ちの中の一人《ひとり》がどうも見知り越しの人らしく感ぜられた。あるいは女学校にいた時に葉子を崇拝してその風俗をすらまねた連中の一人であるかとも思われた。葉子がどんな事をうわさされているかは、その婦人に耳打ちされて、見るように見ないように葉子をぬすみ見る他の婦人たちの目色で想像された。
「お前たちはあきれ返りながら心の中のどこかでわたしをうらやんでいるのだろう。お前たちの、その物おじしながらも金目をかけた派手《はで》作りな衣装や化粧は、社会上の位置に恥じないだけの作りなのか、良人《おっと》の目に快く見えようためなのか。そればかりなのか。お前たちを見る路傍の男たちの目は勘定に入れていないのか。……臆病卑怯《おくびょうひきょう》な偽善者どもめ!」
葉子はそんな人間からは一段も二段も高い所にいるような気位《きぐらい》を感じた。自分の扮粧《いでたち》がその人たちのどれよりも立ちまさっている自信を十二|分《ぶん》に持っていた。葉子は女王のように誇りの必要もないという自らの鷹揚《おうよう》を見せてすわっていた。
そこに一人の夫人がはいって来た。田川夫人――葉子はその影を見るか見ないかに見て取った。しかし顔色一つ動かさなかった(倉地以外の人に対しては葉子はその時でもかなりすぐれた自制力の持ち主だった)田川夫人は元よりそこに葉子がいようなどとは思いもかけないので、葉子のほうにちょっと目をやりながらもいっこうに気づかずに、
「お待たせいたしましてすみません」
といいながら貴婦人らのほうに近寄って行った。互いの挨拶《あいさつ》が済むか済まないうちに、一同は田川夫人によりそってひそひそと私語《ささや》いた。葉子は静かに機会を待っていた。ぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]としたふうで、葉子に後ろを向けていた田川夫人は、肩越しに葉子のほうを振り返った。待ち設けていた葉子は今まで正面に向けていた顔をしとやか[#「しとやか」に傍点]に向けかえて田川夫人と目を見合わした。葉子の目は憎むように笑っていた。田川夫人の目は笑うように憎んでいた。「生意気な」……葉子は田川夫人が目をそらさないうちに、すっく[#「すっく」に傍点]と立って田川夫人のほうに寄って行った。この不意打ちに度を失った夫人は(明らかに葉子がまっ紅《か》になって顔を伏せるとばかり思っていたらしく、居合わせた婦人たちもそのさまを見て、容貌《ようぼう》でも服装でも自分らを蹴《け》落とそうとする葉子に対して溜飲《りゅういん》をおろそうとしているらしかった)少し色を失って、そっぽ[#「そっぽ」に傍点]を向こうとしたけれどももうおそかった。葉子は夫人の前に軽く頭を下げていた。夫人もやむを得ず挨拶《あいさつ》のまねをして、高飛車《たかびしゃ》に出るつもりらしく、
「あなたはどなた?」
いかにも横柄《おうへい》にさきがけて口をきった。
「早月葉《さつきよう》でございます」
葉子は対等の態度で悪《わる》びれもせずこう受けた。
「絵島丸ではいろいろお世話様になってありがとう存じました。あのう……報正新報も拝見させていただきました。(夫人の顔色が葉子の言葉一つごとに変わるのを葉子は珍しいものでも見るようにまじ[#「まじ」に傍点]まじとながめながら)たいそうおもしろうございました事。よくあんなにくわしく御通信になりましてねえ、お忙しくいらっしゃいましたろうに。……倉地さんもおりよくここに来合わせていらっしゃいますから……今ちょっと切符を買いに……お連れ申しましょうか」
田川夫人は見る見るまっさおになってしまっていた。折り返していうべき言葉に窮してしまって、拙《つたな》くも、
「わたしはこんな所であなたとお話しするのは存じがけません。御用でしたら宅へおいでを願いましょう」
といいつつ今にも倉地がそこに現われて来るかとひたすらそれを怖《おそ》れるふうだった。葉子はわざと夫人の言葉を取り違えたように、
「いゝえどういたしましてわたしこそ……ちょっとお待ちくださいすぐ倉地さんをお呼び申して参りますから」
そういってどんどん待合所を出てしまった。あとに残った田川夫人がその貴婦人たちの前でどんな顔をして当惑したか、それを葉子は目に見るように想像しながらいたずら者らしくほくそ笑《え》んだ。ちょうどそこに倉地が切符を買って来かかっていた。
一等の客室には他に二三人の客がいるばかりだった。田川夫人以下の人たちはだれかの見送りか出迎えにでも来たのだと見えて、汽車が出るまで影も見せなかった。葉子はさっそく倉地に事の始終を話して聞かせた。そして二人《ふたり》は思い存分胸をすかして笑った。
「田川の奥さんかわいそうにまだあすこで今にもあなたが来るかともじ[#「もじ」に傍点]もじしているでしょうよ、ほかの人たちの手前ああいわれてこそこそと逃げ出すわけにも行かないし」
「おれが一つ顔を出して見せればまたおもしろかったにな」
「きょうは妙な人にあってしまったからまたきっとだれかにあいますよ。奇妙ねえ、お客様が来たとなると不思議にたて続くし……」
「不仕合わせなんぞも来出すと束《たば》になって来くさるて」
倉地は何か心ありげにこういって渋い顔をしながらこの笑い話を結んだ。
葉子はけさの発作《ほっさ》の反動のように、田川夫人の事があってからただ何となく心が浮き浮きしてしようがなかった。もしそこに客がいなかったら、葉子は子供のように単純な愛矯者《あいきょうもの》になって、倉地に渋い顔ばかりはさせておかなかったろう。「どうして世の中にはどこにでも他人の邪魔に来ましたといわんばかりにこうたくさん人がいるんだろう」と思ったりした。それすらが葉子には笑いの種《たね》となった。自分たちの向こう座にしかつめらしい顔をして老年の夫婦者がすわっているのを、葉子はしばらくまじ[#「まじ」に傍点]まじと見やっていたが、その人たちのしかつめらしいのが無性《むしょう》にグロテスクな不思議なものに見え出して、とうとう我慢がしきれずに、ハンケチを口にあててきゅっ[#「きゅっ」に傍点]きゅっとふき出してしまった。
三七
天心に近くぽつり[#「ぽつり」に傍点]と一つ白くわき出た雲の色にも形にもそれと知られるようなたけなわな春が、ところどころの別荘の建て物のほかには見渡すかぎり古く寂《さ》びれた鎌倉《かまくら》の谷々《やとやと》にまであふれていた。重い砂土の白ばんだ道の上には落ち椿《つばき》が一重《ひとえ》桜の花とまじって無残に落ち散っていた。桜のこずえには紅味《あかみ》を持った若葉がきらきらと日に輝いて、浅い影を地に落とした。名もない雑木《ぞうき》までが美しかった。蛙《かわず》の声が眠く田圃《たんぼ》のほうから聞こえて来た。休暇でないせいか、思いのほかに人の雑鬧《ざっとう》もなく、時おり、同じ花かんざしを、女は髪に男は襟《えり》にさして先達《せんだつ》らしいのが紫の小旗《こばた》を持った、遠い所から春を逐《お》って経《へ》めぐって来たらしい田舎《いなか》の人たちの群れが、酒の気も借らずにしめやか[#「しめやか」に傍点]に話し合いながら通るのに行きあうくらいのものだった。
倉地も汽車の中から自然に気分が晴れたと見えて、いかにも屈託なくなって見えた。二人は停車場の付近にある或《あ》る小ぎれいな旅館を兼ねた料理屋で中食《ちゅうじき》をしたためた。日朝《にっちょう》様ともどんぶく[#「どんぶく」に傍点]様ともいう寺の屋根が庭先に見えて、そこから眼病の祈祷《きとう》だという団扇《うちわ》太鼓の音がどんぶく[#「どんぶく」に傍点]どんぶくと単調に聞こえるような所だった。東のほうはその名さながらの屏風山《びょうぶやま》が若葉で花よりも美しく装われて霞《かす》んでいた。短く美しく刈り込まれた芝生《しばふ》の芝はまだ萌《も》えていなかったが、所まばらに立ち連なった小松は緑をふきかけて、八重《やえ》桜はのぼせたように花でうなだれていた。もう袷《あわせ》一枚になって、そこに食べ物を運んで来る女中は襟前《えりまえ》をくつろげながら夏が来たようだといって笑ったりした。
「ここはいいわ。きょうはここで宿《とま》りましょう」
葉子は計画から計画で頭をいっぱいにしていた。そしてそこに用《い》らないものを預けて、江《え》の島《しま》のほうまで車を走らした。
帰りには極楽寺《ごくらくじ》坂の下で二人とも車を捨てて海岸に出た。もう日は稲村《いなむら》が崎《さき》のほうに傾いて砂浜はやや暮れ初《そ》めていた。小坪《こつぼ》の鼻の崕《がけ》の上に若葉に包まれてたった一軒建てられた西洋人の白ペンキ塗りの別荘が、夕日を受けて緑色に染めたコケットの、髪の中のダイヤモンドのように輝いていた。その崕《がけ》下の民家からは炊煙が夕靄《ゆうもや》と一緒になって海のほうにたなびいていた。波打ちぎわの砂はいいほどに湿って葉子の吾妻下駄《あづまげた》の歯を吸った。二人《ふたり》は別荘から散歩に出て来たらしい幾組かの上品な男女の群れと出あったが、葉子は自分の容貌《ようぼう》なり服装なりが、そのどの群れのどの人にも立ちまさっているのを意識して、軽い誇りと落ち付きを感じていた。倉地もそういう女を自分の伴侶《はんりょ》とするのをあながち無頓着《むとんじゃく》には思わぬらしかった。
「だれかひょん[#「ひょん」に傍点]な人にあうだろうと思っていましたがうまくだれにもあわなかってね。向こうの小坪の人家の見える所まで行きましょうね。そうして光明寺《こうみょうじ》の桜を見て帰りましょう。そうするとちょうどお腹《なか》がいい空《す》き具合になるわ」
倉地はなんとも答えなかったが、無論承知でいるらしかった。葉子はふと海のほうを見て倉地にまた口をきった。
「あれは海ね」
「仰せのとおり」
倉地は葉子が時々|途轍《とてつ》もなくわかりきった事を少女みたいな無邪気さでいう、またそれが始まったというように渋そうな笑いを片頬《かたほ》に浮かべて見せた。
「わたしもう一度あのまっただなかに乗り出してみたい」
「してどうするのだい」
倉地もさすが長かった海の上の生活を遠く思いやるような顔をしながらいった。
「ただ乗り出してみたいの。どーっと見さかいもなく吹きまく風の中を、大波に思い存分揺られながら、ひっくりかえりそうになっては立て直って切り抜けて行くあの船の上の事を思うと、胸がどきどきするほどもう一度乗ってみたくなりますわ。こんな所いやねえ、住んでみると」
そういって葉子はパラソルを開いたまま柄《え》の先で白い砂をざくざくと刺し通した。
「あの寒い晩の事、わたしが甲板《かんぱん》の上で考え込んでいた時、あなたが灯《ひ》をぶら下げて岡さんを連れて、やっていらしったあの時の事などをわたしはわけもなく思い出しますわ。あの時わたしは海でなければ聞けないような音楽を聞いていましたわ。陸《おか》の上にはあんな音楽は聞こうといったってありゃしない。おーい、おーい、おい、おい、おい、おーい……あれは何?」
「なんだそれは」
倉地は怪訝《けげん》な顔をして葉子を振り返った。
「あの声」
「どの」
「海の声……人を呼ぶような……お互いで呼び合うような」
「なんにも聞こえやせんじゃないか」
「その時聞いたのよ……こんな浅い所では何が聞こえますものか」
「おれは長年海の上で暮らしたが、そんな声は一度だって聞いた事はないわ」
「そうお。不思議ね。音楽の耳のない人には聞こえないのかしら。……確かに聞こえましたよ、あの晩に……それは気味の悪いような物すごいような……いわばね、一緒になるべきはずなのに一緒になれなかった……その人たちが幾億万と海の底に集まっていて、銘々死にかけたような低い音で、おーい、おーいと呼び立てる、それが一緒になってあんなぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]した大きな声になるかと思うようなそんな気味の悪い声なの……どこかで今でもその声が聞こえるようよ」
「木村がやっているのだろう」
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