された不快をかすかに物足らなく思うらしい表情をして、
 「それは洋行する前、いつぞや横浜に一緒に行っていただいた時くわしくお話ししたじゃありませんか。それはわたしどなたにでも申し上げていた事ですわ」
 「そんならなぜ……その時は木村のほかには保護者はいなかったから、あなたとしてはお妹さんたちを育てて行く上にも自分を犠牲にして木村に行く気でおいでだったかもしれませんがなぜ……なぜ今になっても木村との関係をそのままにしておく必要があるんです」
 岡は激しい言葉で自分が責められるかのようにはらはらしながら首を下げたり、葉子と古藤の顔とをかたみがわりに見やったりしていたが、とうとう居たたまれなくなったと見えて、静かに座を立って人のいない二階のほうに行ってしまった。葉子は岡の心持ちを思いやって引き止めなかったし、古藤は、いてもらった所がなんの役にも立たないと思ったらしくこれも引き止めはしなかった。さす花もない青銅の花《か》びん一つ……葉子は心の中で皮肉にほほえんだ。
 「それより先に伺わしてちょうだいな、倉地さんはどのくらいの程度でわたしたちを保護していらっしゃるか御存じ?」
 古藤はすぐぐっ[#「ぐっ」に傍点]と詰まってしまった。しかしすぐ盛り返して来た。
 「僕《ぼく》は岡君と違ってブルジョアの家に生まれなかったものですからデリカシーというような美徳をあまりたくさん持っていないようだから、失礼な事をいったら許してください。倉地って人は妻子まで離縁した……しかも非常に貞節らしい奥さんまで離縁したと新聞に出ていました」
 「そうね新聞には出ていましたわね。……ようございますわ、仮にそうだとしたらそれが何かわたしと関係のある事だとでもおっしゃるの」
 そういいながら葉子は少し気に障《さ》えたらしく、炭取りを引き寄せて火鉢《ひばち》に火をつぎ足した。桜炭の火花が激しく飛んで二人《ふたり》の間にはじけた。
 「まあひどいこの炭は、水をかけずに持って来たと見えるのね。女ばかりの世帯だと思って出入りの御用聞きまで人をばかにするんですのよ」
 葉子はそう言い言い眉《まゆ》をひそめた。古藤は胸をつかれたようだった。
 「僕は乱暴なもんだから……いい過ぎがあったらほんとうに許してください。僕は実際いかに親友だからといって木村ばかりをいいようにと思ってるわけじゃないんですけれども、全くあの境遇には同情してしまうもんだから……僕はあなたも自分の立場さえはっきり[#「はっきり」に傍点]いってくださればあなたの立場も理解ができると思うんだけれどもなあ。……僕はあまり直線的すぎるんでしょうか。僕は世の中を sun−clear に見たいと思いますよ。できないもんでしょうか」
 葉子はなでるような好意のほほえみを見せた。
 「あなたがわたしほんとうにうらやましゅうござんすわ。平和な家庭にお育ちになって素直《すなお》になんでも御覧になれるのはありがたい事なんですわ。そんな方《かた》ばかりが世の中にいらっしゃるとめんどうがなくなってそれはいいんですけれども、岡さんなんかはそれから見るとほんとうにお気の毒なんですの。わたしみたいなものをさえああしてたよりにしていらっしゃるのを見るといじらしくってきょうは倉地さんの見ている前でキスして上げっちまったの。……他人事《ひとごと》じゃありませんわね(葉子の顔はすぐ曇った)。あなたと同様はき[#「はき」に傍点]はきした事の好きなわたしがこんなに意地《いじ》をこじらしたり、人の気をかねたり、好んで誤解を買って出たりするようになってしまった、それを考えてごらんになってちょうだい。あなたには今はおわかりにならないかもしれませんけれども……それにしてももう五時。愛子に手料理を作らせておきましたから久しぶりで妹たちにも会ってやってくださいまし、ね、いいでしょう」
 古藤は急に固くなった。
 「僕《ぼく》は帰ります。僕は木村にはっきり[#「はっきり」に傍点]した報告もできないうちに、こちらで御飯をいただいたりするのはなんだか気がとがめます。葉子さん頼みます、木村を救ってください。そしてあなた自身を救ってください。僕はほんとうをいうと遠くに離れてあなたを見ているとどうしてもきらいになっちまうんですが、こうやってお話ししていると失礼な事をいったり自分で怒《おこ》ったりしながらも、あなたは自分でもあざむけないようなものを持っておられるのを感ずるように思うんです。境遇が悪いんだきっと。僕は一生が大事だと思いますよ。来世《らいせ》があろうが過去世《かこせ》があろうがこの一生が大事だと思いますよ。生きがいがあったと思うように生きて行きたいと思いますよ。ころんだって倒れたってそんな事を世間のようにかれこれくよくよせずに、ころんだら立って、倒れたら起き上がって行きたいと思います。僕は少し人並みはずれてばかのようだけれども、ばか者でさえがそうして行きたいと思ってるんです」
 古藤は目に涙をためて痛ましげに葉子を見やった。その時電灯が急に部屋《へや》を明るくした。
 「あなたはほんとうにどこか悪いようですね。早くなおってください。それじゃ僕はこれできょうは御免をこうむります。さようなら」
 牝鹿《めじか》のように敏感な岡さえがいっこう注意しない葉子の健康状態を、鈍重らしい古藤がいち早く見て取って案じてくれるのを見ると、葉子はこの素朴《そぼく》な青年になつかし味を感ずるのだった。葉子は立って行く古藤の後ろから、
 「愛さん貞《さあ》ちゃん古藤さんがお帰りになるといけないから早く来ておとめ申しておくれ」
 と叫んだ。玄関に出た古藤の所に台所口から貞世が飛んで来た。飛んで来はしたが、倉地に対してのようにすぐおどりかかる事は得しないで、口もきかずに、少し恥ずかしげにそこに立ちすくんだ。そのあとから愛子が手ぬぐいを頭から取りながら急ぎ足で現われた。玄関のなげしの所に照り返しをつけて置いてあるランプの光をまとも[#「まとも」に傍点]に受けた愛子の顔を見ると、古藤は魅いられたようにその美に打たれたらしく、目礼もせずにその立ち姿にながめ入った。愛子はにこり[#「にこり」に傍点]と左の口じりに笑《え》くぼの出る微笑を見せて、右手の指先が廊下の板にやっとさわるほど膝《ひざ》を折って軽く頭を下げた。愛子の顔には羞恥《しゅうち》らしいものは少しも現われなかった。
 「いけません、古藤さん。妹たちが御恩返しのつもりで一生懸命にしたんですから、おいしくはありませんが、ぜひ、ね。貞《さあ》ちゃんお前さんその帽子と剣とを持ってお逃げ」
 葉子にそういわれて貞世はすばしこく帽子だけ取り上げてしまった。古藤はおめおめと居残る事になった。
 葉子は倉地をも呼び迎えさせた。
 十二畳の座敷にはこの家に珍しくにぎやかな食卓がしつらえられた。五人がおのおの座について箸《はし》を取ろうとする所に倉地がはいって来た。
 「さあいらっしゃいまし、今夜はにぎやかですのよ。ここへどうぞ(そう云って古藤の隣の座を目で示した)。倉地さん、この方《かた》がいつもおうわさをする木村の親友の古藤義一さんです。きょう珍しくいらしってくださいましたの。これが事務長をしていらしった倉地三吉さんです」
 紹介された倉地は心置きない態度で古藤のそばにすわりながら、
 「わたしはたしか双鶴館《そうかくかん》でちょっとお目にかかったように思うが御挨拶《ごあいさつ》もせず失敬しました。こちらには始終お世話になっとります。以後よろしく」
 といった。古藤は正面から倉地をじっ[#「じっ」に傍点]と見やりながらちょっと頭を下げたきり物もいわなかった。倉地は軽々しく出した自分の今の言葉を不快に思ったらしく、苦《にが》りきって顔を正面に直したが、しいて努力するように笑顔《えがお》を作ってもう一度古藤を顧みた。
 「あの時からすると見違えるように変わられましたな。わたしも日清《にっしん》戦争の時は半分軍人のような生活をしたが、なかなかおもしろかったですよ。しかし苦しい事もたまにはおありだろうな」
 古藤は食卓を見やったまま、
 「えゝ」
 とだけ答えた。倉地の我慢はそれまでだった。一座はその気分を感じてなんとなく白《しら》け渡った。葉子の手慣れたtactでもそれはなかなか一掃されなかった。岡はその気まずさを強烈な電気のように感じているらしかった。ひとり貞世だけはしゃぎ返った。
 「このサラダは愛ねえさんがお醋《す》とオリーブ油を間違って油をたくさんかけたからきっと油っこくってよ」
 愛子はおだやかに貞世をにらむようにして、
 「貞《さあ》ちゃんはひどい」
 といった。貞世は平気だった。
 「その代わりわたしがまたお醋《す》をあとから入れたからすっぱすぎる所があるかもしれなくってよ。も少しついでにお葉《は》も入れればよかってねえ、愛ねえさん」
 みんなは思わず笑った。古藤も笑うには笑った。しかしその笑い声はすぐしずまってしまった。
 やがて古藤が突然|箸《はし》をおいた。
 「僕が悪いためにせっかくの食卓をたいへん不愉快にしたようです。すみませんでした。僕はこれで失礼します」
 葉子はあわてて、
 「まあそんな事はちっとも[#「ちっとも」に傍点]ありません事よ。古藤さんそんな事をおっしゃらずにしまいまでいらしってちょうだいどうぞ。みんなで途中までお送りしますから」
 ととめたが古藤はどうしてもきかなかった。人々は食事なかばで立ち上がらねばならなかった。古藤は靴《くつ》をはいてから、帯皮を取り上げて剣をつると、洋服のしわを延ばしながら、ちらっと愛子に鋭く目をやった。始めからほとんど物をいわなかった愛子は、この時も黙ったまま、多恨な柔和な目を大きく見開いて、中座をして行く古藤を美しくたしなめるようにじっ[#「じっ」に傍点]と見返していた、それを葉子の鋭い視覚は見のがさなかった。
 「古藤さん、あなたこれからきっとたびたびいらしってくださいましよ。まだまだ申し上げる事がたくさん残っていますし、妹たちもお待ち申していますから、きっとですことよ」
 そういって葉子も親しみを込めたひとみを送った。古藤はしゃちこ[#「しゃちこ」に傍点]張《ば》った軍隊式の立礼をして、さくさくと砂利《じゃり》の上に靴《くつ》の音を立てながら、夕闇《ゆうやみ》の催した杉森《すぎもり》の下道のほうへと消えて行った。
 見送りに立たなかった倉地が座敷のほうでひとり言のようにだれに向かってともなく「ばか!」というのが聞こえた。

    三五

 葉子と倉地とは竹柴館《たけしばかん》以来たびたび家を明けて小さな恋の冒険を楽しみ合うようになった。そういう時に倉地の家に出入りする外国人や正井などが同伴する事もあった。外国人はおもに米国の人だったが、葉子は倉地がそういう人たちを同座させる意味を知って、そのなめらかな英語と、だれでも――ことに顔や手の表情に本能的な興味を持つ外国人を――蠱惑《こわく》しないでは置かないはなやかな応接ぶりとで、彼らをとりこにする事に成功した。それは倉地の仕事を少なからず助けたに違いなかった。倉地の金まわりはますます潤沢になって行くらしかった。葉子一家は倉地と木村とから貢《みつ》がれる金で中流階級にはあり得ないほど余裕のある生活ができたのみならず、葉子は充分の仕送りを定子にして、なお余る金を女らしく毎月銀行に預け入れるまでになった。
 しかしそれとともに倉地はますますすさんで行った。目の光にさえもとのように大海にのみ見る寛濶《かんかつ》な無頓着《むとんじゃく》なそして恐ろしく力強い表情はなくなって、いらいらとあてもなく燃えさかる石炭の火のような熱と不安とが見られるようになった。ややともすると倉地は突然わけもない事にきびしく腹を立てた。正井などは木《こ》っ葉《ぱ》みじんにしかり飛ばされたりした。そういう時の倉地はあらしのような狂暴な威力を示した。
 葉子も自分の健康がだんだん悪いほうに向いて行くのを意識しないではいられなくなった。倉地の心がすさめばすさむほど葉
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