ざいますから、たんと込み合いはいたしますまいけれども」
 そう応《こた》えながら女中は、昨晩おそく着いて来た、ちょっと得体《えたい》の知れないこの美しい婦人の素性《すじょう》を探ろうとするように注意深い目をやった。葉子は葉子で「浜」という言葉などから、横浜という土地を形にして見るような気持ちがした。
 短くなってはいても、なんにもする事なしに一日を暮らすかと思えば、その秋の一日の長さが葉子にはひどく気になり出した。明後日東京に帰るまでの間に、買い物でも見て歩きたいのだけれども、土産物《みやげもの》は木村が例の銀行切手をくずしてあり余るほど買って持たしてよこしたし、手もとには哀れなほどより金は残っていなかった。ちょっとでもじっ[#「じっ」に傍点]としていられない葉子は、日本で着ようとは思わなかったので、西洋向きに注文した華手《はで》すぎるような綿入れに手を通しながら、とつ追いつ考えた。
 「そうだ古藤《ことう》に電話でもかけてみてやろう」
 葉子はこれはいい思案だと思った。東京のほうで親類たちがどんな心持ちで自分を迎えようとしているか、古藤のような男に今度の事がどう響いているだろうか、これは単に慰みばかりではない、知っておかなければならない大事な事だった。そう葉子は思った。そして女中を呼んで東京に電話をつなぐように頼んだ。
 祭日であったせいか電話は思いのほか早くつながった。葉子は少しいたずららしい微笑を笑窪《えくぼ》のはいるその美しい顔に軽く浮かべながら、階段を足早に降りて行った。今ごろになってようやく床を離れたらしい男女の客がしどけないふうをして廊下のここかしこで葉子とすれ違った。葉子はそれらの人々には目もくれずに帳場に行って電話室に飛び込むとぴっしり[#「ぴっしり」に傍点]と戸をしめてしまった。そして受話器を手に取るが早いか、電話に口を寄せて、
 「あなた義一さん? あゝそう。義一さんそれは滑稽《こっけい》なのよ」
 とひとりで[#「ひとりで」に傍点]にすらすらといってしまってわれながら葉子ははっ[#「はっ」に傍点]と思った。その時の浮き浮きした軽い心持ちからいうと、葉子にはそういうより以上に自然な言葉はなかったのだけれども、それではあまりに自分というものを明白にさらけ出していたのに気が付いたのだ。古藤は案のじょう答え渋っているらしかった。とみには返事もしないで、ちゃん[#「ちゃん」に傍点]と聞こえているらしいのに、ただ「なんです?」と聞き返して来た。葉子にはすぐ東京の様子を飲み込んだように思った。
 「そんな事どうでもよござんすわ。あなたお丈夫でしたの」
 といってみると「えゝ」とだけすげない返事が、機械を通してであるだけにことさらすげなく響いて来た。そして今度は古藤のほうから、
 「木村……木村君はどうしています。あなた会ったんですか」
 とはっきり[#「はっきり」に傍点]聞こえて来た。葉子はすかさず、
 「はあ会いましてよ。相変わらず丈夫でいます。ありがとう。けれどもほんとうにかわいそうでしたの。義一さん……聞こえますか。明後日《あさって》私東京に帰りますわ。もう叔母《おば》の所には行けませんからね、あすこには行きたくありませんから……あのね、透矢町《すきやちょう》のね、双鶴館《そうかくかん》……つがいの鶴《つる》……そう、おわかりになって?……双鶴館に行きますから……あなた来てくだされる?……でもぜひ聞いていただかなければならない事があるんですから……よくって?……そうぜひどうぞ。明々後日《しあさって》の朝? ありがとうきっと[#「きっと」に傍点]お待ち申していますからぜひですのよ」
 葉子がそういっている間、古藤の言葉はしまいまで奥歯に物のはさまったように重かった。そしてややともすると葉子との会見を拒もうとする様子が見えた。もし葉子の銀のように澄んだ涼しい声が、古藤を選んで哀訴するらしく響かなかったら、古藤は葉子のいう事を聞いてはいなかったかもしれないと思われるほどだった。
 朝から何事も忘れたように快かった葉子の気持ちはこの電話一つのために妙にこじれてしまった。東京に帰れば今度こそはなかなか容易ならざる反抗が待ちうけているとは十二|分《ぶん》に覚悟して、その備えをしておいたつもりではいたけれども、古藤の口うらから考えてみると面とぶつかった実際は空想していたよりも重大であるのを思わずにはいられなかった。葉子は電話室を出るとけさ始めて顔を合わした内儀《おかみ》に帳場|格子《ごうし》の中から挨拶《あいさつ》されて、部屋《へや》にも伺いに来ないでなれなれしく言葉をかけるその仕打ちにまで不快を感じながら、匆々《そうそう》三階に引き上げた。
 それからはもうほんとうになんにもする事がなかった。ただ倉地の帰って来るのばかりが
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