」
「それがどうして?」
葉子は左の片|肘《ひじ》をちゃぶ[#「ちゃぶ」に傍点]台について、その指先で鬢《びん》のほつれをかき上げながら、平気な顔で正面から倉地を見返した。
「どうしてがあるか。おれは赤の他人におれの女を養わすほど腑抜《ふぬ》けではないんだ」
「まあ気の小さい」
葉子はなおも動《どう》じなかった。そこに婢《おんな》がはいって来たので話の腰が折られた。二人《ふたり》はしばらく黙っていた。
「おれはこれから竹柴《たけしば》へ行く。な、行こう」
「だって明朝困りますわ。わたしが留守だと妹たちが学校に行けないもの」
「一筆書いて学校なんざあ休んで留守をしろといってやれい」
葉子はもちろんちょっとそんな事をいって見ただけだった。妹たちの学校に行ったあとでも、苔香園《たいこうえん》の婆《ばあ》さんに言葉をかけておいて家を明ける事は常《つね》始終だった。ことにその夜は木村の事について倉地に合点させておくのが必要だと思ったのでいい出された時から一緒する下心《したごころ》ではあったのだ。葉子はそこにあったペンを取り上げて紙切れに走り書きをした。倉地が急病になったので介抱のために今夜はここで泊まる。あすの朝学校の時刻までに帰って来なかったら、戸締まりをして出かけていい。そういう意味を書いた。その間に倉地は手早く着がえをして、書類を大きなシナ鞄《かばん》に突っ込んで錠《じょう》をおろしてから、綿密にあくかあかないかを調べた。そして考えこむようにうつむいて上目をしながら、両手をふところにさし込んで鍵《かぎ》を腹帯《はらおび》らしい所にしまい込んだ。
九時すぎ十時近くなってから二人は連れ立って下宿を出た。増上寺《ぞうじょうじ》前に来てから車を傭《やと》った。満月に近い月がもうだいぶ寒空《さむぞら》高くこうこうとかかっていた。
二人を迎えた竹柴館の女中は倉地を心得ていて、すぐ庭先に離れになっている二間《ふたま》ばかりの一軒に案内した。風はないけれども月の白さでひどく冷え込んだような晩だった。葉子は足の先が氷で包まれたほど感覚を失っているのを覚えた。倉地の浴したあとで、熱めな塩湯にゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]浸ったのでようやく人心地《ひとごこち》がついて戻《もど》って来た時には、素早《すばや》い女中の働きで酒肴《しゅこう》がととのえられていた。葉子が倉地と遠出らしい事をしたのはこれが始めてなので、旅先にいるような気分が妙に二人を親しみ合わせた。ましてや座敷に続く芝生《しばふ》のはずれの石垣《いしがき》には海の波が来て静かに音を立てていた。空には月がさえていた。妹たちに取り巻かれたり、下宿人の目をかねたりしていなければならなかった二人はくつろいだ姿と心とで火鉢《ひばち》により添った。世の中は二人きりのようだった。いつのまにか良人《おっと》とばかり倉地を考え慣れてしまった葉子は、ここに再び情人を見いだしたように思った。そして何とはなく倉地をじらしてじらしてじらし抜いたあげくに、その反動から来る蜜《みつ》のような歓語を思いきり味わいたい衝動に駆られていた。そしてそれがまた倉地の要求でもある事を本能的に感じていた。
「いいわねえ。なぜもっと早くこんな所に来なかったでしょう。すっかり苦労も何も忘れてしまいましたわ」
葉子はすべすべとほてって少しこわばるような頬《ほお》をなでながら、とろけるように倉地を見た。もうだいぶ酒の気のまわった倉地は、女の肉感をそそり立てるようなにおいを部屋《へや》じゅうにまき散らす葉巻をふかしながら、葉子を尻目《しりめ》にかけた。
「それは結構。だがおれにはさっき[#「さっき」に傍点]の話が喉《のど》につかえて残っとるて。胸《むな》くそが悪いぞ」
葉子はあきれたように倉地を見た。
「木村の事?」
「お前はおれの金を心まかせに使う気にはなれないんか」
「足りませんもの」
「足りなきゃなぜいわん」
「いわなくったって木村がよこすんだからいいじゃありませんか」
「ばか!」
倉地は右の肩を小山のようにそびやかして、上体を斜《しゃ》に構えながら葉子をにらみつけた。葉子はその目の前で海から出る夏の月のようにほほえんで見せた。
「木村は葉ちゃんに惚《ほ》れとるんだよ」
「そして葉ちゃんはきらってるんですわね」
「冗談は措《お》いてくれ。……おりゃ真剣でいっとるんだ。おれたちは木村に用はないはずだ。おれは用のないものは片っ端《ぱし》から捨てるのが立てまえだ。嬶《かかあ》だろうが子だろうが……見ろおれを……よく見ろ。お前はまだこのおれを疑っとるんだな。あとがまには木村をいつでもなおせるように食い残しをしとるんだな」
「そんな事はありませんわ」
「ではなんで手紙のやり取りなどしおるんだ」
「お金がほしいからなの」
葉子は平気な顔をしてまた話をあとに戻《もど》した。そして独酌《どくしゃく》で杯を傾けた。倉地は少しどもるほど怒りが募っていた。
「それが悪いといっとるのがわからないか……おれの面《つら》に泥《どろ》を塗りこくっとる……こっちに来い(そういいながら倉地は葉子の手を取って自分の膝《ひざ》の上に葉子の上体をたくし込んだ)。いえ、隠さずに。今になって木村に未練が出て来おったんだろう。女というはそうしたもんだ。木村に行きたくば行け、今行け。おれのようなやくざ[#「やくざ」に傍点]を構っとると芽は出やせんから。……お前にはふて腐れがいっち[#「いっち」に傍点]よく似合っとるよ……ただしおれをだましにかかると見当違いだぞ」
そういいながら倉地は葉子を突き放すようにした。葉子はそれでも少しも平静を失ってはいなかった。あでやかにほほえみながら、
「あなたもあんまりわからない……」
といいながら今度は葉子のほうから倉地の膝《ひざ》に後ろ向きにもたれかかった。倉地はそれを退けようとはしなかった。
「何がわからんかい」
しばらくしてから、倉地は葉子の肩越しに杯を取り上げながらこう尋ねた。葉子には返事がなかった。またしばらくの沈黙の時間が過ぎた。倉地がもう一度何かいおうとした時、葉子はいつのまにかしくしくと泣いていた。倉地はこの不意打ちに思わずはっ[#「はっ」に傍点]としたようだった。
「なぜ木村から送らせるのが悪いんです」
葉子は涙を気取《けど》らせまいとするように、しかし打ち沈んだ調子でこういい出した。
「あなたの御様子でお心持ちが読めないわたしだとお思いになって? わたしゆえに会社をお引きになってから、どれほど暮らし向きに苦しんでいらっしゃるか……そのくらいはばかでもわたしにはちゃん[#「ちゃん」に傍点]と響いています。それでもしみったれ[#「しみったれ」に傍点]た事をするのはあなたもおきらい、わたしもきらい……わたしは思うようにお金をつかってはいました。いましたけれども……心では泣いてたんです。あなたのためならどんな事でも喜んでしよう……そうこのごろ思ったんです。それから木村にとうとう手紙を書きました。わたしが木村をなんと思ってるか、今さらそんな事をお疑いになるのあなたは。そんな水臭い回し気をなさるからついくやしくなっちまいます。……そんなわたしだかわたしではないか……(そこで葉子は倉地から離れてきちん[#「きちん」に傍点]とすわり直して袂《たもと》で顔をおおうてしまった)泥棒《どろぼう》をしろとおっしゃるほうがまだ増しです……あなたお一人《ひとり》でくよ[#「くよ」に傍点]くよなさって……お金の出所を……暮らし向きが張り過ぎるなら張り過ぎると……なぜ相談に乗らせてはくださらないの……やはりあなたはわたしを真身《しんみ》には思っていらっしゃらないのね……」
倉地は一度は目を張って驚いたようだったが、やがて事もなげに笑い出した。
「そんな事を思っとったのか。ばかだなあお前は。御好意は感謝します……全く。しかしなんぼやせても枯れても、おれは女の子の二人《ふたり》や三人養うに事は欠かんよ。月に三百や四百の金が手回らんようなら首をくくって死んで見せる。お前をまで相談に乗せるような事はいらんのだよ。そんな陰にまわった心配事はせん事にしようや。こののんき坊のおれまでがいらん気をもませられるで……」
「そりゃうそです」
葉子は顔をおおうたままきっぱり[#「きっぱり」に傍点]と矢継ぎ早にいい放った。倉地は黙ってしまった。葉子もそのまましばらくはなんとも言い出《い》でなかった。
母屋《おもや》のほうで十二を打つ柱時計の声がかすかに聞こえて来た。寒さもしんしんと募っていたには相違なかった。しかし葉子はそのいずれをも心の戸の中までは感じなかった。始めは一種のたくらみから狂言でもするような気でかかったのだったけれども、こうなると葉子はいつのまにか自分で自分の情におぼれてしまっていた。木村を犠牲にしてまでも倉地におぼれ込んで行く自分があわれまれもした。倉地が費用の出所をついぞ打ち明けて相談してくれないのが恨みがましく思われもした。知らず知らずのうちにどれほど葉子は倉地に食い込み、倉地に食い込まれていたかをしみじみと今さらに思い知った。どうなろうとどうあろうと倉地から離れる事はもうできない。倉地から離れるくらいなら自分はきっと死んで見せる。倉地の胸に歯を立ててその心臓をかみ破ってしまいたいような狂暴な執念が葉子を底知れぬ悲しみへ誘い込んだ。
心の不思議な作用として倉地も葉子の心持ちは刺青《いれずみ》をされるように自分の胸に感じて行くらしかった。やや程経《ほどた》ってから倉地は無感情のような鈍い声でいい出した。
「全くはおれが悪かったのかもしれない。一時は全く金には弱り込んだ。しかしおれは早や世の中の底潮《そこしお》にもぐり込んだ人間だと思うと度胸がすわってしまいおった。毒も皿《さら》も食ってくれよう、そう思って(倉地はあたりをはばかるようにさらに声を落とした)やり出した仕事があの組合の事よ。水先案内のやつらはくわしい海図を自分で作って持っとる。要塞地《ようさいち》の様子も玄人《くろうと》以上ださ。それを集めにかかってみた。思うようには行かんが、食うだけの金は余るほど出る」
葉子は思わずぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として息気《いき》がつまった。近ごろ怪しげな外国人が倉地の所に出入りするのも心当たりになった。倉地は葉子が倉地の言葉を理解して驚いた様子を見ると、ほとほと悪魔のような顔をしてにやり[#「にやり」に傍点]と笑った。捨てばちな不敵さと力とがみなぎって見えた。
「愛想《あいそ》が尽きたか……」
愛想が尽きた。葉子は自分自身に愛想が尽きようとしていた。葉子は自分の乗った船はいつでも相客《あいきゃく》もろともに転覆して沈んで底知れぬ泥土《でいど》の中に深々ともぐり込んで行く事を知った。売国|奴《ど》、国賊、――あるいはそういう名が倉地の名に加えられるかもしれない……と思っただけで葉子は怖毛《おぞけ》をふるって、倉地から飛びのこうとする衝動を感じた。ぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした瞬間にただ瞬間だけ感じた。次にどうかしてそんな恐ろしいはめ[#「はめ」に傍点]から倉地を救い出さなければならないという殊勝な心にもなった。しかし最後に落ち着いたのは、その深みに倉地をことさら突き落としてみたい悪魔的な誘惑だった。それほどまでの葉子に対する倉地の心尽くしを、臆病《おくびょう》な驚きと躊躇《ちゅうちょ》とで迎える事によって、倉地に自分の心持ちの不徹底なのを見下げられはしないかという危惧《きぐ》よりも、倉地が自分のためにどれほどの堕落でも汚辱でも甘んじて犯すか、それをさせてみて、満足しても満足しても満足しきらない自分の心の不足を満たしたかった。そこまで倉地を突き落とすことは、それだけ二人《ふたり》の執着を強める事だとも思った。葉子は何事を犠牲に供しても灼熱《しゃくねつ》した二人の間の執着を続けるばかりでなくさらに強める術《すべ》を見いだそうとした。倉地の告白を聞いて驚いた次の瞬間に
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