…助けてくれそうなものだのに……神様! あんまりです……
 葉子は身もだえもできない激痛の中で、シーツまでぬれとおるほどな油汗をからだじゅうにかきながら、こんな事をつぎつぎに口走るのだったが、それはもとより言葉にはならなかった。ただ時々痛いというのがむごたらしく聞こえるばかりで、傷ついた牛のように叫ぶほかはなかった。
 ひどい吹き降りの中に夜が来た。しかし葉子の容態は険悪になって行くばかりだった。電灯が故障のために来《こ》ないので、室内には二本の蝋燭《ろうそく》が風にあおられながら、薄暗くともっていた。熱度を計った医員は一度一度そのそばまで行って、目をそばめながら度盛《ども》りを見た。
 その夜苦しみ通した葉子は明けがた近く少し痛みからのがれる事ができた。シーツを思いきりつかんでいた手を放して、弱々と額の所をなでると、たびたび看護婦がぬぐってくれたのにも係わらず、ぬるぬるするほど手も額も油汗でしとどになっていた。「とても助からない」と葉子は他人事《ひとごと》のように思った。そうなってみると、いちばん強い望みはもう一度倉地に会ってただ一目その顔を見たいという事だった。それはしかし望んでもかなえられる事でないのに気づいた。葉子の前には暗いものがあるばかりだった。葉子はほっ[#「ほっ」に傍点]とため息をついた。二十六年間の胸の中の思いを一時に吐き出してしまおうとするように。
 やがて葉子はふと[#「ふと」に傍点]思い付いて目でつやを求めた。夜通し看護に余念のなかったつやは目ざとくそれを見て寝床に近づいた。葉子は半分目つきに物をいわせながら、
 「枕《まくら》の下枕の下」
 といった。つやが枕の下をさがすとそこから、手術の前の晩につやが書き取った書き物が出て来た。葉子は一生懸命な努力でつやにそれを焼いて捨てろ、今見ている前で焼いて捨てろと命じた。葉子の命令はわかっていながら、つやが躊躇《ちゅうちょ》しているのを見ると、葉子はかっ[#「かっ」に傍点]と腹が立って、その怒りに前後を忘れて起き上がろうとした。そのために少しなごんでいた下腹部の痛みが一時に押し寄せて来た。葉子は思わず気を失いそうになって声をあげながら、足を縮めてしまった。けれども一生懸命だった。もう死んだあとにはなんにも残しておきたくない。なんにもいわないで死のう。そういう気持ちばかりが激しく働いていた。
 「焼いて」
 悶絶《もんぜつ》するような苦しみの中から、葉子はただ一言《ひとこと》これだけを夢中になって叫んだ。つやは医員に促されているらしかったが、やがて一台の蝋燭《ろうそく》を葉子の身近に運んで来て、葉子の見ている前でそれを焼き始めた。めら[#「めら」に傍点]めらと紫色の焔《ほのお》が立ち上がるのを葉子は確かに見た。
 それを見ると葉子は心からがっかり[#「がっかり」に傍点]してしまった。これで自分の一生はなんにもなくなったと思った。もういい……誤解されたままで、女王は今死んで行く……そう思うとさすがに一抹《いちまつ》の哀愁がしみじみと胸をこそいで通った。葉子は涙を感じた。しかし涙は流れて出ないで、目の中が火のように熱くなったばかりだった。
 またもひどい疼痛《とうつう》が襲い始めた、葉子は神の締《し》め木《ぎ》にかけられて、自分のからだが見る見るやせて行くのを自分ながら感じた。人々が薄気味わるげに見守っているのにも気がついた。
 それでもとうとうその夜も明け離れた。
 葉子は精《せい》も根《こん》も尽き果てようとしているのを感じた。身を切るような痛みさえが時々は遠い事のように感じられ出したのを知った。もう仕残していた事はなかったかと働きの鈍った頭を懸命に働かして考えてみた。その時ふと[#「ふと」に傍点]定子の事が頭に浮かんだ。あの紙を焼いてしまっては木部と定子とがあう機会はないかもしれない。だれかに定子を頼んで……葉子はあわてふためきながらその人を考えた。
 内田……そうだ内田に頼もう。葉子はその時不思議ななつかしさ[#「なつかしさ」に傍点]をもって内田の生涯《しょうがい》を思いやった。あの偏頗《へんぱ》で頑固《がんこ》で意地《いじ》っぱりな内田の心の奥の奥に小さく潜んでいる澄みとおった魂が始めて見えるような心持ちがした。
 葉子はつやに古藤を呼び寄せるように命じた。古藤の兵営にいるのはつやも知っているはずだ。古藤から内田にいってもらったら内田が来てくれないはずはあるまい、内田は古藤を愛しているから。
 それから一時間苦しみ続けた後に、古藤の例の軍服姿は葉子の病室に現われた。葉子の依頼をようやく飲みこむと、古藤はいちずな顔に思い入った表情をたたえて、急いで座を立った。
 葉子はだれにとも何にともなく息気《いき》を引き取る前に内田の来るのを祈った。
 しかし小石川《こ
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