小指はやせ細って骨ばかりのようになりながらも、美しい線を描いて折れ曲がっていた。
 「それはぜひお延ばしくださいお願いしますから……お医者さんもお医者さんだと思います」
 「わたしがわたしだもんですからね」
 葉子はしげしげと岡を見やった。その目からは涙がすっかり[#「すっかり」に傍点]かわいて、額の所には油汗がにじみ出ていた。触れてみたら氷のようだろうと思われるような青白い冷たさが生《は》えぎわかけて漂っていた。
 「ではせめてわたしに立ち会わしてください」
 「それほどまでにあなたはわたしがお憎いの?……麻酔《ますい》中にわたしのいう囈口《うわごと》でも聞いておいて笑い話の種になさろうというのね。えゝ、ようごさいますいらっしゃいまし、御覧に入れますから。呪《のろ》いのためにやせ細ってお婆《ばあ》さんのようになってしまったこのからだを頭から足の爪先《つまさき》まで御覧に入れますから……今さらおあきれになる余地もありますまいけれど」
 そういって葉子はやせ細った顔にあらん限りの媚《こ》びを集めて、流眄《ながしめ》に岡を見やった。岡は思わず顔をそむけた。
 そこに若い医員がつやをつれてはいって来た。葉子は手術のしたくができた事を見て取った。葉子は黙って医員にちょっと挨拶《あいさつ》したまま衣紋《えもん》をつくろってすぐ座を立った。それに続いて部屋《へや》を出て来た岡などは全く無視した態度で、怪しげな薄暗い階子段《はしごだん》を降りて、これも暗い廊下を四五|間《けん》たどって手術室の前まで来た。つやが戸のハンドルを回してそれをあけると、手術室からはさすがにまぶしい豊かな光線が廊下のほうに流れて来た。そこで葉子は岡のほうに始めて振り返った。
 「遠方をわざわざ御苦労さま。わたしはまだあなたに肌《はだ》を御覧に入れるほどの莫連者《ばくれんもの》にはなっていませんから……」
 そう小さな声でいって悠々《ゆうゆう》と手術室にはいって行った。岡はもちろん押し切ってあとについては来なかった。
 着物を脱ぐ間に、世話に立ったつやに葉子はこうようやくにしていった。
 「岡さんがはいりたいとおっしゃっても入れてはいけないよ。それから……それから(ここで葉子は何がなしに涙ぐましくなった)もしわたしが囈言《うわごと》のような事でもいいかけたら、お前に一生のお願いだからね、わたしの口を……口を抑《おさ》えて殺してしまっておくれ。頼むよ。きっと!」
 婦人科病院の事とて女の裸体は毎日幾人となく扱いつけているくせに、やはり好奇な目を向けて葉子を見守っているらしい助手たちに、葉子はやせさらばえた自分をさらけ出して見せるのが死ぬよりつらかった。ふとした出来心から岡に対していった言葉が、葉子の頭にはいつまでもこびり付いて、貞世はもうほんとうに死んでしまったもののように思えてしかたがなかった。貞世が死んでしまったのに何を苦しんで手術を受ける事があろう。そう思わないでもなかった。しかし場合が場合でこうなるよりしかたがなかった。
 まっ白な手術衣を着た医員や看護婦に囲まれて、やはりまっ白な手術台は墓場のように葉子を待っていた。そこに近づくと葉子はわれにもなく急におびえが出た。思いきり鋭利なメスで手ぎわよく切り取ってしまったらさぞさっぱり[#「さっぱり」に傍点]するだろうと思っていた腰部の鈍痛も、急に痛みが止まってしまって、からだ全体がしびれるようにしゃちこば[#「しゃちこば」に傍点]って冷や汗が額にも手にもしとどに流れた。葉子はただ一つの慰藉《いしゃ》のようにつやを顧みた。そのつやの励ますような顔をただ一つのたよりにして、細かく震えながら仰向けに冷やっとする手術台に横たわった。
 医員の一人《ひとり》が白布の口あてを口から鼻の上にあてがった。それだけで葉子はもう息気《いき》がつまるほどの思いをした。そのくせ目は妙にさえて目の前に見る天井板の細かい木理《もくめ》までが動いて走るようにながめられた。神経の末梢《まっしょう》が大風にあったようにざわざわと小気味わるく騒ぎ立った。心臓が息気《いき》苦しいほど時々働きを止めた。
 やがて芳芬《ほうふん》の激しい薬滴が布の上にたらされた。葉子は両手の脈所《みゃくどころ》を医員に取られながら、その香《にお》いを薄気味わるくかいだ。
 「ひとーつ」
 執刀者が鈍い声でこういった。
 「ひとーつ」
 葉子のそれに応ずる声は激しく震えていた。
 「ふたーつ」
 葉子は生命の尊《とうと》さをしみじみと思い知った。死もしくは死の隣へまでの不思議な冒険……そう思うと血は凍るかと疑われた。
 「ふたーつ」
 葉子の声はますます震えた。こうして数を読んで行くうちに、頭の中がしんしんと冴《さ》えるようになって行ったと思うと、世の中がひとりでに遠のくよう
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