子に対して要求するものは燃えただれる情熱の肉体だったが、葉子もまた知らず知らず自分をそれに適応させ、かつは自分が倉地から同様な狂暴な愛撫《あいぶ》を受けたい欲念から、先の事もあとの事も考えずに、現在の可能のすべてを尽くして倉地の要求に応じて行った。脳も心臓も振り回して、ゆすぶって、たたきつけて、一気に猛火であぶり立てるような激情、魂ばかりになったような、肉ばかりになったような極端な神経の混乱、そしてそのあとに続く死滅と同然の倦怠《けんたい》疲労。人間が有する生命力をどん底からためし試みるそういう虐待が日に二度も三度も繰り返された。そうしてそのあとでは倉地の心はきっと野獣のようにさらにすさんでいた。葉子は不快きわまる病理的の憂鬱《ゆううつ》に襲われた。静かに鈍く生命を脅かす腰部の痛み、二匹の小魔《しょうま》が肉と骨との間にはいり込んで、肉を肩にあてて骨を踏んばって、うん[#「うん」に傍点]と力任せに反《そ》り上がるかと思われるほどの肩の凝り、だんだん鼓動を低めて行って、呼吸を苦しくして、今働きを止めるかとあやぶむと、一時に耳にまで音が聞こえるくらい激しく動き出す不規則な心臓の動作、もやもやと火の霧で包まれたり、透明な氷の水で満たされるような頭脳の狂い、……こういう現象は日一日と生命に対する、そして人生に対する葉子の猜疑《さいぎ》を激しくした。
有頂天《うちょうてん》の溺楽《できらく》のあとに襲って来るさびしいとも、悲しいとも、はかないとも形容のできないその空虚さは何よりも葉子につらかった。たといその場で命を絶《た》ってもその空虚さは永遠に葉子を襲うもののようにも思われた。ただこれからのがれるただ一つの道は捨てばちになって、一時的のものだとは知り抜きながら、そしてそのあとにはさらに苦しい空虚さが待ち伏せしているとは覚悟しながら、次の溺楽《できらく》を逐《お》うほかはなかった。気分のすさんだ倉地も同じ葉子と同じ心で同じ事を求めていた。こうして二人《ふたり》は底止《ていし》する所のないいずこかへ手をつないで迷い込んで行った。
ある朝葉子は朝湯を使ってから、例の六畳で鏡台に向かったが一日一日に変わって行くような自分の顔にはただ驚くばかりだった。少し縦に長く見える鏡ではあるけれども、そこに映る姿はあまりに細っていた。その代わり目は前にも増して大きく鈴を張って、化粧焼けとも思われぬ薄い紫色の色素がそのまわりに現われて来ていた。それが葉子の目にたとえば森林に囲まれた澄んだ湖のような深みと神秘とを添えるようにも見えた。鼻筋はやせ細って精神的な敏感さをきわ立たしていた。頬《ほお》の傷々《いたいた》しくこけたために、葉子の顔にいうべからざる暖かみを与える笑《え》くぼを失おうとしてはいたが、その代わりにそこには悩ましく物思わしい張りを加えていた。ただ葉子がどうしても弁護のできないのはますます目立って来た固い下顎《したあご》の輪郭だった。しかしとにもかくにも肉情の興奮の結果が顔に妖凄《ようせい》な精神美を付け加えているのは不思議だった。葉子はこれまでの化粧法を全然改める必要をその朝になってしみじみと感じた。そして今まで着ていた衣類までが残らず気に食わなくなった。そうなると葉子は矢もたてもたまらなかった。
葉子は紅《べに》のまじった紅粉《おしろい》をほとんど使わずに化粧をした。顎《あご》の両側と目のまわりとの紅粉をわざと薄くふき取った。枕《まくら》を入れずに前髪を取って、束髪《そくはつ》の髷《まげ》を思いきり下げて結ってみた。鬢《びん》だけを少しふくらましたので顎《あご》の張ったのも目立たず、顔の細くなったのもいくらか調節されて、そこには葉子自身が期待もしなかったような廃頽的《はいたいてき》な同時に神経質的なすごくも美しい一つの顔面が創造されていた。有り合わせのものの中からできるだけ地味《じみ》な一そろいを選んでそれを着ると葉子はすぐ越後屋《えちごや》に車を走らせた。
昼すぎまで葉子は越後屋にいて注文や買い物に時を過ごした。衣服や身のまわりのものの見立てについては葉子は天才といってよかった。自分でもその才能には自信を持っていた。従って思い存分の金をふところに入れていて買い物をするくらい興の多いものは葉子に取っては他になかった。越後屋を出る時には、感興と興奮とに自分を傷《いた》めちぎった芸術家のようにへと[#「へと」に傍点]へとに疲れきっていた。
帰りついた玄関の靴脱《くつぬ》ぎ石の上には岡の細長い華車《きゃしゃ》な半靴が脱ぎ捨てられていた。葉子は自分の部屋《へや》に行って懐中物などをしまって、湯飲みでなみなみと一杯の白湯《さゆ》を飲むと、すぐ二階に上がって行った。自分の新しい化粧法がどんなふうに岡の目を刺激するか、葉子は子供らしくそれを試みてみたかったのだ。彼女は不意に岡の前に現われようために裏階子《うらばしご》からそっ[#「そっ」に傍点]と登って行った。そして襖《ふすま》をあけるとそこに岡と愛子だけがいた。貞世は苔香園《たいこうえん》にでも行って遊んでいるのかそこには姿を見せなかった。
岡は詩集らしいものを開いて見ていた。そこにはなお二三冊の書物が散らばっていた。愛子は縁側に出て手欄《てすり》から庭を見おろしていた。しかし葉子は不思議な本能から、階子段《はしごだん》に足をかけたころには、二人は決して今のような位置に、今のような態度でいたのではないという事を直覚していた。二人が一人《ひとり》は本を読み、一人が縁に出ているのは、いかにも自然でありながら非常に不自然だった。
突然――それはほんとうに突然どこから飛び込んで来たのか知れない不快の念のために葉子の胸はかきむしられた。岡は葉子の姿を見ると、わざっと寛《くつろ》がせていたような姿勢を急に正して、読みふけっていたらしく見せた詩集をあまりに惜しげもなく閉じてしまった。そしていつもより少しなれなれしく挨拶《あいさつ》した。愛子は縁側から静かにこっちを振り向いて平生《ふだん》と少しも変わらない態度で、柔順に無表情に縁板の上にちょっと膝《ひざ》をついて挨拶した。しかしその沈着にも係わらず、葉子は愛子が今まで涙を目にためていたのをつきとめた。岡も愛子も明らかに葉子の顔や髪の様子の変わったのに気づいていないくらい心に余裕のないのが明らかだった。
「貞《さあ》ちゃんは」
と葉子は立ったままで尋ねてみた。二人《ふたり》は思わずあわてて答えようとしたが、岡は愛子をぬすみ見るようにして控えた。
「隣の庭に花を買いに行ってもらいましたの」
そう愛子が少し下を向いて髷《まげ》だけを葉子に見えるようにして素直《すなお》に答えた。「ふゝん」と葉子は腹の中でせせら笑った。そして始めてそこにすわって、じっ[#「じっ」に傍点]と岡の目を見つめながら、
「何? 読んでいらしったのは」
といって、そこにある四六細型《しろくほそがた》の美しい表装の書物を取り上げて見た。黒髪を乱した妖艶《ようえん》な女の頭、矢で貫かれた心臓、その心臓からぽたぽた落ちる血のしたたりがおのずから字になったように図案された「乱れ髪」という標題――文字に親しむ事の大きらいな葉子もうわさで聞いていた有名な鳳晶子《ほうあきこ》[#底本ではルビが「おおとりあきこ」]の詩集だった。そこには「明星《みょうじょう》」という文芸雑誌だの、春雨《しゅんう》の「無花果《いちじく》」だの、兆民居士《ちょうみんこじ》の「一|年有半《ねんゆうはん》」だのという新刊の書物も散らばっていた。
「まあ岡さんもなかなかのロマンティストね、こんなものを愛読なさるの」
と葉子は少し皮肉なものを口じりに見せながら尋ねてみた。岡は静かな調子で訂正するように、
「それは愛子さんのです。わたし今ちょっと拝見しただけです」
「これは」
といって葉子は今度は「一年有半」を取り上げた。
「それは岡さんがきょう貸してくださいましたの。わたしわかりそうもありませんわ」
愛子は姉の毒舌をあらかじめ防ごうとするように。
「へえ、それじゃ岡さん、あなたはまたたいしたリアリストね」
葉子は愛子を眼中にもおかないふうでこういった。去年の下半期の思想界を震憾《しんかん》したようなこの書物と続編とは倉地の貧しい書架の中にもあったのだ。そして葉子はおもしろく思いながらその中を時々拾い読みしていたのだった。
「なんだかわたしとはすっかり[#「すっかり」に傍点]違った世界を見るようでいながら、自分の心持ちが残らずいってあるようでもあるんで……わたしそれが好きなんです。リアリストというわけではありませんけれども……」
「でもこの本の皮肉は少しやせ我慢ね。あなたのような方《かた》にはちょっと不似合いですわ」
「そうでしょうか」
岡は何とはなく今にでも腫《は》れ物《もの》にさわられるかのようにそわそわしていた。会話は少しもいつものようにははずまなかった。葉子はいらいらしながらもそれを顔には見せないで今度は愛子のほうに槍先《やりさき》を向けた。
「愛さんお前こんな本をいつお買いだったの」
といってみると、愛子は少しためらっている様子だったが、すぐに素直な落ち着きを見せて、
「買ったんじゃないんですの。古藤さんが送ってくださいましたの」
といった。葉子はさすがに驚いた。古藤はあの会食の晩、中座したっきり、この家には足踏みもしなかったのに……。葉子は少し激しい言葉になった。
「なんだってまたこんな本を送っておよこしなさったんだろう。あなたお手紙でも上げたのね」
「えゝ、……くださいましたから」
「どんなお手紙を」
愛子は少しうつむきかげんに黙ってしまった、こういう態度を取った時の愛子のしぶとさ[#「しぶとさ」に傍点]を葉子はよく知っていた。葉子の神経はびり[#「びり」に傍点]びりと緊張して来た。
「持って来てお見せ」
そう厳格にいいながら、葉子はそこに岡のいる事も意識の中に加えていた。愛子は執拗《しつよう》に黙ったまますわっていた。しかし葉子がもう一度催促の言葉を出そうとすると、その瞬間に愛子はつ[#「つ」に傍点]と立ち上がって部屋《へや》を出て行った。
葉子はそのすきに岡の顔を見た。それはまた無垢《むく》童貞の青年が不思議な戦慄《せんりつ》を胸の中に感じて、反感を催すか、ひき付けられるかしないではいられないような目で岡を見た。岡は少女のように顔を赤めて、葉子の視線を受けきれないでひとみをたじろがしつつ目を伏せてしまった。葉子はいつまでもそのデリケートな横顔を注視《みつめ》つづけた。岡は唾《つば》を飲みこむのもはばかるような様子をしていた。
「岡さん」
そう葉子に呼ばれて、岡はやむを得ずおずおず頭を上げた。葉子は今度はなじるようにその若々しい上品な岡を見つめていた。
そこに愛子が白い西洋封筒を持って帰って来た。葉子は岡にそれを見せつけるように取り上げて、取るにも足らぬ軽いものでも扱うように飛び飛びに読んでみた。それにはただあたりまえな事だけが書いてあった。しばらく目で見た二人《ふたり》の大きくなって変わったのには驚いたとか、せっかく寄って作ってくれたごちそうをすっかり[#「すっかり」に傍点]賞味しないうちに帰ったのは残念だが、自分の性分《しょうぶん》としてはあの上我慢ができなかったのだから許してくれとか、人間は他人の見よう見まねで育って行ったのではだめだから、たといどんな境遇にいても自分の見識を失ってはいけないとか、二人《ふたり》には倉地という人間だけはどうかして近づけさせたくないと思うとか、そして最後に、愛子さんは詠歌がなかなか上手《じょうず》だったがこのごろできるか、できるならそれを見せてほしい、軍隊生活の乾燥無味なのには堪《た》えられないからとしてあった。そしてあて名は愛子、貞世の二人になっていた。
「ばかじゃないの愛さん、あなたこのお手紙でいい気になって、下手《へた》くそなぬた[#「ぬた」に傍点]でもお見せ申したんでしょう……いい気なものね……こ
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