《あわ》せて汽船会社の責任を問う事とすべし。読者請う刮目《かつもく》してその時を待て」
[#ここで字下げ終わり]
 葉子は下くちびるをかみしめながらこの記事を読んだ。いったい何新聞だろうと、その時まで気にも留めないでいた第一面を繰り戻《もど》して見ると、麗々《れいれい》と「報正新報」と書してあった。それを知ると葉子の全身は怒りのために爪《つめ》の先まで青白くなって、抑《おさ》えつけても抑えつけてもぶるぶると震え出した。「報正新報」といえば田川《たがわ》法学博士の機関新聞だ。その新聞にこんな記事が現われるのは意外でもあり当然でもあった。田川夫人という女はどこまで執念《しゅうね》く卑しい女なのだろう。田川夫人からの通信に違いないのだ。「報正新報」はこの通信を受けると、報道の先鞭《せんべん》をつけておくためと、読者の好奇心をあおるためとに、いち早くあれだけの記事を載せて、田川夫人からさらにくわしい消息の来るのを待っているのだろう。葉子は鋭くもこう推《すい》した。もしこれがほかの新聞であったら、倉地の一身上の危機でもあるのだから、葉子はどんな秘密な運動をしても、この上の記事の発表はもみ消さなければならないと胸を定めたに相違なかったけれども、田川夫人が悪意をこめてさせている仕事だとして見ると、どの道《みち》書かずにはおくまいと思われた。郵船会社のほうで高圧的な交渉でもすればとにかく、そのほかには道がない。くれぐれも憎い女は田川夫人だ……こういちずに思いめぐらすと葉子は船の中での屈辱を今さらにまざまざと心に浮かべた。
 「お掃除《そうじ》ができました」
 そう襖越《ふすまご》しにいいながらさっきの女中は顔も見せずにさっさ[#「さっさ」に傍点]と階下《した》に降りて行ってしまった。葉子は結局それを気安い事にして、その新聞を持ったまま、自分の部屋《へや》に帰った。どこを掃除したのだと思われるような掃除のしかたで、はたきまでが違《ちが》い棚《だな》の下におき忘られていた。過敏にきちょうめんできれい好きな葉子はもうたまらなかった。自分でてきぱき[#「てきぱき」に傍点]とそこいらを片づけて置いて、パラソルと手携《てさ》げを取り上げるが否やその宿を出た。
 往来に出るとその旅館の女中が四五人早じまいをして昼間《ひるま》の中を野毛山《のげやま》の大神宮のほうにでも散歩に行くらしい後ろ姿を見た。そそくさ[#「そそくさ」に傍点]と朝の掃除を急いだ女中たちの心も葉子には読めた。葉子はその女たちを見送るとなんという事なしにさびしく思った。
 帯の間にはさんだままにしておいた新聞の切り抜きが胸を焼くようだった。葉子は歩き歩きそれを引き出して手携《てさ》げにしまいかえた。旅館は出たがどこに行こうというあて[#「あて」に傍点]もなかった葉子はうつむいて紅葉坂《もみじざか》をおりながら、さしもしないパラソルの石突きで霜解《しもどけ》けになった土を一足《ひとあし》一足突きさして歩いて行った。いつのまにかじめじめした薄《うす》ぎたない狭い通りに来たと思うと、はしなくもいつか古藤と一緒に上がった相模屋《さがみや》の前を通っているのだった。「相模屋」と古めかしい字体で書いた置《お》き行燈《あんどん》の紙までがその時のままですすけていた。葉子は見覚えられているのを恐れるように足早にその前を通りぬけた。
 停車場前はすぐそこだった。もう十二時近い秋の日ははなやかに照り満ちて、思ったより数多い群衆が運河にかけ渡したいくつかの橋をにぎやかに往来していた。葉子は自分|一人《ひとり》がみんなから振り向いて見られるように思いなした。それがあたりまえの時ならば、どれほど多くの人にじろじろと見られようとも度を失うような葉子ではなかったけれども、たった今いまいましい新聞の記事を見た葉子ではあり、いかにも西洋じみた野暮《やぼ》くさい綿入《わたい》れを着ている葉子であった。服装に塵《ちり》ほどでも批点の打ちどころがあると気がひけてならない葉子としては、旅館を出て来たのが悲しいほど後悔された。
 葉子はとうとう税関|波止場《はとば》の入り口まで来てしまった。その入り口の小さな煉瓦《れんが》造りの事務所には、年の若い監視補たちが二重金ぼたんの背広に、海軍帽をかぶって事務を取っていたが、そこに近づく葉子の様子を見ると、きのう上陸した時から葉子を見知っているかのように、その飛び放れて華手《はで》造りな姿に目を定めるらしかった。物好きなその人たちは早くも新聞の記事を見て問題となっている女が自分に違いないと目星をつけているのではあるまいかと葉子は何事につけても愚痴っぽくひけ目になる自分を見いだした。葉子はしかしそうしたふうに見つめられながらもそこを立ち去る事ができなかった。もしや倉地が昼飯でも食べにあの大きな五
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