車夫が梶棒《かじぼう》をあげようとする時|女将《おかみ》が祝儀袋をその手に渡すのが見えた。
「さようなら」
「お大事に」
はばかるように車の内外《うちそと》から声がかわされた。幌《ほろ》にのしかかって来る風に抵抗しながら車は闇《やみ》の中を動き出した。
向かい風がうなり[#「うなり」に傍点]を立てて吹きつけて来ると、車夫は思わず車をあおらせて足を止めるほどだった。この四五日|火鉢《ひばち》の前ばかりにいた葉子に取っては身を切るかと思われるような寒さが、厚い膝《ひざ》かけの目まで通して襲って来た。葉子は先ほど女将《おかみ》の言葉を聞いた時にはさほどとも思っていなかったが、少しほどたった今になってみると、それがひしひしと身にこたえるのを感じ出した。自分はひょっ[#「ひょっ」に傍点]とするとあざむかれている、もてあそびものにされている。倉地はやはりどこまでもあの妻子と別れる気はないのだ。ただ長い航海中の気まぐれから、出来心に自分を征服してみようと企てたばかりなのだ。この恋のいきさつ[#「いきさつ」に傍点]が葉子から持ち出されたものであるだけに、こんな心持ちになって来ると、葉子は矢もた
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