に思えた。葉子は我慢ができなかった。いきなり右手を振りほどいて力任せに口の所を掻《か》い払った。しかし医員の力はすぐ葉子の自由を奪ってしまった。葉子は確かにそれにあらがっているつもりだった。
 「倉地が生きている間――死ぬものか、……どうしてももう一度その胸に……やめてください。狂気で死ぬとも殺されたくはない。やめて……人殺し」
 そう思ったのかいったのか、自分ながらどっちとも定めかねながら葉子はもだえた。
 「生きる生きる……死ぬのはいやだ……人殺し!……」
 葉子は力のあらん限り戦った、医者とも薬とも……運命とも……葉子は永久に戦った。しかし葉子は二十も数を読まないうちに、死んだ者同様に意識なく医員らの目の前に横たわっていたのだ。

    四九

 手術を受けてから三日を過ぎていた。その間非常に望ましい経過を取っているらしく見えた容態は三日目の夕方から突然激変した。突然の高熱、突然の腹痛、突然の煩悶《はんもん》、それは激しい驟雨《しゅうう》が西風に伴われてあらしがかった天気模様になったその夕方の事だった。
 その日の朝からなんとなく頭の重かった葉子は、それが天候のためだとばかり思って、しいてそういうふうに自分を説服して、憂慮を抑《おさ》えつけていると、三時ごろからどんどん熱が上がり出して、それと共に下腹部の疼痛《とうつう》が襲って来た。子宮底|穿孔《せんこう》?![#「?!」は横一列] なまじっか医書を読みかじった葉子はすぐそっちに気を回した。気を回してはしいてそれを否定して、一時《いっとき》延ばしに容態の回復を待ちこがれた。それはしかしむだだった。つやがあわてて当直医を呼んで来た時には、葉子はもう生死を忘れて床の上に身を縮み上がらしておいおいと泣いていた。
 医員の報告で院長も時を移さずそこに駆けつけた。応急の手あてとして四個の氷嚢《ひょうのう》が下腹部にあてがわれた。葉子は寝衣《ねまき》がちょっと肌にさわるだけの事にも、生命をひっぱたか[#「ひっぱたか」に傍点]れるような痛みを覚えて思わずきゃっ[#「きゃっ」に傍点]と絹を裂くような叫び声をたてた。見る見る葉子は一寸《いっすん》の身動きもできないくらい疼痛《とうつう》に痛めつけられていた。
 激しい音を立てて戸外では雨の脚《あし》が瓦《かわら》屋根をたたいた。むしむしする昼間《ひるま》の暑さは急に冷《ひ》え冷《び》えとなって、にわかに暗くなった部屋《へや》の中に、雨から逃げ延びて来たらしい蚊がぶーんと長く引いた声を立てて飛び回った。青白い薄|闇《やみ》に包まれて葉子の顔は見る見るくずれて行った。やせ細っていた頬《ほお》はことさらげっそりとこけて、高々とそびえた鼻筋の両側には、落ちくぼんだ両眼が、中有《ちゅうう》の中を所きらわずおどおどと何物かをさがし求めるように輝いた。美しい弧を描いて延びていた眉《まゆ》は、めちゃくちゃにゆがんで、眉間《みけん》の八の字の所に近々と寄り集まった。かさかさにかわききった口びるからは吐く息気《いき》ばかりが強く押し出された。そこにはもう女の姿はなかった。得体《えたい》のわからない動物がもだえもがいているだけだった。
 間《ま》を置いてはさし込んで来る痛み……鉄の棒をまっ赤《か》に焼いて、それで下腹の中を所きらわずえぐり回すような[#底本では「やうな」]痛みが来ると、葉子は目も口もできるだけ堅く結んで、息気《いき》もつけなくなってしまった。何人そこに人がいるのか、それを見回すだけの気力もなかった。天気なのかあらしなのか、それもわからなかった。稲妻が空を縫って走る時には、それが自分の痛みが形になって現われたように見えた。少し痛みが退くとほっ[#「ほっ」に傍点]と吐息《といき》をして、助けを求めるようにそこに付いている医員に目ですがった。痛みさえなおしてくれれば殺されてもいいという心と、とうとう自分に致命的な傷を負わしたと恨む心とが入り乱れて、旋風のようにからだじゅうを通り抜けた。倉地がいてくれたら……木村がいてくれたら……あの親切な木村がいてくれたら……そりゃだめだ。もうだめだ。……だめだ。貞世だって苦しんでいるんだ、こんな事で……痛い痛い痛い……つやはいるのか(葉子は思いきって目を開いた。目の中が痛かった)いる。心配そうな顔をして、……うそだあの顔が何が心配そうな顔なものか……みんな他人だ……なんの縁故もない人たちだ……みんなのんきな顔をして何事もせずにただ見ているんだ……この悩みの百分の一でも知ったら……あ、痛い痛い痛い! 定子……お前はまだどこかに生きているのか、貞世は死んでしまったのだよ、定子……わたしも死ぬんだ死ぬよりも苦しい、この苦しみは……ひどい、これで死なれるものか……こんなにされて死なれるものか……何か……どこか……だれか…
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