の御本と一緒にもお手紙が来たはずね」
 愛子はすぐまた立とうとした。しかし葉子はそうはさせなかった。
 「一本一本お手紙を取りに行ったり帰ったりしたんじゃ日が暮れますわ。……日が暮れるといえばもう暗くなったわ。貞《さあ》ちゃんはまた何をしているだろう……あなた早く呼びに行って一緒にお夕飯のしたくをしてちょうだい」
 愛子はそこにある書物をひとかかえに胸に抱いて、うつむくと愛らしく二重《ふたえ》になる頤《おとがい》で押えて座を立って行った。それがいかにもしおしおと、細かい挙動の一つ一つで岡に哀訴するように見れば見なされた。「互いに見かわすような事をしてみるがいい」そう葉子は心の中で二人《ふたり》をたしなめながら、二人に気を配った。岡も愛子も申し合わしたように瞥視《べっし》もし合わなかった。けれども葉子は二人がせめては目だけでも慰め合いたい願いに胸を震わしているのをはっきり[#「はっきり」に傍点]と感ずるように思った。葉子の心はおぞましくも苦々《にがにが》しい猜疑《さいぎ》のために苦しんだ。若さと若さとが互いにきびしく求め合って、葉子などをやすやすと袖《そで》にするまでにその情炎は嵩《こう》じていると思うと耐えられなかった。葉子はしいて自分を押ししずめるために、帯の間から煙草入《たばこい》れを取り出してゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]煙を吹いた。煙管《きせる》の先が端《はし》なく火鉢《ひばち》にかざした岡の指先に触れると電気のようなものが葉子に伝わるのを覚えた。若さ……若さ……。
 そこには二人の間にしばらくぎごち[#「ぎごち」に傍点]ない沈黙が続いた。岡が何をいえば愛子は泣いたんだろう。愛子は何を泣いて岡に訴えていたのだろう。葉子が数えきれぬほど経験した幾多の恋の場面の中から、激情的ないろいろの光景がつぎつぎに頭の中に描かれるのだった。もうそうした年齢が岡にも愛子にも来ているのだ。それに不思議はない。しかしあれほど葉子にあこがれおぼれて、いわば恋以上の恋ともいうべきものを崇拝的にささげていた岡が、あの純直な上品なそしてきわめて内気な岡が、見る見る葉子の把持《はじ》から離れて、人もあろうに愛子――妹の愛子のほうに移って行こうとしているらしいのを見なければならないのはなんという事だろう。愛子の涙――それは察する事ができる。愛子はきっと涙ながらに葉子と倉地との間にこのごろ募って行く奔放な放埒《ほうらつ》な醜行を訴えたに違いない。葉子の愛子と貞世とに対する偏頗《へんぱ》な愛憎と、愛子の上に加えられる御殿女中|風《ふう》な圧迫とを嘆いたに違いない。しかもそれをあの女に特有な多恨らしい、冷ややかな、さびしい表現法で、そして息気《いき》づまるような若さと若さとの共鳴の中に……。
 勃然《ぼつぜん》として焼くような嫉妬《しっと》が葉子の胸の中に堅く凝《こご》りついて来た。葉子はすり寄っておどおどしている岡の手を力強く握りしめた。葉子の手は氷のように冷たかった。岡の手は火鉢《ひばち》にかざしてあったせいか、珍しくほてって臆病《おくびょう》らしい油汗が手のひらにしとどににじみ出ていた。
 「あなたはわたしがおこわいの」
 葉子はさりげなく岡の顔をのぞき込むようにしてこういった。
 「そんな事……」
 岡はしょう事なしに腹を据《す》えたように割合にしゃん[#「しゃん」に傍点]とした声でこういいながら、葉子の目をゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]見やって、握られた手には少しも力をこめようとはしなかった。葉子は裏切られたと思う不満のためにもうそれ以上冷静を装ってはいられなかった。昔のようにどこまでも自分を失わない、粘り気《け》の強い、鋭い神経はもう葉子にはなかった。
 「あなたは愛子を愛していてくださるのね。そうでしょう。わたしがここに来る前愛子はあんなに泣いて何を申し上げていたの?……おっしゃってくださいな。愛子があなたのような方に愛していただけるのはもったいないくらいですから、わたし喜ぶともとがめ立てなどはしません、きっと。だからおっしゃってちょうだい。……いゝえ、そんな事をおっしゃってそりゃだめ、わたしの目はまだこれでも黒うござんすから。……あなたそんな水臭いお仕向けをわたしになさろうというの? まさかとは思いますがあなたわたしにおっしゃった事を忘れなさっちゃ困りますよ。わたしはこれでも真剣な事には真剣になるくらいの誠実はあるつもりです事よ。わたしあなたのお言葉は忘れてはおりませんわ。姉だと今でも思っていてくださるならほんとうの事をおっしゃってください。愛子に対してはわたしはわたしだけの事をして御覧に入れますから……さ」
 そう疳走《かんばし》った声でいいながら葉子は時々握っている岡の手をヒステリックに激しく振り動かした。泣いてはならぬと思えば思うほど葉子の目からは涙が流れた。さながら恋人に不実を責めるような熱意が思うざまわき立って来た。しまいには岡にもその心持ちが移って行ったようだった。そして右手を握った葉子の手の上に左の手を添えながら、上下からはさむように押えて、岡は震え声で静かにいい出した。
 「御存じじゃありませんか、わたし、恋のできるような人間ではないのを。年こそ若うございますけれども心は妙にいじけて老いてしまっているんです。どうしても恋の遂げられないような女の方《かた》にでなければわたしの恋は動きません。わたしを恋してくれる人があるとしたら、わたし、心が即座に冷えてしまうのです。一度自分の手に入れたら、どれほど尊《とうと》いものでも大事なものでも、もうわたしには尊《とうと》くも大事でもなくなってしまうんです。だからわたし、さびしいんです。なんにも持っていない、なんにもむなしい……そのくせそう知り抜きながらわたし、何かどこかにあるように思ってつかむ事のできないものにあこがれます。この心さえなくなればさびしくってもそれでいいのだがなと思うほど苦しくもあります。何にでも自分の理想をすぐあてはめて熱するような、そんな若い心がほしくもありますけれども、そんなものはわたしには来はしません……春にでもなって来るとよけい世の中はむなしく見えてたまりません。それをさっきふと愛子さんに申し上げたんです。そうしたら愛子さんがお泣きになったんです。わたし、あとですぐ悪いと思いました、人にいうような事じゃなかったのを……」
 こういう事をいう時の岡はいう言葉にも似ず冷酷とも思われるほどたださびしい顔になった。葉子には岡の言葉がわかるようでもあり、妙にからんでも聞こえた。そしてちょっとすかされたように気勢をそがれたが、どんどんわき上がるように内部から襲い立てる力はすぐ葉子を理不尽《りふじん》にした。
 「愛子がそんなお言葉で泣きましたって? 不思議ですわねえ。……それならそれでようござんす。……(ここで葉子は自分にも堪《た》え切れずにさめざめと泣き出した)岡さんわたしもさびしい……さびしくって、さびしくって……」
 「お察し申します」
 岡は案外しんみり[#「しんみり」に傍点]した言葉でそういった。
 「おわかりになって?」
 と葉子は泣きながら取りすがるようにした。
 「わかります。……あなたは堕落した天使のような方です。御免ください。船の中で始めてお目にかかってからわたし、ちっとも[#「ちっとも」に傍点]心持ちが変わってはいないんです。あなたがいらっしゃるんでわたし、ようやくさびしさからのがれます」
 「うそ!……あなたはもうわたしに愛想《あいそ》をおつかしなのよ。わたしのように堕落したものは……」
 葉子は岡の手を放して、とうとうハンケチを顔にあてた。
 「そういう意味でいったわけじゃないんですけれども……」
 ややしばらく沈黙した後に、当惑しきったようにさびしく岡は独語《ひとりご》ちてまた黙ってしまった。岡はどんなにさびしそうな時でもなかなか泣かなかった。それが彼をいっそうさびしく見せた。
 三月末の夕方の空はなごやかだった。庭先の一重《ひとえ》桜のこずえには南に向いたほうに白い花《か》べんがどこからか飛んで来てくっついたようにちらほら[#「ちらほら」に傍点]見え出していた、その先には赤く霜枯れた杉森《すぎもり》がゆるやかに暮れ初《そ》めて、光を含んだ青空が静かに流れるように漂っていた。苔香園《たいこうえん》のほうから園丁が間遠《まどお》に鋏《はさみ》をならす音が聞こえるばかりだった。
 若さから置いて行かれる……そうしたさびしみが嫉妬《しっと》にかわってひし[#「ひし」に傍点]ひしと葉子を襲って来た。葉子はふと母の親佐《おやさ》を思った。葉子が木部《きべ》との恋に深入りして行った時、それを見守っていた時の親佐を思った。親佐のその心を思った。自分の番が来た……その心持ちはたまらないものだった。と、突然定子の姿が何よりもなつかしいものとなって胸に逼《せま》って来た。葉子は自分にもその突然の連想の経路はわからなかった。突然もあまりに突然――しかし葉子に逼《せま》るその心持ちは、さらに葉子を畳に突っ伏《ぷ》して泣かせるほど強いものだった。
 玄関から人のはいって来る気配がした。葉子はすぐそれが倉地である事を感じた。葉子は倉地と思っただけで、不思議な憎悪《ぞうお》を感じながらその動静に耳をすました。倉地は台所のほうに行って愛子を呼んだようだった。二人《ふたり》の足音が玄関の隣の六畳のほうに行った。そしてしばらく静かだった。と思うと、
 「いや」
 と小さく退けるようにいう愛子の声が確かに聞こえた。抱きすくめられて、もがきながら放たれた声らしかったが、その声の中には憎悪《ぞうお》の影は明らかに薄かった。
 葉子は雷に撃たれたように突然泣きやんで頭をあげた。
 すぐ倉地が階子段《はしごだん》をのぼって来る音が聞こえた。
 「わたし台所に参りますからね」
 何も知らなかったらしい岡に、葉子はわずかにそれだけをいって、突然座を立って裏階子《うらばしご》に急いだ。と、かけ違いに倉地は座敷にはいって来た。強い酒の香がすぐ部屋《へや》の空気をよごした。
 「やあ春になりおった。桜が咲いたぜ。おい葉子」
 いかにも気さくらしく塩がれた声でこう叫んだ倉地に対して、葉子は返事もできないほど興奮していた。葉子は手に持ったハンケチを口に押し込むようにくわえて、震える手で壁を細かくたたくようにしながら階子段《はしごだん》を降りた。
 葉子は頭の中に天地の壊《くず》れ落ちるような音を聞きながら、そのまま縁に出て庭|下駄《げた》をはこうとあせったけれどもどうしてもはけないので、はだしのまま庭に出た。そして次の瞬間に自分を見いだした時にはいつ戸をあけたとも知らず物置き小屋の中にはいっていた。

    三六

 底のない悒鬱《ゆううつ》がともするとはげしく葉子を襲うようになった。いわれのない激怒がつまらない事にもふと頭をもたげて、葉子はそれを押ししずめる事ができなくなった。春が来て、木の芽から畳の床《とこ》に至るまですべてのものが膨《ふく》らんで来た。愛子も貞世も見違えるように美しくなった。その肉体は細胞の一つ一つまで素早《すばや》く春をかぎつけ、吸収し、飽満するように見えた。愛子はその圧迫に堪《た》えないで春の来たのを恨むようなけだるさ[#「けだるさ」に傍点]とさびしさとを見せた。貞世は生命そのものだった。秋から冬にかけてにょき[#「にょき」に傍点]にょきと延び上がった細々したからだには、春の精のような豊麗な脂肪がしめやかにしみわたって行くのが目に見えた。葉子だけは春が来てもやせた。来るにつけてやせた。ゴム毬《まり》の弧線のような肩は骨ばった輪郭を、薄着になった着物の下からのぞかせて、潤沢な髪の毛の重みに堪《た》えないように首筋も細々となった。やせて悒鬱《ゆううつ》になった事から生じた別種の美――そう思って葉子がたよりにしていた美もそれはだんだん冴《さ》え増さって行く種類の美ではない事を気づかねばならなくなった。その美はその行く手には夏がなかった。寒い冬のみが待ち構えていた。

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