そういって倉地は高々《たかだか》と笑った。葉子は妙に笑えなかった。そしてもう一度海のほうをながめやった。目も届かないような遠くのほうに、大島《おおしま》が山の腰から下は夕靄《ゆうもや》にぼかされてなくなって、上のほうだけがへ[#「へ」に白丸傍点]の字を描いてぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と空に浮かんでいた。
 二人《ふたり》はいつか滑川《なめりがわ》の川口の所まで来着いていた。稲瀬川《いなせがわ》を渡る時、倉地は、横浜|埠頭《ふとう》で葉子にまつわる若者にしたように、葉子の上体を右手に軽々とかかえて、苦もなく細い流れを跳《おど》り越してしまったが、滑川のほうはそうは行かなかった。二人は川幅の狭そうな所を尋ねてだんだん上流のほうに流れに沿うてのぼって行ったが、川幅は広くなって行くばかりだった。
 「めんどうくさい、帰りましょうか」
 大きな事をいいながら、光明寺までには半分道も来《こ》ないうちに、下駄《げた》全体がめいりこむような砂道で疲れ果ててしまった葉子はこういい出した。
 「あすこに橋が見える。とにかくあすこまで行ってみようや」
 倉地はそういって海岸線に沿うてむっくり[#「むっくり」に傍点]盛《も》れ上がった砂丘《さきゅう》のほうに続く砂道をのぼり始めた。葉子は倉地に手を引かれて息気《いき》をせいせいいわせながら、筋肉が強直《きょうちょく》するように疲れた足を運んだ。自分の健康の衰退が今さらにはっきり[#「はっきり」に傍点]思わせられるようなそれは疲れかただった。今にも破裂するように心臓が鼓動した。
 「ちょっと待って弁慶蟹《べんけいがに》を踏みつけそうで歩けやしませんわ」
 そう葉子は申しわけらしくいって幾度か足をとめた。実際そのへんには紅《あか》い甲良《こうら》を背負った小さな蟹《かに》がいかめし[#「いかめし」に傍点]い鋏《はさみ》を上げて、ざわざわと音を立てるほどおびただしく横行していた。それがいかにも晩春の夕暮れらしかった。
 砂丘《さきゅう》をのぼりきると材木座《ざいもくざ》のほうに続く道路に出た。葉子はどうも不思議な心持ちで、浜から見えていた乱橋《みだればし》のほうに行く気になれなかった。しかし倉地がどんどんそっち[#「そっち」に傍点]に向いて歩き出すので、少しすねたようにその手に取りすがりながらもつれ[#「もつれ」に傍点]合って人気《ひとけ》のないその橋の上まで来てしまった。
 橋の手前の小さな掛け茶屋には主人の婆《ばあ》さんが葭《よし》で囲った薄暗い小部屋《こべや》の中で、こそこそと店をたたむしたくでもしているだけだった。
 橋の上から見ると、滑川《なめりがわ》の水は軽く薄濁って、まだ芽を吹かない両岸の枯れ葦《あし》の根を静かに洗いながら音も立てずに流れていた。それが向こうに行くと吸い込まれたように砂の盛《も》れ上がった後ろに隠れて、またその先に光って現われて、穏やかなリズムを立てて寄せ返す海べの波の中に溶けこむように注いでいた。
 ふと葉子は目の下の枯れ葦《あし》の中に動くものがあるのに気が付いて見ると、大きな麦桿《むぎわら》の海水帽をかぶって、杭《くい》に腰かけて、釣《つ》り竿《ざお》を握った男が、帽子の庇《ひさし》の下から目を光らして葉子をじっ[#「じっ」に傍点]と見つめているのだった。葉子は何の気なしにその男の顔をながめた。
 木部孤※[#「※」は「たけかんむりにエにふしづくり」、182−3]《きべこきょう》だった。
 帽子の下に隠れているせいか、その顔はちょっと見忘れるくらい年がいっていた。そして服装からも、様子からも、落魄《らくはく》というような一種の気分が漂っていた。木部の顔は仮面のように冷然としていたが、釣《つ》り竿《ざお》の先は不注意にも水に浸って、釣り糸が女の髪の毛を流したように水に浮いて軽く震えていた。
 さすがの葉子も胸をどきん[#「どきん」に傍点]とさせて思わず身を退《しざ》らせた。「おーい、おい、おい、おい、おーい」……それがその瞬間に耳の底をすーっ[#「すーっ」に傍点]と通ってすーっ[#「すーっ」に傍点]と行くえも知らず過ぎ去った。怯《お》ず怯《お》ずと倉地をうかがうと、倉地は何事も知らぬげに、暖かに暮れて行く青空を振り仰いで目いっぱいにながめていた。
 「帰りましょう」
 葉子の声は震えていた。倉地はなんの気なしに葉子を顧みたが、
 「寒くでもなったか、口びるが白いぞ」
 といいながら欄干を離れた。二人《ふたり》がその男に後ろを見せて五六歩歩み出すと、
 「ちょっとお待ちください」
 という声が橋の下から聞こえた。倉地は始めてそこに人のいたのに気が付いて、眉《まゆ》をひそめながら振り返った。ざわざわと葦《あし》を分けながら小道を登って来る足音がして、ひょっこり[#「ひょっこり」に傍点]目の前に木部の姿が現われ出た。葉子はその時はしかしすべてに対する身構えを充分にしてしまっていた。
 木部は少しばか丁寧なくらいに倉地に対して帽子を取ると、すぐ葉子に向いて、
 「不思議な所でお目にかかりましたね、しばらく」
 といった。一年前の木部から想像してどんな激情的な口調で呼びかけられるかもしれないとあやぶんでいた葉子は、案外冷淡な木部の態度に安心もし、不安も感じた。木部はどうかすると居直るような事をしかねない男だと葉子は兼ねて思っていたからだ。しかし木部という事を先方からいい出すまでは包めるだけ倉地には事実を包んでみようと思って、ただにこやかに、
 「こんな所でお目にかかろうとは……わたしもほんとうに驚いてしまいました。でもまあほんとうにお珍しい……ただいまこちらのほうにお住まいでございますの?」
 「住まうというほどもない……くすぶり[#「くすぶり」に傍点]こんでいますよハヽヽヽ」
 と木部はうつろに笑って、鍔《つば》の広い帽子を書生っぽらしく阿弥陀《あみだ》にかぶった。と思うとまた急いで取って、
 「あんな所からいきなり[#「いきなり」に傍点]飛び出して来てこうなれなれしく早月《さつき》さんにお話をしかけて変にお思いでしょうが、僕は下らんやくざ[#「やくざ」に傍点]者で、それでも元は早月家にはいろいろ御厄介《ごやっかい》になった男です。申し上げるほどの名もありませんから、まあ御覧のとおりのやつです。……どちらにおいでです」
 と倉地に向いていった。その小さな目には勝《すぐ》れた才気と、敗《ま》けぎらいらしい気象とがほとばしってはいたけれども、じじむさい顎《あご》ひげと、伸びるままに伸ばした髪の毛とで、葉子でなければその特長は見えないらしかった。倉地はどこの馬の骨かと思うような調子で、自分の名を名乗る事はもとよりせずに、軽く帽子を取って見せただけだった。そして、
 「光明寺のほうへでも行ってみようかと思ったのだが、川が渡れんで……この橋を行っても行かれますだろう」
 三人は橋のほうを振り返った。まっすぐな土堤道《どてみち》が白く山のきわまで続いていた。
 「行けますがね、それは浜伝いのほうが趣がありますよ。防風草《ぼうふ》でも摘みながらいらっしゃい。川も渡れます、御案内しましょう」
 といった。葉子は一時《いっとき》も早く木部からのがれたくもあったが、同時にしんみり[#「しんみり」に傍点]と一別以来の事などを語り合ってみたい気もした。いつか汽車の中であってこれが最後の対面だろうと思った、あの時からすると木部はずっ[#「ずっ」に傍点]とさばけた男らしくなっていた。その服装がいかにも生活の不規則なのと窮迫しているのを思わせると、葉子は親身《しんみ》な同情にそそられるのを拒む事ができなかった。
 倉地は四五歩|先立《さきだ》って、そのあとから葉子と木部とは間を隔てて並びながら、また弁慶|蟹《がに》のうざうざいる砂道を浜のほうに降りて行った。
 「あなたの事はたいていうわさや新聞で知っていましたよ……人間てものはおかしなもんですね。……わたしはあれから落伍者《らくごしゃ》です。何をしてみても成り立った事はありません。妻も子供も里《さと》に返してしまって今は一人《ひとり》でここに放浪しています。毎日|釣《つ》りをやってね……ああやって水の流れを見ていると、それでも晩飯の酒の肴《さかな》ぐらいなものは釣れて来ますよハヽヽヽヽ」
 木部はまたうつろに笑ったが、その笑いの響きが傷口にでも答えたように急に黙ってしまった。砂に食い込む二人《ふたり》の下駄《げた》の音だけが聞こえた。
 「しかしこれでいて全くの孤独でもありませんよ。ついこの間から知り合いになった男だが、砂山の砂の中に酒を埋《うず》めておいて、ぶらり[#「ぶらり」に傍点]とやって来てそれを飲んで酔うのを楽しみにしているのと知り合いになりましてね……そいつの人生観《ライフ・フィロソフィー》がばかにおもしろいんです。徹底した運命論者ですよ。酒をのんで運命論を吐くんです。まるで仙人《せんにん》ですよ」
 倉地はどんどん歩いて二人の話し声が耳に入らぬくらい遠ざかった。葉子は木部の口から例の感傷的な言葉が今出るか今出るかと思って待っていたけれども、木部にはいささかもそんなふうはなかった。笑いばかりでなく、すべてにうつろな感じがするほど無感情に見えた。
 「あなたはほんとうに今何をなさっていらっしゃいますの」
 と葉子は少し木部に近よって尋ねた。木部は近寄られただけ葉子から遠のいてまたうつろに笑った。
 「何をするもんですか。人間に何ができるもんですか。……もう春も末になりましたね」
 途轍《とてつ》もない言葉をしいてくっ付けて木部はそのよく光る目で葉子を見た。そしてすぐその目を返して、遠ざかった倉地をこめて遠く海と空との境目にながめ入った。
 「わたしあなたとゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]お話がしてみたいと思いますが……」
 こう葉子はしんみり[#「しんみり」に傍点]ぬすむようにいってみた。木部は少しもそれに心を動かされないように見えた。
 「そう……それもおもしろいかな。……わたしはこれでも時おりはあなたの幸福を祈ったりしていますよ、おかしなもんですね、ハヽヽヽ(葉子がその言葉につけ入って何かいおうとするのを木部は悠々《ゆうゆう》とおっかぶせて)あれが、あすこに見えるのが大島《おおしま》です。ぽつん[#「ぽつん」に傍点]と一つ雲か何かのように見えるでしょう空に浮いて……大島って伊豆《いず》の先の離れ島です、あれがわたしの釣《つ》りをする所から正面に見えるんです。あれでいて、日によって色がさまざまに変わります。どうかすると噴煙がぽーっ[#「ぽーっ」に傍点]と見える事もありますよ」
 また言葉がぽつん[#「ぽつん」に傍点]と切れて沈黙が続いた。下駄《げた》の音のほかに波の音もだんだんと近く聞こえ出した。葉子はただただ胸が切《せつ》なくなるのを覚えた。もう一度どうしてもゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]木部にあいたい気になっていた。
 「木部さん……あなたさぞわたしを恨んでいらっしゃいましょうね。……けれどもわたしあなたにどうしても申し上げておきたい事がありますの。なんとかして一度わたしに会ってくださいません? そのうちに。わたしの番地は……」
 「お会いしましょう『そのうちに』……そのうちにはいい言葉ですね……そのうちに……。話があるからと女にいわれた時には、話を期待しないで抱擁か虚無かを覚悟しろって名言がありますぜ、ハヽヽヽヽ」
 「それはあんまりなおっしゃりかたですわ」
 葉子はきわめて冗談のようにまたきわめてまじめのようにこういってみた。
 「あんまりかあんまりでないか……とにかく名言には相違ありますまい、ハヽヽヽヽ」
 木部はまたうつろに笑ったが、また痛い所にでも触れたように突然笑いやんだ。
 倉地は波打ちぎわ近くまで来ても渡れそうもないので遠くからこっち[#「こっち」に傍点]を振り向いて、むずかしい顔をして立っていた。
 「どれお二人《ふたり》に橋渡しをして上げましょうかな」
 そういって木部は川べの葦《あし》を分け
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