けるような事は一度もなかった。それは倉地自身が告白するように破天荒《はてんこう》な事だったらしい。二人《ふたり》は、初めて恋を知った少年少女が世間《せけん》も義理も忘れ果てて、生命《いのち》さえ忘れ果てて肉体を破ってまでも魂を一つに溶かしたいとあせる、それと同じ熱情をささげ合って互い互いを楽しんだ。楽しんだというよりも苦しんだ。その苦しみを楽しんだ。倉地はこの家に移って以来新聞も配達させなかった。郵便だけは移転通知をして置いたので倉地の手もとに届いたけれども、倉地はその表書きさえ目を通そうとはしなかった。毎日の郵便はつやの手によって束《たば》にされて、葉子が自分の部屋《へや》に定めた玄関わきの六畳の違《ちが》い棚《だな》にむなしく積み重ねられた。葉子の手もとには妹たちからのほかには一枚のはがきさえ来なかった。それほど世間から自分たちを切り放しているのを二人《ふたり》とも苦痛とは思わなかった。苦痛どころではない、それが幸いであり誇りであった。門には「木村」とだけ書いた小さい門札《もんさつ》が出してあった。木村という平凡な姓は二人の楽しい巣を世間にあばくような事はないと倉地がいい出したのだ
前へ
次へ
全465ページ中107ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング