかけた陥穽《わな》の中におとしいれて、自縄自縛《じじょうじばく》の苦《にが》い目にあわせているに違いない。しかし現在の葉子はたわいもなく敵を手もとまでもぐりこませてしまってただいらいらとあせるだけだった。そういう破目《はめ》になると葉子は存外力のない自分であるのを知らねばならなかった。
正井は膝《ひざ》を乗り出してから、しばらく黙って敏捷《びんしょう》に葉子の顔色をうかがっていたが、これなら大丈夫と見きわめをつけたらしく、
「少しばかりでいいんです、一つ融通《ゆうずう》してください」
と切り出した。
「そんな事をおっしゃったって、わたしにどうしようもないくらいは御存じじゃありませんか。そりゃ余人じゃなし、できるのならなんとかいたしますけれども、姉妹三人がどうかこうかして倉地に養われている今日《こんにち》のような境界《きょうがい》では、わたしに何ができましょう。正井さんにも似合わない的《まと》違いをおっしゃるのね。倉地なら御相談にもなるでしょうから面と向かってお話しくださいまし。中にはいるとわたしが困りますから」
葉子は取りつく島もないようにといや味な調子でずけ[#「ずけ」に傍点]ずけとこういった。正井はせせら笑うようにほほえんで金口の灰を静かに灰吹きに落とした。
「もう少しざっくばらん[#「ざっくばらん」に傍点]にいってくださいよきのうきょうのお交際《つきあい》じゃなし。倉地さんとまずくなったくらいは御承知じゃありませんか。……知っていらっしってそういう口のききかたは少しひど過ぎますぜ、(ここで仮面を取ったように正井はふてくされた態度になった。しかし言葉はどこまでも穏当だった。)きらわれたってわたしは何も倉地さんをどうしようのこうしようのと、そんな薄情な事はしないつもりです。倉地さんにけががあればわたしだって同罪以上ですからね。…
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