歓楽ももう歓楽自身の歓楽は持たなくなった。歓楽の後には必ず病理的な苦痛が伴うようになった。ある時にはそれを思う事すらが失望だった。それでも葉子はすべての不自然な方法によって、今は振り返って見る過去にばかりながめられる歓楽の絶頂を幻影としてでも現在に描こうとした。そして倉地を自分の力の支配の下《もと》につなごうとした。健康が衰えて行けば行くほどこの焦躁のために葉子の心は休まなかった。全盛期を過ぎた伎芸《ぎげい》の女にのみ見られるような、いたましく廃頽《はいたい》した、腐菌《ふきん》の燐光《りんこう》を思わせる凄惨《せいさん》な蠱惑力《こわくりょく》をわずかな力として葉子はどこまでも倉地をとりこにしようとあせりにあせった。
しかしそれは葉子のいたましい自覚だった。美と健康とのすべてを備えていた葉子には今の自分がそう自覚されたのだけれども、始めて葉子を見る第三者は、物すごいほど冴《さ》えきって見える女盛りの葉子の惑力に、日本には見られないようなコケットの典型を見いだしたろう。おまけに葉子は肉体の不足を極端に人目をひく衣服で補うようになっていた。その当時は日露《にちろ》の関係も日米の関係もあらしの前のような暗い徴候を現わし出して、国人全体は一種の圧迫を感じ出していた。臥薪嘗胆《がしんしょうたん》というような合い言葉がしきりと言論界には説かれていた。しかしそれと同時に日清《にっしん》戦争を相当に遠い過去としてながめうるまでに、その戦役の重い負担から気のゆるんだ人々は、ようやく調整され始めた経済状態の下《もと》で、生活の美装という事に傾いていた。自然主義は思想生活の根底となり、当時病天才の名をほしいままにした高山樗牛《たかやまちょぎゅう》らの一団はニイチェの思想を標榜《ひょうぼう》して「美的生活」とか「清盛論《きよもりろん》」というような大胆奔放な言説をもって思想の維新を叫んでいた。風俗問題とか女子の服装問題とかいう議論が守旧派の人々の間にはかまびすしく持ち出されている間に、その反対の傾向は、殻《から》を破った芥子《けし》の種《たね》のように四方八方に飛び散った。こうして何か今までの日本にはなかったようなものの出現を待ち設け見守っていた若い人々の目には、葉子の姿は一つの天啓《てんけい》のように映ったに違いない。女優らしい女優を持たず、カフェーらしいカフェーを持たない当時の路上に葉子の姿はまぶしいものの一つだ。葉子を見た人は男女を問わず目をそばだてた。
ある朝葉子は装いを凝らして倉地の下宿に出かけた。倉地は寝ごみを襲われて目をさました。座敷のすみには夜をふかして楽しんだらしい酒肴《しゅこう》の残りが敗《す》えたようにかためて置いてあった。例のシナ鞄《かばん》だけはちゃん[#「ちゃん」に傍点]と錠《じょう》がおりて床の間のすみに片づけられていた。葉子はいつものとおり知らんふりをしながら、そこらに散らばっている手紙の差し出し人の名前に鋭い観察を与えるのだった。倉地は宿酔《しゅくすい》を不快がって頭をたたきながら寝床から半身を起こすと、
「なんでけさはまたそんなにしゃれ[#「しゃれ」に傍点]込んで早くからやって来おったんだ」
とそっぽ[#「そっぽ」に傍点]に向いて、あくびでもしながらのようにいった。これが一か月前だったら、少なくとも三か月前だったら、一夜の安眠に、あのたくましい精力の全部を回復した倉地は、いきなり[#「いきなり」に傍点]寝床の中から飛び出して来て、そうはさせまいとする葉子を否応《いやおう》なしに床の上にねじ伏せていたに違いないのだ。葉子はわき目にもこせこせとうるさく見えるような敏捷《すばしこ》さでそのへんに散らばっている物を、手紙は手紙、懐中物は懐中物、茶道具は茶道具とどんどん片づけながら、倉地のほうも見ずに、
「きのうの約束じゃありませんか」
と無愛想《ぶあいそ》につぶやいた。倉地はその言葉で始めて何かいったのをかすかに思い出したふうで、
「何しろおれはきょうは忙しいでだめだよ」
といって、ようやく伸びをしながら立ち上がった。葉子はもう腹に据《す》えかねるほど怒りを発していた。
「怒《おこ》ってしまってはいけない。これが倉地を冷淡にさせるのだ」――そう心の中には思いながらも、葉子の心にはどうしてもそのいう事を聞かぬいたずら好きな小悪魔がいるようだった。即座にその場を一人《ひとり》だけで飛び出してしまいたい衝動と、もっと巧みな手練《てくだ》でどうしても倉地をおびき出さなければいけないという冷静な思慮とが激しく戦い合った。葉子はしばらくの後にかろうじてその二つの心持ちをまぜ合わせる事ができた。
「それではだめね……またにしましょうか。でもくやしいわ、このいいお天気に……いけない、あなたの忙しいはうそですわ。忙しい忙しいっていっときながらお酒ばかり飲んでいらっしゃるんだもの。ね、行きましょうよ。こら見てちょうだい」
そういいながら葉子は立ち上がって、両手を左右に広く開いて、袂《たもと》が延びたまま両腕からすらり[#「すらり」に傍点]とたれるようにして、やや剣《けん》を持った笑いを笑いながら倉地のほうに近寄って行った。倉地もさすがに、今さらその美しさに見惚《みと》れるように葉子を見やった。天才が持つと称せられるあの青色をさえ帯びた乳白色の皮膚、それがやや浅黒くなって、目の縁《ふち》に憂いの雲をかけたような薄紫の暈《かさ》、霞《かす》んで見えるだけにそっ[#「そっ」に傍点]と刷《は》いた白粉《おしろい》、きわ立って赤くいろどられた口びる、黒い焔《ほのお》を上げて燃えるようなひとみ、後ろにさばいて束ねられた黒漆《こくしつ》の髪、大きなスペイン風《ふう》の玳瑁《たいまい》の飾り櫛《ぐし》、くっきりと白く細い喉《のど》を攻めるようにきりっ[#「きりっ」に傍点]と重ね合わされた藤色《ふじいろ》の襟《えり》、胸のくぼみにちょっとのぞかせた、燃えるような緋《ひ》の帯上げのほかは、ぬれたかとばかりからだにそぐって底光りのする紫紺色の袷《あわせ》、その下につつましく潜んで消えるほど薄い紫色の足袋《たび》(こういう色足袋は葉子がくふうし出した新しい試みの一つだった)そういうものが互い互いに溶け合って、のどやかな朝の空気の中にぽっかり[#「ぽっかり」に傍点]と、葉子という世にもまれなほど悽艶《せいえん》な一つの存在を浮き出さしていた。その存在の中から黒い焔《ほのお》を上げて燃えるような二つのひとみが生きて動いて倉地をじっ[#「じっ」に傍点]と見やっていた。
倉地が物をいうか、身を動かすか、とにかく次の動作に移ろうとするその前に、葉子は気味の悪いほどなめらかな足どりで、倉地の目の先に立ってその胸の所に、両手をかけていた。
「もうわたしに愛想が尽きたら尽きたとはっきり[#「はっきり」に傍点]いってください、ね。あなたは確かに冷淡におなりね。わたしは自分が憎うござんす、自分に愛想を尽かしています。さあいってください、……今……この場で、はっきり[#「はっきり」に傍点]……でも死ねとおっしゃい、殺すとおっしゃい。わたしは喜んで……わたしはどんなにうれしいかしれないのに。……ようござんすわ、なんでもわたしほんとうが知りたいんですから。さ、いってください。わたしどんなきつい言葉でも覚悟していますから。悪《わる》びれなんかしはしませんから……あなたはほんとうにひどい……」
葉子はそのまま倉地の胸に顔をあてた。そして始めのうちはしめやか[#「しめやか」に傍点]にしめやか[#「しめやか」に傍点]に泣いていたが、急に激しいヒステリー風《ふう》なすすり泣きに変わって、きたないものにでも触れていたように倉地の熱気の強い胸もとから飛びしざると、寝床の上にがば[#「がば」に傍点]と突っ伏して激しく声を立てて泣き出した。
このとっさの激しい威脅に、近ごろそういう動作には慣れていた倉地だったけれども、あわてて葉子に近づいてその肩に手をかけた。葉子はおびえるようにその手から飛びのいた。そこには獣《けもの》に見るような野性のままの取り乱しかたが美しい衣装にまとわれて演ぜられた。葉子の歯も爪《つめ》もとがって見えた。からだは激しい痙攣《けいれん》に襲われたように痛ましく震えおののいていた。憤怒と恐怖と嫌悪《けんお》とがもつれ合いいがみ合ってのた[#「のた」に傍点]打ち回るようだった。葉子は自分の五体が青空遠くかきさらわれて行くのを懸命に食い止めるためにふとんでも畳でも爪の立ち歯の立つものにしがみついた。倉地は何よりもその激しい泣き声が隣近所の耳にはいるのを恥じるように背に手をやってなだめようとしてみたけれども、そのたびごとに葉子はさらに泣き募ってのがれようとばかりあせった。
「何を思い違いをしとる、これ」
倉地は喉笛《のどぶえ》をあけっ放《ぱな》した低い声で葉子の耳もとにこういってみたが、葉子は理不尽にも激しく頭を振るばかりだった。倉地は決心したように力任せにあらがう葉子を抱きすくめて、その口に手をあてた。
「えゝ、殺すなら殺してください……くださいとも」
という狂気じみた声をしっ[#「しっ」に傍点]と制しながら、その耳もとにささやこうとすると、葉子はわれながら夢中であてがった倉地の手を骨もくだけよとかんだ。
「痛い……何しやがる」
倉地はいきなり[#「いきなり」に傍点]一方の手で葉子の細首を取って自分の膝《ひざ》の上に乗せて締めつけた。葉子は呼吸がだんだん苦しくなって行くのをこの狂乱の中にも意識して快く思った。倉地の手で死んで行くのだなと思うとそれがなんともいえず美しく心安かった。葉子の五体からはひとりで[#「ひとりで」に傍点]に力が抜けて行って、震えを立ててかみ合っていた歯がゆるんだ。その瞬間をすかさず倉地はかまれていた手を振りほどくと、いきなり葉子の頬《ほお》げたをひし[#「ひし」に傍点]ひしと五六度続けさまに平手《ひらて》で打った。葉子はそれがまた快かった。そのびりびりと神経の末梢《まっしょう》に答えて来る感覚のためにからだじゅうに一種の陶酔を感ずるようにさえ思った。「もっとお打ちなさい」といってやりたかったけれども声は出なかった。そのくせ葉子の手は本能的に自分の頬をかばうように倉地の手の下るのをささえようとしていた。倉地は両|肘《ひじ》まで使って、ばた[#「ばた」に傍点]ばたと裾《すそ》を蹴《け》乱してあばれる両足のほかには葉子を身動きもできないようにしてしまった。酒で心臓の興奮しやすくなった倉地の呼吸は霰《あられ》のようにせわしく葉子の顔にかかった。
「ばかが……静かに物をいえばわかる事だに……おれがお前を見捨てるか見捨てないか……静かに考えてもみろ、ばかが……恥さらしなまねをしやがって……顔を洗って出直して来い」
そういって倉地は捨てるように葉子を寝床の上にどん[#「どん」に傍点]とほうり投げた。
葉子の力は使い尽くされて泣き続ける気力さえないようだった。そしてそのまま昏々《こんこん》として眠るように仰向いたまま目を閉じていた。倉地は肩で激しく息気《いき》をつきながらいたましく取り乱した葉子の姿をまんじり[#「まんじり」に傍点]とながめていた。
一時間ほどの後には葉子はしかしたった今ひき起こされた乱脈騒ぎをけろり[#「けろり」に傍点]と忘れたもののように快活で無邪気になっていた。そして二人《ふたり》は楽しげに下宿から新橋《しんばし》駅に車を走らした。葉子が薄暗い婦人待合室の色のはげたモロッコ皮のディバン[#底本では「デイバン」]に腰かけて、倉地が切符《きっぷ》を買って来るのを待ってる間、そこに居合わせた貴婦人というような四五人の人たちは、すぐ今までの話を捨ててしまって、こそこそと葉子について私語《ささや》きかわすらしかった。高慢というのでもなく謙遜《けんそん》というのでもなく、きわめて自然に落ち着いてまっすぐに腰かけたまま、柄《え》の長い白の琥珀《こはく》のパラソルの握りに手を乗せていながら、葉子にはその貴婦人た
前へ
次へ
全47ページ中25ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング