は、葉子は意識こそせねこれだけの心持ちに働かれていた。「そんな事で愛想が尽きてたまるものか」と鼻であしらうような心持ちに素早《すばや》くも自分を落ち着けてしまった。驚きの表情はすぐ葉子の顔から消えて、妖婦《ようふ》にのみ見る極端に肉的な蠱惑《こわく》の微笑がそれに代わって浮かみ出した。
 「ちょっと驚かされはしましたわ。……いいわ、わたしだってなんでもしますわ」
 倉地は葉子が言わず語らずのうちに感激しているのを感得していた。
 「よしそれで話はわかった。木村……木村からもしぼり上げろ、構うものかい。人間並みに見られないおれたちが人間並みに振る舞っていてたまるかい。葉ちゃん……命」
 「命!……命!![#「!!」は横一列] 命!!![#「!!!」は横一列]」
 葉子は自分の激しい言葉に目もくるめくような酔いを覚えながら、あらん限りの力をこめて倉地を引き寄せた。膳《ぜん》の上のものが音を立ててくつがえるのを聞いたようだったが、そのあとは色も音もない焔《ほのお》の天地だった。すさまじく焼けただれた肉の欲念が葉子の心を全く暗《くら》ましてしまった。天国か地獄《じごく》かそれは知らない。しかも何もかもみじんにつきくだいて、びりびりと震動する炎々たる焔《ほのお》に燃やし上げたこの有頂天《うちょうてん》の歓楽のほかに世に何者があろう。葉子は倉地を引き寄せた。倉地において今まで自分から離れていた葉子自身を引き寄せた。そして切るような痛みと、痛みからのみ来る奇怪な快感とを自分自身に感じて陶然と酔いしれながら、倉地の二の腕に歯を立てて、思いきり弾力性に富んだ熱したその肉をかんだ。
 その翌日十一時すぎに葉子は地の底から掘り起こされたように地球の上に目を開いた。倉地はまだ死んだもの同然にいぎたなく眠っていた。戸板の杉《すぎ》の赤みが鰹節《かつおぶし》の心《しん》のように半透明にまっ赤《か》に光っているので、日が高いのも天気が美しく晴れているのも察せられた。甘ずっぱく立てこもった酒と煙草《たばこ》の余燻《よくん》の中に、すき間もる光線が、透明に輝く飴色《あめいろ》の板となって縦に薄暗さの中を区切っていた。いつもならばまっ赤《か》に充血して、精力に充《み》ち満ちて眠りながら働いているように見える倉地も、その朝は目の周囲に死色をさえ注《さ》していた。むき出しにした腕には青筋が病的に思われるほど高く飛び出てはいずっていた。泳ぎ回る者でもいるように頭の中がぐらぐらする葉子には、殺人者が凶行から目ざめて行った時のような底の知れない気味わるさが感ぜられた。葉子は密《ひそ》やかにその部屋を抜け出して戸外に出た。
 降るような真昼《まひる》の光線にあうと、両眼は脳心のほうにしゃにむに引きつけられてたまらない痛さを感じた。かわいた空気は息気《いき》をとめるほど喉《のど》を干《ひ》からばした。葉子は思わずよろけて入り口の下見板《したみいた》に寄りかかって、打撲を避けるように両手で顔を隠してうつむいてしまった。
 やがて葉子は人を避けながら芝生《しばふ》の先の海ぎわに出てみた。満月に近いころの事とて潮は遠くひいていた。蘆《あし》の枯れ葉が日を浴びて立つ沮洳地《そじょち》のような平地が目の前に広がっていた。しかし自然は少しも昔の姿を変えてはいなかった。自然も人もきのうのままの営みをしていた。葉子は不思議なものを見せつけられたように茫然《ぼうぜん》として潮干潟《しおひがた》の泥《どろ》を見、うろこ雲で飾られた青空を仰いだ。ゆうべの事が真実ならこの景色は夢であらねばならぬ。この景色が真実ならゆうべの事は夢であらねばならぬ。二つが両立しようはずはない。……葉子は茫然《ぼうぜん》としてなお目にはいって来るものをながめ続けた。
 痲痺《まひ》しきったような葉子の感覚はだんだん回復して来た。それと共に瞑眩《めまい》を感ずるほどの頭痛をまず覚えた。次いで後腰部に鈍重な疼《いた》みがむくむくと頭をもたげるのを覚えた。肩は石のように凝っていた。足は氷のように冷えていた。
 ゆうべの事は夢ではなかったのだ……そして今見るこの景色も夢ではあり得ない……それはあまりに残酷だ、残酷だ。なぜゆうべをさかいにして、世の中はかるたを裏返したように変わっていてはくれなかったのだ。
 この景色のどこに自分は身をおく事ができよう。葉子は痛切に自分が落ち込んで行った深淵《しんえん》の深みを知った。そしてそこにしゃがん[#「しゃがん」に傍点]でしまって、苦《にが》い涙を泣き始めた。
 懺悔《ざんげ》の門の堅く閉ざされた暗い道がただ一筋、葉子の心の目には行く手に見やられるばかりだった。

    三四

 ともかくも一家の主となり、妹たちを呼び迎えて、その教育に興味と責任とを持ち始めた葉子は、自然自然に妻らしくまた母らしい本能に立ち帰って、倉地に対する情念にもどこか肉から精神に移ろうとする傾きができて来るのを感じた。それは楽しい無事とも考えれば考えられぬ事はなかった。しかし葉子は明らかに倉地の心がそういう状態の下《もと》には少しずつ硬《こわ》ばって行き冷えて行くのを感ぜずにはいられなかった。それが葉子には何よりも不満だった。倉地を選んだ葉子であってみれば、日がたつに従って葉子にも倉地が感じ始めたと同様な物足らなさが感ぜられて行った。落ち着くのか冷えるのか、とにかく倉地の感情が白熱して働かないのを見せつけられる瞬間は深いさびしみを誘い起こした。こんな事で自分の全我を投げ入れた恋の花を散ってしまわせてなるものか。自分の恋には絶頂があってはならない。自分にはまだどんな難路でも舞い狂いながら登って行く熱と力とがある。その熱と力とが続く限り、ぼんやり腰を据《す》えて周囲の平凡な景色などをながめて満足してはいられない。自分の目には絶巓《ぜってん》のない絶巓ばかりが見えていたい。そうした衝動は小休《おや》みなく葉子の胸にわだかまっていた。絵島丸の船室で倉地が見せてくれたような、何もかも無視した、神のように狂暴な熱心――それを繰り返して行きたかった。
 竹柴館《たけしばかん》の一夜はまさしくそれだった。その夜葉子は、次の朝になって自分が死んで見いだされようとも満足だと思った。しかし次の朝生きたままで目を開くと、その場で死ぬ心持ちにはもうなれなかった。もっと嵩《こう》じた歓楽を追い試みようという欲念、そしてそれができそうな期待が葉子を未練にした。それからというもの葉子は忘我渾沌《ぼうがこんとん》の歓喜に浸るためには、すべてを犠牲としても惜しまない心になっていた。そして倉地と葉子とは互い互いを楽しませそしてひき寄せるためにあらん限りの手段を試みた。葉子は自分の不可犯性(女が男に対して持ついちばん強大な蠱惑《こわく》物)のすべてまで惜しみなく投げ出して、自分を倉地の目に娼婦《しょうふ》以下のものに見せるとも悔いようとはしなくなった。二人《ふたり》は、はた目には酸鼻《さんび》だとさえ思わせるような肉欲の腐敗の末遠く、互いに淫楽《いんらく》の実《み》を互い互いから奪い合いながらずるずると壊《こわ》れこんで行くのだった。
 しかし倉地は知らず、葉子に取ってはこのいまわしい腐敗の中にも一縷《いちる》の期待が潜んでいた。一度ぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]とつかみ得たらもう動かないある物がその中に横たわっているに違いない、そういう期待を心のすみからぬぐい去る事ができなかったのだった。それは倉地が葉子の蠱惑《こわく》に全く迷わされてしまって再び自分を回復し得ない時期があるだろうというそれだった。恋をしかけたもののひけめ[#「ひけめ」に傍点]として葉子は今まで、自分が倉地を愛するほど倉地が自分を愛してはいないとばかり思った。それがいつでも葉子の心を不安にし、自分というものの居すわり所までぐらつかせた。どうかして倉地を痴呆《ちほう》のようにしてしまいたい。葉子はそれがためにはある限りの手段を取って悔いなかったのだ。妻子を離縁させても、社会的に死なしてしまっても、まだまだ物足らなかった。竹柴館の夜に葉子は倉地を極印付きの凶状持ちにまでした事を知った。外界から切り離されるだけそれだけ倉地が自分の手に落ちるように思っていた葉子はそれを知って有頂天《うちょうてん》になった。そして倉地が忍ばねばならぬ屈辱を埋め合わせるために葉子は倉地が欲すると思わしい激しい情欲を提供しようとしたのだ。そしてそうする事によって、葉子自身が結局自己を銷尽《しょうじん》して倉地の興味から離れつつある事には気づかなかったのだ。
 とにもかくにも二人の関係は竹柴館の一夜から面目を改めた。葉子は再び妻から情熱の若々しい情人になって見えた。そういう心の変化が葉子の肉体に及ぼす変化は驚くばかりだった。葉子は急に三つも四つも若やいだ。二十六の春を迎えた葉子はそのころの女としてはそろそろ老いの徴候をも見せるはずなのに、葉子は一つだけ年を若く取ったようだった。
 ある天気のいい午後――それは梅のつぼみがもう少しずつふくらみかかった午後の事だったが――葉子が縁側に倉地の肩に手をかけて立ち並びながら、うっとり[#「うっとり」に傍点]と上気して雀《すずめ》の交わるのを見ていた時、玄関に訪れた人の気配がした。
 「だれでしょう」
 倉地は物|惰《う》さそうに、
 「岡だろう」
 といった。
 「いゝえきっと正井さんよ」
 「なあに岡だ」
 「じゃ賭《か》けよ」
 葉子はまるで少女のように甘ったれた口調でいって玄関に出て見た。倉地がいったように岡だった。葉子は挨拶《あいさつ》もろくろくしないでいきなり[#「いきなり」に傍点]岡の手をしっかり[#「しっかり」に傍点]と取った。そして小さな声で、
 「よくいらしってね。その間着《あいぎ》のよくお似合いになる事。春らしいいい色地ですわ。今倉地と賭《か》けをしていた所。早くお上がり遊ばせ」
 葉子は倉地にしていたように岡のやさ肩に手を回してならびながら座敷にはいって来た。
 「やはりあなたの勝ちよ。あなたはあて[#「あて」に傍点]事がお上手《じょうず》だから岡さんを譲って上げたらうまくあたったわ。今|御褒美《ごほうび》を上げるからそこで見ていらっしゃいよ」
 そう倉地にいうかと思うと、いきなり岡を抱きすくめてその頬《ほお》に強い接吻《せっぷん》を与えた。岡は少女のように恥じらってしいて葉子から離れようともがいた。倉地は例の渋いように口もとをねじってほほえみながら、
 「ばか!……このごろこの女は少しどうかしとりますよ。岡さん、あなた一つ背中でもどやしてやってください。……まだ勉強か」
 といいながら葉子に天井を指さして見せた。葉子は岡に背中を向けて「さあどやしてちょうだい」といいながら、今度は天井を向いて、
 「愛さん、貞《さあ》ちゃん、岡さんがいらしってよ。お勉強が済んだら早くおりておいで」
 と澄んだ美しい声で蓮葉《はすは》に叫んだ。
 「そうお」
 という声がしてすぐ貞世が飛んでおりて来た。
 「貞《さあ》ちゃんは今勉強が済んだのか」
 と倉地が聞くと貞世は平気な顔で、
 「ええ今済んでよ」
 といった。そこにはすぐはなやかな笑いが破裂した。愛子はなかなか下に降りて来ようとはしなかった。それでも三人は親しくチャブ台を囲んで茶を飲んだ。その日岡は特別に何かいい出したそうにしている様子だったが。やがて、
 「きょうはわたし少しお願いがあるんですが皆様きいてくださるでしょうか」
 重苦しくいい出した。
 「えゝえゝあなたのおっしゃる事ならなんでも……ねえ貞《さあ》ちゃん(とここまでは冗談らしくいったが急にまじめになって)……なんでもおっしゃってくださいましな、そんな他人行儀をしてくださると変ですわ」
 と葉子がいった。
 「倉地さんもいてくださるのでかえっていいよいと思いますが古藤《ことう》さんをここにお連れしちゃいけないでしょうか。……木村さんから古藤さんの事は前から伺っていたんですが、わたしは初めてのお方にお会いするのがなんだか億劫《おっくう》な質《
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