てしばらく姿を隠していたが、やがて小さな田舟《たぶね》に乗って竿《さお》をさして現われて来た。その時葉子は木部が釣り道具を持っていないのに気がついた。
 「あなた釣り竿《ざお》は」
 「釣り竿ですか……釣り竿は水の上に浮いてるでしょう。いまにここまで流れて来るか……来ないか……」
 そう応《こた》えて案外|上手《じょうず》に舟を漕《こ》いだ。倉地は行き過ぎただけを忙《いそ》いで取って返して来た。そして三人はあぶなかしく立ったまま舟に乗った。倉地は木部の前も構わずわきの下に手を入れて葉子をかかえた。木部は冷然として竿を取った。三突きほどでたわいなく舟は向こう岸に着いた。倉地がいちはやく岸に飛び上がって、手を延ばして葉子を助けようとした時、木部が葉子に手を貸していたので、葉子はすぐにそれをつかんだ。思いきり力をこめたためか、木部の手が舟を漕《こ》いだためだったか、とにかく二人の手は握り合わされたまま小刻みにはげしく震えた。
 「やっ、どうもありがとう」
 倉地は葉子の上陸を助けてくれた木部にこう礼をいった。
 木部は舟からは上がらなかった。そして鍔広《つばびろ》の帽子を取って、
 「それじゃこれでお別れします」
 といった。
 「暗くなりましたから、お二人とも足もとに気をおつけなさい。さようなら」
 と付け加えた。
 三人は相当の挨拶《あいさつ》を取りかわして別れた。一|町《ちょう》ほど来てから急に行く手が明るくなったので、見ると光明寺裏の山の端《は》に、夕月が濃い雲の切れ目から姿を見せたのだった。葉子は後ろを振り返って見た。紫色に暮れた砂の上に木部が舟を葦間《あしま》に漕《こ》ぎ返して行く姿が影絵のように黒くながめられた。葉子は白|琥珀《こはく》のパラソルをぱっ[#「ぱっ」に傍点]と開いて、倉地にはいたずら[#「いたずら」に傍点]に見えるように振り動かした。
 三四|町《ちょう》来てから倉地が今度は後ろを振り返った。もうそこには木部の姿はなかった。葉子はパラソルを畳もうとして思わず涙ぐんでしまっていた。
 「あれはいったいだれだ」
 「だれだっていいじゃありませんか」
 暗さにまぎれて倉地に涙は見せなかったが、葉子の言葉は痛ましく疳走《かんばし》っていた。
 「ローマンスのたくさんある女はちがったものだな」
 「えゝ、そのとおり……あんな乞食《こじき》みたいな見っともない恋人を持った事があるのよ」
 「さすがはお前だよ」
 「だから愛想《あいそ》が尽きたでしょう」
 突如としてまたいいようのないさびしさ、哀《かな》しさ、くやしさが暴風のように襲って来た。また来たと思ってもそれはもうおそかった。砂の上に突っ伏して、今にも絶え入りそうに身もだえする葉子を、倉地は聞こえぬ程度に舌打ちしながら介抱せねばならなかった。
 その夜旅館に帰ってからも葉子はいつまでも眠らなかった。そこに来て働く女中たちを一人《ひとり》一人|突慳貪《つっけんどん》にきびしくたしなめた。しまいには一人として寄りつくものがなくなってしまうくらい。倉地も始めのうちはしぶしぶつき合っていたが、ついには勝手にするがいいといわんばかりに座敷を代えてひとりで寝てしまった。
 春の夜はただ、事もなくしめやか[#「しめやか」に傍点]にふけて行った。遠くから聞こえて来る蛙《かわず》の鳴き声のほかには、日勝《にっしょう》様の森あたりでなくらしい梟《ふくろう》の声がするばかりだった。葉子とはなんの関係もない夜鳥でありながら、その声には人をばかにしきったような、それでいて聞くに堪《た》えないほどさびしい響きが潜んでいた。ほう、ほう……ほう、ほうほうと間遠《まどお》に単調に同じ木の枝と思わしい所から聞こえていた。人々が寝しずまってみると、憤怒《ふんぬ》の情はいつか消え果てて、いいようのない寂寞《せきばく》がそのあとに残った。
 葉子のする事いう事は一つ一つ葉子を倉地から引き離そうとするばかりだった。今夜も倉地が葉子から待ち望んでいたものを葉子は明らかに知っていた。しかも葉子はわけのわからない怒りに任せて自分の思うままに振る舞った結果、倉地には不快きわまる失望を与えたに違いない。こうしたままで日がたつに従って、倉地は否応《いやおう》なしにさらに新しい性的興味の対象を求めるようになるのは目前の事だ。現に愛子はその候補者の一人として倉地の目には映り始めているのではないか。葉子は倉地との関係を始めから考えたどってみるにつれて、どうしても間違った方向に深入りしたのを悔いないではいられなかった。しかし倉地を手なずけるためにはあの道をえらぶよりしかたがなかったようにも思える。倉地の性格に欠点があるのだ。そうではない。倉地に愛を求めて行った自分の性格に欠点があるのだ。……そこまで理屈らしく理屈をたどって来てみると、葉子は自分というものが踏みにじっても飽き足りないほどいやな者に見えた。
 「なぜわたしは木部を捨て木村を苦しめなければならないのだろう。なぜ木部を捨てた時にわたしは心に望んでいるような道をまっしぐらに進んで行く事ができなかったのだろう。わたしを木村にしいて押し付けた五十川《いそがわ》のおばさんは悪い……わたしの恨みはどうしても消えるものか。……といっておめおめとその策略に乗ってしまったわたしはなんというふがいない女だったのだろう。倉地にだけはわたしは失望したくないと思った。今までのすべての失望をあの人で全部取り返してまだ余りきるような喜びを持とうとしたのだった。わたしは倉地とは離れてはいられない人間だと確かに信じていた。そしてわたしの持ってるすべてを……醜いもののすべてをも倉地に与えて悲しいとも思わなかったのだ。わたしは自分の命を倉地の胸にたたきつけた。それだのに今は何が残っている……何が残っている……。今夜かぎりわたしは倉地に見放されるのだ。この部屋《へや》を出て行ってしまった時の冷淡な倉地の顔!……わたしは行こう。これから行って倉地にわびよう、奴隷《どれい》のように畳に頭をこすり付けてわびよう……そうだ。……しかし倉地が冷刻な顔をしてわたしの心を見も返らなかったら……わたしは生きてる間にそんな倉地の顔を見る勇気はない。……木部にわびようか……木部は居所さえ知らそうとはしないのだもの……」
 葉子はやせた肩を痛ましく震わして、倉地から絶縁されてしまったもののように、さびしく哀《かな》しく涙の枯れるかと思うまで泣くのだった。静まりきった夜の空気の中に、時々鼻をかみながらすすり上げすすり上げ泣き伏す痛ましい声だけが聞こえた。葉子は自分の声につまされてなおさら悲哀から悲哀のどん底に沈んで行った。
 ややしばらくしてから葉子は決心するように、手近にあった硯箱《すずりばこ》と料紙《りょうし》とを引き寄せた。そして震える手先をしいて繰りながら簡単な手紙を乳母《うば》にあてて書いた。それには乳母とも定子とも断然縁を切るから以後他人と思ってくれ。もし自分が死んだらここに同封する手紙を木部の所に持って行くがいい。木部はきっとどうしてでも定子を養ってくれるだろうからという意味だけを書いた。そして木部あての手紙には、
[#ここから1字下げ]
 「定子はあなたの子です。その顔を一目《ひとめ》御覧になったらすぐおわかりになります。わたしは今まで意地《いじ》からも定子はわたし一人《ひとり》の子でわたし一人のものとするつもりでいました。けれどもわたしが世にないものとなった今は、あなたはもうわたしの罪を許してくださるかとも思います。せめては定子を受け入れてくださいましょう。
    葉子の死んだ後
                             あわれなる定子のママより
   定子のおとう様へ」
[#ここで字下げ終わり]
 と書いた。涙は巻紙の上にとめどなく落ちて字をにじました。東京に帰ったらためて置いた預金の全部を引き出してそれを為替《かわせ》にして同封するために封を閉じなかった。
 最後の犠牲……今までとつおいつ[#「とつおいつ」に傍点]捨て兼ねていた最愛のものを最後の犠牲にしてみたら、たぶんは倉地の心がもう一度自分に戻《もど》って来るかもしれない。葉子は荒神に最愛のものを生牲《いけにえ》として願いをきいてもらおうとする太古《たいこ》の人のような必死な心になっていた。それは胸を張り裂くような犠牲だった。葉子は自分の目からも英雄的に見えるこの決心に感激してまた新しく泣きくずれた。
 「どうか、どうか、……どうーか」
 葉子はだれにともなく手を合わして、一心に念じておいて、雄々《おお》しく涙を押しぬぐうと、そっと座を立って、倉地の寝ているほうへと忍びよった。廊下の明りは大半消されているので、ガラス窓からおぼろにさし込む月の光がたよりになった。廊下の半分がた燐《りん》の燃えたようなその光の中を、やせ細っていっそう背たけの伸びて見える葉子は、影が歩むように音もなく静かに歩みながら、そっと[#「そっと」に傍点]倉地の部屋の襖《ふすま》を開いて中にはいった。薄暗くともった有明《ありあ》けの下に倉地は何事も知らぬげに快く眠っていた。葉子はそっ[#「そっ」に傍点]とその枕《まくら》もとに座を占めた。そして倉地の寝顔を見守った。
 葉子の目にはひとりで[#「ひとりで」に傍点]に涙がわくようにあふれ出て、厚ぼったいような感じになった口びるはわれにもなくわなわなと震えて来た。葉子はそうしたままで黙ってなおも倉地を見続けていた。葉子の目にたまった涙のために倉地の姿は見る見るにじんだように輪郭がぼやけてしまった。葉子は今さら人が違ったように心が弱って、受け身にばかりならずにはいられなくなった自分が悲しかった。なんという情けないかわいそうな事だろう。そう葉子はしみじみと思った。
 だんだん葉子の涙はすすり泣きにかわって行った。倉地が眠りの中でそれを感じたらしく、うるさそうにうめき声を小さく立てて寝返りを打った。葉子はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として息気《いき》をつめた。
 しかしすぐすすり泣きはまた帰って来た。葉子は何事も忘れ果てて、倉地の床のそばにきちん[#「きちん」に傍点]とすわったままいつまでもいつまでも泣き続けていた。

    三八

 「何をそう怯《お》ず怯《お》ずしているのかい。そのボタンを後ろにはめてくれさえすればそれでいいのだに」
 倉地は倉地にしては特にやさしい声でこういった、ワイシャツを着ようとしたまま葉子に背を向けて立ちながら。葉子は飛んでもない失策でもしたように、シャツの背部につけるカラーボタンを手に持ったままおろおろしていた。
 「ついシャツを仕替《しか》える時それだけ忘れてしまって……」
 「いいわけなんぞはいいわい。早く頼む」
 「はい」
 葉子はしとやか[#「しとやか」に傍点]にそういって寄り添うように倉地に近寄ってそのボタンをボタン孔《あな》に入れようとしたが、糊《のり》が硬《こわ》いのと、気おくれがしているのでちょっとははいりそうになかった。
 「すみませんがちょっと脱いでくださいましな」
 「めんどうだな、このままでできようが」
 葉子はもう一度試みた。しかし思うようには行かなかった。倉地はもう明らかにいらいらし出していた。
 「だめか」
 「まあちょっと」
 「出せ、貸せおれに。なんでもない事だに」
 そういってくるり[#「くるり」に傍点]と振り返ってちょっと葉子をにらみつけながら、ひったくるようにボタンを受け取った。そしてまた葉子に後ろを向けて自分でそれをはめようとかかった。しかしなかなかうまく行かなかった。見る見る倉地の手ははげしく震え出した。
 「おい、手伝ってくれてもよかろうが」
 葉子があわてて手を出すとはずみにボタンは畳の上に落ちてしまった。葉子がそれを拾おうとする間もなく、頭の上から倉地の声が雷のように鳴り響いた。
 「ばか! 邪魔をしろといいやせんぞ」
 葉子はそれでもどこまでも優しく出ようとした。
 「御免くださいね、わたしお邪魔なんぞ……」
 「邪魔よ。これ
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