たち》なもので二つ前の日曜日までとうとうお手紙も上げないでいたら、その日突然古藤さんのほうから尋ねて来てくださったんです。古藤さんも一度お尋ねしなければいけないんだがといっていなさいました。でわたし、きょうは水曜日だから、用便《ようべん》外出の日だから、これから迎えに行って来たいと思うんです。いけないでしょうか」
 葉子は倉地だけに顔が見えるように向き直って「自分に任せろ」という目つきをしながら、
 「いいわね」
 と念を押した。倉地は秘密を伝える人のように顔色だけで「よし」と答えた。葉子はくるり[#「くるり」に傍点]と岡のほうに向き直った。
 「ようございますとも(葉子はそのよう[#「よう」に傍点]にアクセントを付けた)あなたにお迎いに行っていただいてはほんとにすみませんけれども、そうしてくださるとほんとうに結構。貞《さあ》ちゃんもいいでしょう。またもう一人《ひとり》お友だちがふえて……しかも珍しい兵隊さんのお友だち……」
 「愛ねえさんが岡さんに連れていらっしゃいってこの間そういったのよ」
 と貞世は遠慮なくいった。
 「そうそう愛子さんもそうおっしゃってでしたね」
 と岡はどこまでも上品な丁寧な言葉で事のついでのようにいった。
 岡が家を出るとしばらくして倉地も座を立った。
 「いいでしょう。うまくやって見せるわ。かえって出入りさせるほうがいいわ」
 玄関に送り出してそう葉子はいった。
 「どうかなあいつ、古藤のやつは少し骨張《ほねば》り過ぎてる……が悪かったら元々《もともと》だ……とにかくきょうおれのいないほうがよかろう」
 そういって倉地は出て行った。葉子は張り出しになっている六畳の部屋《へや》をきれいに片づけて、火鉢《ひばち》の中に香《こう》をたきこめて、心静かに目論見《もくろみ》をめぐらしながら古藤の来るのを待った。しばらく会わないうちに古藤はだいぶ手ごわくなっているようにも思えた。そこを自分の才力で丸めるのが時に取っての興味のようにも思えた。もし古藤を軟化すれば、木村との関係は今よりもつなぎがよくなる……。
 三十分ほどたったころ一つ木《ぎ》の兵営から古藤は岡に伴われてやって来た。葉子は六畳にいて、貞世を取り次ぎに出した。
 「貞世さんだね。大きくなったね」
 まるで前の古藤の声とは思われぬようなおとなびた黒ずんだ声がして、がちゃ[#「がちゃ」に傍点]がちゃと佩剣《はいけん》を取るらしい音も聞こえた。やがて岡の先に立って格好の悪いきたない黒の軍服を着た古藤が、皮類の腐ったような香《にお》いをぷんぷんさせながら葉子のいる所にはいって来た。
 葉子は他意なく好意をこめた目つきで、少女のように晴れやかに驚きながら古藤を見た。
 「まあこれが古藤さん? なんてこわい方《かた》になっておしまいなすったんでしょう。元の古藤さんはお額《ひたい》のお白い所だけにしか残っちゃいませんわ。がみ[#「がみ」に傍点]がみとしかったりなすっちゃいやです事よ。ほんとうにしばらく。もう金輪際《こんりんざい》来てはくださらないものとあきらめていましたのに、よく……よくいらしってくださいました。岡さんのお手柄ですわ……ありがとうございました」
 といって葉子はそこにならんですわった二人《ふたり》の青年をかたみがわりに見やりながら軽く挨拶《あいさつ》した。
 「さぞおつらいでしょうねえ。お湯は? お召しにならない? ちょうど沸いていますわ」
 「だいぶ臭くってお気の毒ですが、一度や二度湯につかったってなおりはしませんから……まあはいりません」
 古藤ははいって来た時のしかつめらしい様子に引きかえて顔色を軟《やわ》らがせられていた。葉子は心の中で相変わらずの simpleton だと思った。
 「そうねえ何時《なんじ》まで門限は?……え、六時? それじゃもういくらもありませんわね。じゃお湯はよしていただいてお話のほうをたんとしましょうねえ。いかが軍隊生活は、お気に入って?」
 「はいらなかった前以上にきらいになりました」
 「岡さんはどうなさったの」
 「わたしまだ猶予中ですが検査を受けたってきっとだめです。不合格のような健康を持つと、わたし軍隊生活のできるような人がうらやましくってなりません。……からだでも強くなったらわたし、もう少し心も強くなるんでしょうけれども……」
 「そんな事はありませんねえ」
 古藤は自分の経験から岡を説伏するようにそういった。
 「僕《ぼく》もその一人《ひとり》だが、鬼のような体格を持っていて、女のような弱虫が隊にいて見るとたくさんいますよ。僕はこんな心でこんな体格を持っているのが先天的の二重生活をしいられるようで苦しいんです。これからも僕はこの矛盾のためにきっと苦しむに違いない」
 「なんですねお二人とも、妙な所で謙遜《けんそん》のしっこをなさるのね。岡さんだってそうお弱くはないし、古藤さんときたらそれは意志堅固……」
 「そうなら僕はきょうもここなんかには来やしません。木村君にもとうに決心をさせているはずなんです」
 葉子の言葉を中途から奪って、古藤はしたたか自分自身をむちうつように激しくこういった。葉子は何もかもわかっているくせにしら[#「しら」に傍点]を切って不思議そうな目つきをして見せた。
 「そうだ、思いきっていうだけの事はいってしまいましょう。……岡君立たないでください。君がいてくださるとかえっていいんです」
 そういって古藤は葉子をしばらく熟視してからいい出す事をまとめようとするように下を向いた。岡もちょっと形を改めて葉子のほうをぬすみ見るようにした。葉子は眉《まゆ》一つ動かさなかった。そしてそばにいる貞世に耳うちして、愛子を手伝って五時に夕食の食べられる用意をするように、そして三縁亭《さんえんてい》から三皿《みさら》ほどの料理を取り寄せるようにいいつけて座をはずさした。古藤はおどるようにして部屋《へや》を出て行く貞世をそっ[#「そっ」に傍点]と目のはずれで見送っていたが、やがておもむろに顔をあげた。日に焼けた顔がさらに赤くなっていた。
 「僕はね……(そういっておいて古藤はまた考えた)……あなたが、そんな事はないとあなたはいうでしょうが、あなたが倉地というその事務長の人の奥さんになられるというのなら、それが悪いって思ってるわけじゃないんです。そんな事があるとすりゃそりゃしかたのない事なんだ。……そしてですね、僕にもそりゃわかるようです。……わかるっていうのは、あなたがそうなればなりそうな事だと、それがわかるっていうんです。しかしそれならそれでいいから、それを木村にはっきり[#「はっきり」に傍点]といってやってください。そこなんだ僕のいわんとするのは。あなたは怒《おこ》るかもしれませんが、僕は木村に幾度も葉子さんとはもう縁を切れって勧告しました。これまで僕があなたに黙ってそんな事をしていたのはわるかったからお断わりをします(そういって古藤はちょっと誠実に頭を下げた。葉子も黙ったまままじめにうなずいて見せた)。けれども木村からの返事は、それに対する返事はいつでも同一なんです。葉子から破約の事を申し出て来るか、倉地という人との結婚を申し出て来るまでは、自分はだれの言葉よりも葉子の言葉と心とに信用をおく。親友であってもこの問題については、君の勧告だけでは心は動かない。こうなんです。木村ってのはそんな男なんですよ(古藤の言葉はちょっと曇ったがすぐ元のようになった)。それをあなたは黙っておくのは少し変だと思います」
 「それで……」
 葉子は少し座を乗り出して古藤を励ますように言葉を続けさせた。
 「木村からは前からあなたの所に行ってよく事情を見てやってくれ、病気の事も心配でならないからといって来てはいるんですが、僕は自分ながらどうしようもない妙な潔癖があるもんだからつい伺いおくれてしまったのです。なるほどあなたは先《せん》よりはやせましたね。そうして顔の色もよくありませんね」
 そういいながら古藤はじっ[#「じっ」に傍点]と葉子の顔を見やった。葉子は姉のように一段の高みから古藤の目を迎えて鷹揚《おうよう》にほほえんでいた。いうだけいわせてみよう、そう思って今度は岡のほうに目をやった。
 「岡さん。あなた今古藤さんのおっしゃる事をすっかり[#「すっかり」に傍点]お聞きになっていてくださいましたわね。あなたはこのごろ失礼ながら家族の一人《ひとり》のようにこちらに遊びにおいでくださるんですが、わたしをどうお思いになっていらっしゃるか、御遠慮なく古藤さんにお話しなすってくださいましな。決して御遠慮なく……わたしどんな事を伺っても決して決してなんとも思いはいたしませんから」
 それを聞くと岡はひどく当惑して顔をまっ赤《か》にして処女のように羞恥《はに》かんだ。古藤のそばに岡を置いて見るのは、青銅の花《か》びんのそばに咲きかけの桜を置いて見るようだった。葉子はふと心に浮かんだその対比を自分ながらおもしろいと思った。そんな余裕を葉子は失わないでいた。
 「わたしこういう事柄《ことがら》には物をいう力はないように思いますから……」
 「そういわないでほんとうに思った事をいってみてください。僕は一徹ですからひどい思い間違いをしていないとも限りませんから。どうか聞かしてください」
 そういって古藤も肩章《けんしょう》越しに岡を顧みた。
 「ほんとうに何もいう事はないんですけれども……木村さんにはわたし口にいえないほど御同情しています。木村さんのようないい方《かた》が今ごろどんなにひとりでさびしく思っていられるかと思いやっただけでわたしさびしくなってしまいます。けれども世の中にはいろいろな運命があるのではないでしょうか。そうして銘々は黙ってそれを耐えて行くよりしかたがないようにわたし思います。そこで無理をしようとするとすべての事が悪くなるばかり……それはわたしだけの考えですけれども。わたしそう考えないと一刻も生きていられないような気がしてなりません。葉子さんと木村さんと倉地さんとの関係はわたし少しは知ってるようにも思いますけれども、よく考えてみるとかえってちっとも知らないのかもしれませんねえ。わたしは自分自身が少しもわからないんですからお三人の事なども、わからない自分の、わからない想像だけの事だと思いたいんです。……古藤さんにはそこまではお話ししませんでしたけれども、わたし自分の家の事情がたいへん苦しいので心を打ちあけるような人を持っていませんでしたが……、ことに母とか姉妹とかいう女の人に……葉子さんにお目にかかったら、なんでもなくそれができたんです。それでわたしはうれしかったんです。そうして葉子さんが木村さんとどうしても気がお合いにならない、その事も失礼ですけれども今の所ではわたし想像が違っていないようにも思います。けれどもそのほかの事はわたしなんとも自信をもっていう事ができません。そんな所まで他人が想像をしたり口を出したりしていいものかどうかもわたしわかりません。たいへん独善的に聞こえるかもしれませんが、そんな気はなく、運命にできるだけ従順にしていたいと思うと、わたし進んで物をいったりしたりするのが恐ろしいと思います。……なんだか少しも役に立たない事をいってしまいまして……わたしやはり力がありませんから、何もいわなかったほうがよかったんですけれども……」
 そう絶え入るように声を細めて岡は言葉を結ばぬうちに口をつぐんでしまった。そのあとには沈黙だけがふさわしいように口をつぐんでしまった。
 実際そのあとには不思議なほどしめやかな沈黙が続いた。たき込めた香《こう》のにおいがかすかに動くだけだった。
 「あんなに謙遜《けんそん》な岡君も(岡はあわててその賛辞らしい古藤の言葉を打ち消そうとしそうにしたが、古藤がどんどん言葉を続けるのでそのまま顔を赤くして黙ってしまった)あなたと木村とがどうしても折り合わない事だけは少なくとも認めているんです。そうでしょう」
 葉子は美しい沈黙をがさつ[#「がさつ」に傍点]な手でかき乱
前へ 次へ
全47ページ中21ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング