いらいらするほど待ちに待たれた。品川台場《しながわだいば》沖あたりで打ち出す祝砲がかすかに腹にこたえるように響いて、子供らは往来でそのころしきりにはやった南京花火《なんきんはなび》をぱち[#「ぱち」に傍点]ぱちと鳴らしていた。天気がいいので女中たちははしゃぎ[#「はしゃぎ」に傍点]きった冗談などを言い言いあらゆる部屋《へや》を明け放して、仰山《ぎょうさん》らしくはたきや箒《ほうき》の音を立てた。そしてただ一人《ひとり》この旅館では居残っているらしい葉子の部屋を掃除《そうじ》せずに、いきなり[#「いきなり」に傍点]縁側にぞうきんをかけたりした。それが出て行けがしの仕打ちのように葉子には思えば思われた。
 「どこか掃除の済んだ部屋があるんでしょう。しばらくそこを貸してくださいな。そしてここもきれいにしてちょうだい。部屋の掃除もしないでぞうきんがけなぞしたってなんにもなりはしないわ」
 と少し剣《けん》を持たせていってやると、けさ来たのとは違う、横浜生まれらしい、悪《わる》ずれのした中年の女中は、始めて縁側から立ち上がって小めんどうそうに葉子を畳廊下一つを隔てた隣の部屋に案内した。
 けさまで客がいたらしく、掃除は済んでいたけれども、火鉢《ひばち》だの、炭取りだの、古い新聞だのが、部屋のすみにはまだ置いたままになっていた。あけ放した障子からかわいた暖かい光線が畳の表三|分《ぶ》ほどまでさしこんでいる、そこに膝《ひざ》を横くずしにすわりながら、葉子は目を細めてまぶしい光線を避けつつ、自分の部屋を片づけている女中の気配《けはい》に用心の気を配った。どんな所にいても大事な金目《かねめ》なものをくだらないものと一緒にほうり出しておくのが葉子の癖だった。葉子はそこにいかにも伊達《だて》で寛濶《かんかつ》な心を見せているようだったが、同時に下らない女中ずれが出来心でも起こしはしないかと思うと、細心に監視するのも忘れはしなかった。こうして隣の部屋に気を配っていながらも、葉子は部屋のすみにきちょうめんに折りたたんである新聞を見ると、日本に帰ってからまだ新聞というものに目を通さなかったのを思い出して、手に取り上げて見た。テレビン油のような香《にお》いがぷんぷんするのでそれがきょうの新聞である事がすぐ察せられた。はたして第一面には「聖寿万歳」と肉太《にくぶと》に書かれた見出しの下に貴顕の肖像が掲げられてあった。葉子は一か月の余も遠のいていた新聞紙を物珍しいものに思ってざっと目をとおし始めた。
 一面にはその年の六月に伊藤《いとう》内閣と交迭してできた桂《かつら》内閣に対していろいろな注文を提出した論文が掲げられて、海外通信にはシナ領土内における日露《にちろ》の経済的関係を説いたチリコフ伯の演説の梗概《こうがい》などが見えていた。二面には富口《とみぐち》という文学博士が「最近日本におけるいわゆる婦人の覚醒《かくせい》」という続き物の論文を載せていた。福田《ふくだ》という女の社会主義者の事や、歌人として知られた与謝野晶子《よさのあきこ》女史の事などの名が現われているのを葉子は注意した。しかし今の葉子にはそれが不思議に自分とはかけ離れた事のように見えた。
 三面に来ると四号活字で書かれた木部孤※[#「※」は「たけかんむりにエにふしづくり」、11−16]《きべこきょう》という字が目に着いたので思わずそこを読んで見る葉子はあっ[#「あっ」に傍点]と驚かされてしまった。
  ○某大汽船会社船中の大怪事
    事務長と婦人船客との道ならぬ恋――
    船客は木部孤※[#「※」は「たけかんむりにエにふしづくり」、12−2]の先妻
 こういう大業《おおぎょう》な標題がまず葉子の目を小痛《こいた》く射つけた。
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 「本邦にて最も重要なる位置にある某汽船会社の所有船○○丸の事務長は、先ごろ米国航路に勤務中、かつて木部孤※[#「※」は「たけかんむりにエにふしづくり」、12−5]に嫁《か》してほどもなく姿を晦《くら》ましたる莫連《ばくれん》女某が一等船客として乗り込みいたるをそそのかし、その女を米国に上陸せしめずひそかに連れ帰りたる怪事実あり。しかも某女といえるは米国に先行せる婚約の夫《おっと》まである身分のものなり。船客に対して最も重き責任を担《にな》うべき事務長にかかる不埒《ふらち》の挙動ありしは、事務長一個の失態のみならず、その汽船会社の体面にも影響する由々《ゆゆ》しき大事なり。事の仔細《しさい》はもれなく本紙の探知したる所なれども、改悛《かいしゅん》の余地を与えんため、しばらく発表を見合わせおくべし。もしある期間を過ぎても、両人の醜行改まる模様なき時は、本紙は容赦なく詳細の記事を掲げて畜生道《ちくしょうどう》に陥りたる二人《ふたり》を懲戒し、併
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